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●ささやかな再会

 音を立てずローラに近づき、その近くにさりげなく立つ姿があった。
 天御柱学院の生徒のようだ。ローラはまるで気づかない。
 正しくは、ローラも彼女の存在に気づいてはいる。だが、それが誰かは判らない。知らない生徒だと思っている。
 それでいい。
 それくらい完璧に『すずか(偽名)』を演じるのが水無月 睡蓮(みなづき・すいれん)の目標だったのだから。
 ローにどう話しかけようか、とすずか――睡蓮は思った。
 彼女の派手な活躍、あるいは暗躍、を知る人は、睡蓮を誤解しているかもしれない。……無論その誤解もまた、睡蓮が誘導したものなのだが。
 変装や変身は、その気になれば思うのままの睡蓮なのだ。何かを作り変える、あるいは創り出す、それが彼女の望み。ゆえに、まったく違う自分を演出するのは彼女にとって自然である。
「私のカレー、食べてもらえますか?」
 ローラのそばで作っていたキーマカレーを睡蓮は差し出した。
 料理の腕は並だが、アイデアと発想は良かったはず、と彼女は自負している。実際、香ばしくまたひきにくの甘みも引き出されていて、良い一皿だった。
「うん、おいしい。ワタシ、ローラ、山葉涼司校長の秘書」
「私はすずか……」
 口で告げつつ睡蓮はそっと、脳波でも語りかけた。まだ気づかない?――と。
「?」
 テレパシーを受け取って不思議そうな顔をしたローラが、向日葵の大輪のような笑みを浮かべるまでさして時間は必要としなかった。
「すい……!」
 と言いかけたところでローは口をつぐんだ。いくらか知恵はつけたらしい。
「大丈夫か、睡蓮、ここまで来て?」
 小声で告げるローラに、『すずか』は平然と言うのである。
「大丈夫だと思いますよ。まあ、仮に追求を受けることになったとしても、山葉校長を黙らせるくらいのカードは持ってるつもりですよ」
 それでもあたりをはばかりながらローは言った。
「ところで九頭切丸、どうしたか?」
「変装……なんてできるわけないじゃないですか。どうしてもというなら、まず外装からとっかえないと……」
 睡蓮はくすくすと笑った。
「……というわけで今日は、あちらの物陰から監視してくれています」
 わずかに視線で示す。たしかに木々の間の闇から、鉄 九頭切丸(くろがね・くずきりまる)の甲冑が見え隠れしていた。
 知らない人が気づいたとして、お嬢様たちの誰かの護衛と映ったことだろう。
 知っている人は気づいているのかどうか、そればかりは神のみぞ知るといったところだ。
「人体に危険なくらい危うい料理が出現すれば、九頭切丸が防衛のために破壊するはずです……幸い、九頭切丸のセンサーにひっかかるくらいデンジャラスな料理はまだ出ていないようですね」
 再び睡蓮はテレパシーを使った。
「えっと……Ρはどうですか?
 多分これからは昔と全然違う生活になると思いますけど、どうなりたいとか、何がしたいとか……ありますか? できることなら、応援しますよ」

「うん。まず。『普通の生活』に慣れたい、思う」
 ローの生活はこれまで特殊すぎた。こうして野外で料理するだけのものでも、彼女にとっては貴重な経験なのだろう。
「普通、ね……」
 ローもわかっているはずだ。その『普通』の基準はひどくあいまいで、ややもすると『退屈』『平凡』に墜ちる可能性があるということを。しかし『安心』『平和』といえないこともない。
「それが本当に望ましいことなのかどうか、といった話をしはじめると形而上学的になるからやめましょう」
 さておき、知りたいことがあります――と睡蓮は脳波で問いかけた。
「あなたたちには、クランジとなる以前の過去があるのですか? 記憶が……?」
 これに答えるに、ローは初めて口を使わなかった。
「うん。クランジみんな……少なくともワタシ、知ってる限りならみんな、人間ベース」
 人間ベース、つまり、人間が素材になっているということだ。
「ワタシ、孤児……ローも孤児。親、知らない」
 どこかから買われた来た子どもらしいのだ。ローが知る自分は、クランジとしての自分でしかなかった。
 そこからローは、いくつかの事実を語った。
 クランジの過半数は赤ん坊のうちに連れてこられた少女だという。捨て子だったのか、売られたのか、それとも誘拐されたのかは……誰も知らない。だが一方で、行き場のない少女が連れてこられ、騙され、あるいは志願して、改造された例も多いのだという。
 過去がなく、人とのふれあいをもとめつづけたΦ(ファイ)はきっと前者だろう。Υ(ユプシロン)ことユマ・ユウヅキも、ユマという名前はとっさに名乗っただけのものであり、自分には過去がないと供述している。
 逆に、姉妹としての記憶があるΟ(オミクロン)、Ξ(クシー)は恐らく後者だ。
(「とすれば……『お父さん、お母さん』と最期に口走ったラムダも、ある程度育ってからクランジに改造されたのでしょうね」)
 なるほど、と合点したように睡蓮はうなずいた。
 さて、と、彼女はローラに別れを告げた。
「それではこのあたりで失礼しますね……」
 山葉涼司が、こちらを見ているのに気づいたのである。涼司も感づいているようだ。それでいて動かないのは彼も、やはり睡蓮の見立て通り、事を荒立てるわけにはいかないと考えていると思われた。
 だからといって、長居できるものではない。
 別れを惜しむローに、「また逢いに来ますから」と告げて、睡蓮、いや、『すずか』はさりげなく木々の間に姿を消した。
(「ロー、『睡蓮や雄軒もいない。寂しい』って言ってくれましたね。忘れませんよ……」)
 その唇に、小さな笑みが浮かんでいた。