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第7章 秘文『還無の扉』


 一度、男爵と魔道書達が話をした、中庭と裏庭の間にあるパーゴラの下のベンチ。
 そこに再び、パレットとリピカがいた。
 今、男爵に代わって彼らとここにいるのは、鷹勢とルカルカ、人化した白颯の3人である。


「……『万象の諱』を捜して、ここにきたんだ?」
 パレットは、少し咎めるような口調で鷹勢に尋ねた。
 鷹勢は答えなかった。
「あの書を追っていたらろくなことにならないって、俺、言ったけど。
 俺の言葉は信用できない?」
「禁書処刑人の噂を、聞いたから」
 鷹勢の声は、今にもどもりそうに力がこもっていた。
「『万象の諱』を消し去ろうとする禁書処刑人が、マーケットに来るかもしれないって……
 僕は、本物の『万象の諱』を見たことはないけど、君と、とても似通った書だと聞いたことがあるから。
 君が『万象の諱』だと言っているわけじゃない。けど……」

「処刑人が君を『万象の諱』だと思って、君に危害を加えるんじゃないかと思って。
 そうなったら僕は、嫌だから。
 そのためにも、本当に『万象の諱』が実存するのか、ここで確かめたかったんだ」
 パレットは、瞠目した。



「鷹勢は」
 小さな声で、白颯はルカルカに囁いた。だんだん喋り方が上手くなってきているようだ。
「自分で、気付いているか分からないけど」
「何?」
「多分……あの魔道書と、“めい子とのように”なりたいと思ってる」
 めい子、は、今は亡き鷹勢のパートナーだ。もとは鷹勢の実家にいた、彼の姉や的な人物だったという強化人間であった。子供の頃から鷹勢と一緒だった白颯はもちろんそれを知っている。
「つまり――契約したいと思ってる、ってことね?」
 ルカルカが訊くと、白颯はこっくり、頷いた。

 リピカはただ心配そうに、パレットを見つめているだけだった。


 その時、だ。


「パレット!!」
 リピカの悲鳴のような声が聞こえた。全員がそちらを、振り返った。
 ゆっくりと近づいてくる、巨漢の影が見える。

「処刑人……!?」
 どこを見ているか分からない目で、しかし真っ直ぐに、一同のもとへと歩いてくる。
 無言で、しかしただ信念に突き動かされて。


「皆、下がって!」
 ルカルカがそう言って前に出るより早く、何故か鷹勢が、パレットを庇うように前に出る。
 しかも、その鷹勢を後ろに押しやるように白颯が前に出るものだから何だかごちゃごちゃである。
 ルカルカの手招きでリピカも彼らの背後に入ったが、その時リピカは、奇妙に穏やかなパレットの表情を見た。

「――みんな、」

 パレットが何かお言おうとした時、急に鷹勢が、持っていた何かを処刑人に投げつけた。
 さっき買った、『万象の諱』の偽書だ。
 そして、突然パレットを突き飛ばした。
「な、何っ!?」
「逃げろ、パレット! あいつはきっと、君を消しに来たんだ」
「私もそう思います……パレット、逃げてください……!」
 リピカもまた、『万象の諱』とパレットには何かの繋がりがあると感じているのだ。
 処刑人は、鷹勢が時間稼ぎのために投げつけた偽書を拾い上げた。

「みんな、大丈夫だから落ち着いて。無闇に一人だけ離れない方がいいかも」
 この場で唯一人の契約者であるルカルカは、全員を守ろうと、皆の前に立って処刑人と対峙する。


「逃すか!!」
 突然声がして、処刑人の背後から飛びかかってきた影が、刀影を閃かせるのが見えた。
 処刑人は、どうっと倒れる。その手から偽書が落ちる。
 ヨルディアの情報をもとに追ってきた宵一だった。
「宵一気を付けて、そいつはまだシールドが生きてるわ」
 ヨルディアが叫んでいるうちに、第2陣という格好でロレンツォとアリアンナ、さらに遅れてネーブルと画太郎が駆けつける。

――禁書は……『万象の諱』はどこだ……

「往生際が悪いヨ!」
「駄目だよ……魔道書さんを、傷つけないで……?」

 次々に、やって来た契約者たちが容赦なく攻撃する。どうやらルカルカが出ていくまでもなさそうだ。
 ひとしきり続いた攻撃が止むと、処刑人は地面に倒れ伏していた。
 が。


