どことは知れぬ、薄闇に覆われた石造りの閉鎖空間内にて。
ひとりの青年が、冷たい石床の上で目を覚ましました。
彼の名は、ジェイデン・マートン。蒼空学園の生徒です。
まだ駆け出しではあるものの、彼は紛れも無く、コントラクターのひとりです。
「ここは、一体どこだ……そうだ、マレンディ! マレンディは、無事か!?」
ジェイデンは自身のパートナーであるシャンバラ人の娘の名を連呼しますが、薄闇の中では彼の声だけが陰々と響くばかりで、返事は全く聞こえてきません。
ジェイデンは必死の思いで、尚もパートナーの名を呼びながら出口を探します。
すると、不意に何者かが、闇の向こうに姿を現しました。
「何だ、お前は?」
ジェイデンが、震える声で問いかけました。
彼の前に姿を現したのは、死者を彷彿とさせる白い肌が特徴的なスキンヘッドの中年男性で、どういう訳か、上質な生地のタキシードを纏っています。
しかし何よりも異質だったのは、そのスキンヘッド男の首から上の至るところで、鋭い刃物の先端が皮膚の内側から、真っ白な体表を切り裂くようにして無数に突き出ていることでした。
見たところ立体映像か何かのようですが、それでもこの不気味な姿に不快感を覚えてしまいます。
「やあジェイデン。ひとつ君に、試練を与えよう」
謎のスキンヘッド男がそういうや否や、その閉鎖空間の天井付近に、これまた同じく半透明の立体映像が浮かび上がりました。
それは、ジェイデンのパートナーであるシャンバラ人の娘マレンディ・ハーンの姿でした。
マレンディは、気を失っているようです。
しかし問題は彼女の意識の有無ではなく、四方八方から伸びてマレンディの全身に絡みつき、その柔肌に容赦無く突き刺さっている鋼糸の群れでした。
「貴様! マレンディに一体、何をした!?」
「……見ての通り、彼女の肉体には数百本の鋼糸が絡みつき、その先端は表皮を突き破って全身の主要な骨格に直接巻きつけられている。私が合図を出せば、60秒後にこれらの鋼糸が一斉に巻き取られ、彼女の肉体はばらばらに解体されるだろう」
ジェイデンは、言葉を失いました。
彼のパートナーであるマレンディの命は、目の前で無表情に佇むスキンヘッド男の手の内にあるのです。ジェイデンは怒りを必死に押し殺しながら、震える声で問いかけました。
「……俺に、何をしろっていうんだ?」
「単純な選択だ」
答えてから、スキンヘッド男は閉鎖空間の床の一点を指差しました。
そこに、液体の表面らしき光の反射が見えます。ジェイデンの目には、僅かに泡立っているようにも見えました。
「あの穴には180度に熱した油が満たされている。その底にスイッチがあり、そのスイッチを10秒間押し続ければ、彼女は解放される」
そこでスキンヘッド男は但し、と言葉を付け加えました。
「コントラクターの力を駆使することは一切禁ずる。もし君が何らかの能力を使えば」
スキンヘッド男は右手の人差し指で、自身のこめかみに軽く触れました。
「君の脳波が、私に不正を教えてくれる。猶予は60秒だ。彼女を見殺しにするか、己の腕を犠牲にするか……自分で選択しろ」
この時初めて、スキンヘッド男はいびつな笑みで口角を吊り上げました。それはまるで人間味の無い、不自然な笑みでした。
「彼女を救う意思があるなら、試練を克服するしかない。その際、君の勇気を示す波形を見せてもらおう」
「……貴様は、一体何なんだ……!?」
ジェイデンの怒りに震える声に、スキンヘッド男は再び笑みを掻き消し、表情の無い面でこう答えました。
「スキンリパーと呼んでくれたまえ」
* * *
ジャンバラ大荒野とヴァイシャリーの領境に位置する宿場と交易の街デラスドーレは、ヒラニプラ方面に伸びる街道とも交差する合流ポイントである為、年間を通じて多くの旅行者が行き交い、常時賑わいを見せています。
街はほぼ全域に亘って活気に満ちており、大小様々な街路のそこかしこで露天商が軒を連ね、旅行客や行商人といったひとびとが絶えず往来を行き来していました。裏路地ですら、ちょっとした雑踏を形成しているというような按配です。
デラスドーレを支配するのは、行政長官フォーチャフ・ストーンウェル男爵です。
年齢は五十代半ばではありますが、実にバイタリティ溢れる人物として知られています。
また、このストーンウェル長官はコントラクターではないものの、相当に高い魔術的素養に恵まれており、行政の長としての職務の傍ら、古代の魔導施設や特殊な物品に関して様々な研究を推進する人物としても知られていました。
