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●prologue

 ようやく、夏。
 蒼空にはゆらぐ太陽。
 それでも梅雨の名残は、まだ立ち去りがたいというのかぐずぐずと、アスファルトの合間にとどまっていた。目に見えないほど薄い白い蒸気が、霧のように一面にたちこめているかのようだ。
 蒸気が、スーツの裾から身体に入り込んでくる。
 水原 ゆかり(みずはら・ゆかり)はうっすらと汗をかいていた。
 それは汗ではなく、白っぽい湿気が肌に張りついただけのものかもしれないけれど。
 本日のゆかりはツイードのスーツ姿だ。よくアイロンがけしたパンツにはしわひとつない。黒い髪は頭の後ろで束ねていた。この暑さにもかかわらずネクタイもしっかりと絞めており、男装の麗人然としてどこか艶やっぽい。
 空気は丸いが陽差しは強い。ゆかりはサングラスをかけている。黒い遮光板ごしにビル群を見上げた。
「過去に二千八百メートル以上の狙撃が地球で行われた……ましてここはパラミタよ。それ以上もありえるわ」
 彼女は知っていた。今から十年と少し前、オーストラリア軍の狙撃兵がアフガンにて、距離二千八百十五メートルものロングレンジの狙撃に成功したという事例を。
 ここは空京、浮遊大陸にあってなお、高層ビルは林立している。少しでも天に近づこうという、人間のあくなき欲望の象徴であるかのように。
 空京屈指の一流ホテル、空京ロイヤルホテルから見れば、ゆかりの立っている地点は三キロを超える距離になる。
 警備にあたって、犯行の疑いのあるスナイパー情報が流されていた。
 クランジΙ(イオタ)
 塵殺寺院が生み出した殺人兵器の生き残り。
 人間をベースに改造された機晶姫で、一流のスナイパーだという。
 無論、狙撃に適した場所は事前に警備当局も把握しており、近隣のビルには監視の目も光っているはずだ。しかし、漏れというものはあるだろう。
「だから、通常のスナイパー対策よりずっと広範囲の調査を行うってわけね」
 ゆかりのパートナーマリエッタ・シュヴァール(まりえった・しゅばーる)は投げ出すような口調だった。
 どうも、マリエッタの機嫌はよくないらしい。ゆかりと同様パンツスーツに身を包んでいるが、視線は足元に向けられたままだし、ずっとふてくされている。
「なにか不満でも?」
「気乗りしないだけよ、カーリー」
 なにしろ有名人だ。今回警備の対象となるジャネット・ソノダ女史についてはマリエッタも知っていた。
「『パラミタは女性に対し抑圧的な国家である』と批判しているけど、どう考えてもパラミタは女の子が強いんですけど……?」
 実情を知らないにもほどがある。地球に一定数存在するというアンチ・パラミタ的な考え方に取り憑かれている人間としか思えなかった。どんな場所であれ団体であれ、いや、個人であっても、自分がよく知らず理解しようともしない対象に理由なき反感だけ抱く人間というのはいるものだ。
 気持ちはわかるので、ゆかりもそれ以上追求したりはしなかった。自分の故郷をあしざまに言われれば反発したくなるに決まっている。
「けど、それとこれとは話が別。きっちり護ってみせるから」
 マリエッタは活を入れるように、自分の頬をパンパンと叩いた。教導団というプロに所属している以上、プロの仕事をこなす決意だ。最優先は任務。個人的な意見はその次である。
 この付近から開始して、空京ロイヤルホテルの周辺に不審物が設置されていないかどうか調べよう。おそらく敵は陽動を行うだろう。とすれば陽動作戦に使用される発煙筒やら爆発物を発見する必要がある。見つかれば、それらのものは可能な限り排除しておきたい。
 ゆかりとマリエッタはうなずき合うと作業を開始した。