――『万象の…諱』……世界を滅ぼす……邪悪な知識の…書……


 普通の人間なら到底耐えられない攻撃をあびて、ぼろぼろの体でなお、処刑人は立ち上がる。
 相変わらずどこを見ているか分からない目。ただ、足元に落ちた偽書に惑わされなかったことは確かだ。
 一歩踏み出す。
 その妄執はもはや脅威である。
 一瞬、その凄味に契約者たちも押し黙り、すぐには次の行動に移れなかった。その隙に。


「……」
 壁になって自分を守る人たちを静かにかき分け、パレットが進み出た。
 あまりの穏やかな動きにのまれ、一瞬誰も、制止できなかった。
「パレット!」
 我に返ったリピカが叫びを上げた時、すでにパレットは処刑人の目前に立っていた。
 どこを見ているか分からない処刑人の目が、パレットを認識したらしいのが分かる。


「お前、『万象の諱』の本物を見分けられるのか」
 それはリピカでさえ聞いたことのない、パレットの冷たい声だった。
「ならば――“俺”を見るがいい」

 その言葉の次の瞬間には、パレットは書物の姿で、処刑人の目の前に浮かんでいた。
 ハッとなった契約者たちだが、パレットと処刑人の位置が近すぎて、すぐには手が出せなかった。

 表紙も裏表紙も焼き切れた、中の紙がむき出しの古書。
 浮かんだまま、ぱらぱらと頁がめくれていき……


 突然、処刑人が膝から崩れ落ちた。
 同時にパレットは人型に戻り、処刑人の前に立っている。

 何が起こったのか誰も分からない、この場に、どこか毅然と立つパレットの声が、凛と響く。

「俺が分かったか。なるほど、禁書の知識だけは確かにあるみたいだな。
 あの当時でさえ、知らない人間には『万象の諱』の偽書、としか思われていなかったのに」
 

「そう、俺は――秘文『還無の扉』(ひぶん・かんむのとびら)


『万象の諱』が悪用された時、この書物自体――つまり俺の命と引き換えにその効果を無に帰すために、秘術の達人がしたためた……“万物の安全弁”」


「お前たちは、魔道書を書く人間がほぼすべからく、力に酔いしれて世界を欲していると、決めつけていたかもしれない。
 けど、己の欲に走って魔術の力を欲した人間ばかりじゃない。
 魔術の世界の深淵を心底知っていてそれに畏怖し、浅学な愚か者がそれを悪用する可能性に心痛めていた魔道士もいたんだ。
 誰も彼も、魔道書に関わった人間はのべつ幕無しに刑台に送ったお前らには分からないだろうがな」


 どういうわけか、パレットの言葉の前に、処刑人から思念のシールドが薄れて消えていく。
 見ている間に、体自体が一回り小さくなったのではないかとすら、思えた。


「『万象の諱』の悪用を阻止するために、お前たち禁書処刑人が動いているというのなら……

 分かったはずだ。俺がいる限り、その懸念は無用なんだと。お前たちが存在する意味はない」


「お前たちのしていることには、意味がない」



 沈黙が流れた。
 誰も、しばらくの間動かなかった。


 やがて、処刑人は立ち上がった。
 容姿は、何も変わったところはない。相変わらず、目はどこを見ているか分からない。
 しかし、どこか体には力が入っていない。思念のシールドは完全に消えた。

 何も言わず――あの「我々は正しい」さえ言わず――処刑人は踵を返す。
 漂うような動きだった。

 通り過ぎる彼に、一瞬身構えた契約者たちを、パレットの静かな声が制した。
「いいよ。もうあいつは何もできない」

 目的こそが存在する意義だったから。
 その目的を、決定的に否定されたのだとしたら。

「多分、もうあいつは消えるしかない。……そういう存在だったんだ」

 パーゴラの下で、そこにいた全員が、その背中を黙って見送った。




 館の方へ、何の目的もなく、流れるようにふらふらと歩いていく。
 漂うようなその巨漢の前に、横から出て来た何者かが、出会い頭にぶつかりそうになって、足を止めてその顔を見た。
「おや、あなたは……」
 処刑人と呼ばれた巨漢は、その男に何の注意も払わず、歩き去っていく。
 しかし、男の方は違った。
「何とも醜い、目障りな存在ですねぇ。利用価値のある過去の叡智を、消し去ろうという下衆な観念の具現化は」

 男は、去っていく背中に向かって指を指すと、それを水平に降った。
 その指から熱線でも放たれているかのように、処刑人の背に、緑がかった火傷のような跡が走った。

 男は立ち去った。
 処刑人は二、三歩歩き、どうっと地面に倒れた。
 程なく、砂のように散って、消えた。