ある日、そんなストーンウェル長官の元を、ツァンダ上流貴族フェンザード家の嫡男ラムラダ・フェンザードが訪問しました。
彼は、ストーンウェル長官が魔導暗号鍵と呼ばれる古代の秘匿式封印システムに関して、多くの情報を握っているという噂を聞きつけたのです。
このラムラダには、双子の妹が居ます。妹の名は、ラーミラ・フェンザード。
実はラーミラの体内に、ある特殊な魔導暗号鍵が隠されていました。
この魔導暗号鍵を除去するには古代シャンバラ王国期の技術を用いた特別な処置が必要であり、現時点ではほとんど除去不可能という状態に陥っています。
しかも困ったことに、ラーミラの体内に眠るこの魔導暗号鍵を恐ろしい魔物達が狙っているのです。もしこの魔物達に見つかってしまえば、ラーミラの命はありません。
ラーミラは魔物達の目を逃れる為に、現在は隠遁生活を強いられており、その為、迂闊に外を出歩くことも出来ません。勿論、魔導暗号鍵の除去方法を求めて旅に出るなど、もってのほかです。
そこでラムラダがラーミラの代理として方々を駆け巡り、やっとの思いでストーンウェル長官の噂を聞きつけたのです。
幾分、強めの陽射しが斜めに降り注いでいる、午後の昼下がり。
数人の従者や護衛だけを伴ったラムラダが、ストーンウェル邸の正面玄関に姿を現しました。
「遠いところをよくぞお越し下さいました。さぁ、どうぞお入り下さい」
「恐れ入ります」
豪奢な自邸の玄関先で、ストーンウェル長官は大勢の家士・従者を従えながら、ラムラダの来訪に歓迎の意を示しました。
ひと通りの挨拶を終え、応接室に通されたラムラダは、デラスドーレ到着以前に用件を伝える文書を送っていたこともあり、すぐさま本題に入ります。
「お聞きしたいのは、魔導暗号鍵の除去に関する方法についてなのですが」
ラムラダの問いかけに、ストーンウェル長官は腕を組み、うむ、と小さく頷きました。
「このデラスドーレの地下に、ヴァダンチェラと呼ばれる古代要塞の遺跡が広がっております。その最も奥に、人工解魔房と呼ばれる装置があるらしいのですが」
ここでストーンウェル長官は、深い吐息を漏らします。
人工解魔房とは人体からあらゆる種類の魔術的な異物を除去する装置であり、これを使えばもしかしたら、ラーミラ体内の魔導暗号鍵を除去出来るかも知れない、という話でした。
ところが、この人工解魔房に到達するまでには、極めて危険な区画を通り抜けなければならない、とのことです。
「その区画はかつて、古代シャンバラ王国の中でも強硬派で知られていた一部の軍上層部が、時の政府に対して秘密裏に建造したという実験施設でしてな。そこで行われていたのは、苦痛と恐怖を被験者に与え続けるのみであるという、極めて非人道的な生体実験だったそうです」
ストーンウェル長官の説明に、ラムラダは一瞬、息を呑みました。応接室内に、何ともいえない微妙な空気が漂います。
更に、その生体実験施設に関する説明が続きました。
ヴァダンチェラ建造当時は、戦争捕虜を実験体とし、敵兵を如何に効率良く殺せるかという観点で、パラミタ上の各種知的生物の肉体と精神の限界を調査し、また一方では一度にどれだけ大勢を殺せるかという観点でも実験が繰り返されていたというのです。
しかしながら、それだけの内容であればストーンウェル長官もここまで、苦々しい表情を浮かべる必要はありません。
問題は寧ろ、ここからでした。
「実は数ヶ月前から、この生体実験施設が稼動し始めている、という情報が飛び込んできておりましてな」
曰く、七人の悪魔を自称する謎の怪人達がヴァダンチェラ深層部に出現し、デラスドーレを訪れる旅行者や、周辺に点在する集落から大勢のひとびとを拉致しては、この生体実験施設で日々、残虐な研究を繰り返しているというのです。
ストーンウェル長官としてもこのような事態を放置する訳にはゆかず、既に二度に亘って、調査隊を派遣したのですが、そのいずれに於いても、未だに誰ひとりとして生還していないというのです。
* * *
件の生体実験施設は建造当時、時の政府の目をごまかす為に、スイートルームという隠語を用いて呼ばれていました。
このスイートルーム内に建造されている実験という名の拷問施設は、全部で七種類。
それぞれ、圧殺房、焦殺房、裂殺房、刺殺房、雷殺房、臓殺房、蛆殺房という区画名が付与されているとのことでした。