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魔女が目覚める黄昏-ウタカタ-(第1回/全3回)

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魔女が目覚める黄昏-ウタカタ-(第1回/全3回)

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第3章 北カフカス山を目指して

 エンヘドゥ・ニヌア(えんへどぅ・にぬあ)と校長たちからの要請で蒼空学園生徒ハリール・シュナワの護衛についた一行は、西カナンを抜け、東カナンへ入り、いくつかの町や村を経由して北カフカス山を目指していた。
 ドラゴン・ウォッチング・ツアーと目的地は同じだが、ねらわれている身でありながら無関係な一般人と一緒のルートを用いるのは避けなくてはならない。そのためなら多少遠回りになってもやむなしだ。
 東カナン入り口の町で乗合馬車や馬を貸切レンタルした一同は、なるべく人と行き交うことのない、人目につかないルートを選んで進んでいた。
「はっ、やあっ!」
 休憩地として選んだ草原地帯で、ハリールは夜刀神 甚五郎(やとがみ・じんごろう)を相手に剣をふるう。彼女が用いているのは長剣と比較すれば若干短めの、日本刀で言うなら中刀と呼ばれる刃渡りだ。彼女はそれをまるで短刀のように巧みに扱う。
 対する甚五郎は霊断・黒ノ水を用いて迎え撃つ。本来彼は戦いの際2刀を用いているが、今回は1刀のみでハリールの攻撃を防いでいた。
「ずっと馬車に揺られてたら、体がなまっちゃう」
 そう言って手合わせを乞われたときは、婦女子相手に真剣をふるうことに気のりのしなかった甚五郎だが、ハリールの跳躍を多用した機敏な動きとセンスを感じさせる積極的な攻撃に、いつしか本気で彼女と向き合っていた。
 とはいえ、もちろん力はセーブして、彼女がけがを負うことのないよう気遣うことは忘れていなかったが。
「むんっ」
 ハリールが攻めるに任せ、数度打ち合い、押されるように後退していた甚五郎が突然攻撃に転じる。地に手がつくほど身を沈ませ、足払いをかけた。
「あっ」
 踏みだしていた足先に衝撃を受けたハリールはバランスを崩して横に倒れかける。完全に倒れまいと地についた手。それを甚五郎は待っていた。掴み、引いて、草地を滑らせる。ハリールの体は支えを失い、きれいに回転して背中から落ちた。
 そのまま、呆然と空を見上げる。
「……今、どうやったの…?」
「足を払い、手をはずしただけだ。それでおまえは自ら転がった。球車という技の応用だ」
 剣で勝負していたはずなのに、体術で負けるなんて。
「ずるい」
 拗ねたように口先をとがらせるハリールを見下ろして、甚五郎は片眉を上げる。
「戦闘で相手にそれを言うのか?」
「言わないわね」
 あははっと笑い、甚五郎の手を借りて立ち上がった。
「うーんっ、いい汗かいたーっ!」
 大きく伸びをして剣を鞘にしまう。
「おつかれさま、ハリールちゃん」
 布袋 佳奈子(ほてい・かなこ)が近寄って、手に持っていたタオルを差し出した。
 甚五郎には彼のパートナーで親友のブリジット・コイル(ぶりじっと・こいる)がすでにタオルを渡している。
「ありがとう、佳奈子。あ、佳奈子って呼んでいい? あたしもハリールでいいから」
「うん、いいよ。
 それにしてもハリールって身軽なのね」
「え? そう?」
「うん。まるで獣人みたいだった」
「叔父さんや従兄弟に鍛えられたからかなぁ? うーん、やっぱりピンとこないわ。あたしよりみんなの方がずっと素早くて、あたしはついていくだけで必死だったから」
 ハリールは村と、そこに住む獣人のみんなを思い出した。
 村でたった1人の魔女であるハリールを、レイ・シュナワの忘れ形見だからと分け隔てなく育ててくれた人たち。しかし生まれながらの身体能力の差はどうしようもなく、狩りとなれば大抵の場合、足手まといかついて行けずに途中で脱落していた。
「でももちろんそんなのいやだから、歯を食いしばってでもみんなを追っかけてたけどね」
 毎日擦り傷だらけで半泣きになりながらも木から木へ跳び移って走る彼らを追いかけて走った昔の自分を思い出してくすっと笑う。
「ふぅーん。
 あっ、あそこ座ろう」
 佳奈子が指差したのは馬車から引っ張り出しておいた荷物入れの長櫃だった。こうすると服が汚れないし、車輪や馬車の腹にもたれることもできる。
 そこにはセルファ・オルドリン(せるふぁ・おるどりん)御凪 真人(みなぎ・まこと)もいた。
「おつかれー。はい、これ。おいしいわよ」
 と、セルファは飲み物が入った紙コップを手渡す。ハリールはそれを受け取って、彼女の横に腰を下ろした。
「ね? さっきの剣見せてくれる?」
「いいわよ」
 ハリールから手渡されたそれを、セルファはじーっと見る。
「めずらしい大きさっていうのもあるけど……魔法剣よね? これ」
 訊いたのはとなりの真人にだ。
 真人は飲むのをやめて紙コップを口元から離すと、セルファの手に握られたそれを見る。
 装飾らしい装飾はほとんどなく、どちらかというと地味な剣だ。柄近くに何か、呪文のような文字が刻まれている。揺らめくように、わずかに立ち上っているのは朱色の光…。
「そうですね。何の力が込められているかまでは分かりませんが……おそらくこれは守護の古代文字で、炎系じゃないでしょうか」
 真人は古代文字をなぞりながら言った。指先にチリチリとした痛みを感じる。
「さっすが真人! そこまで分かるんだ!
 ねっ? あたり?」
 ぐりんっと今度はハリールに向き直る。ハリールは首を傾げた。
「さあ。分からないわ。父の形見だから大事にしなさいって、母にもらっただけ。母ももう亡くなったから、どんな力があるか知らないの。
 あたし、魔法使えないし」
「え? そうなの?」
 魔女なのに?
「うん。あたし、どうもそっちの才能ないみたい」
 ごまかすようにあははと笑って、返してもらった剣を見つめた。
「母が言うには、対話の巫女として目覚めたらきっと魔法も使えるようになるってことだったけど……どうかなぁ」
 もうあれから100年近く過ぎた。蒼空学園に入ったのも、もしかしたらという思いがあったからだ。しかし結果はご覧のとおり、ちっともかんばしくない。
「ハリール」
「なに?」
 佳奈子はためらいがちに、口を開く。
「あの……ハリールのお母さん――」
 と、そのとき佳奈子の泳がせた視界に、遠からず近からずの微妙な距離で立っているエレノア・グランクルス(えれのあ・ぐらんくるす)の姿が入った。
「エレノア! エレノアもこっちにおいでよ」
「私はいいわ」
 ちらと視線を投げて、また前方へと戻す。
 佳奈子はちょっと考えるふうに彼女を見て、ハリールたちに中座のことわりを入れるとそちらへ近付いた。
「エレノア」
 佳奈子が何を言わんとしているのか見抜いて、エレノアは複雑な笑みを浮かべる。
「だれかが見張りに立たないといけないでしょ。これはただの旅行じゃなくて、彼女を護衛するために私たちはいるんだから」
 あっと佳奈子は口元に手をあてた。
「ご、ごめんね、エレノア…。私…」
「あなたはそれでいいのよ。ハリールのそばにいて、彼女をリラックスさせてあげて。どうやら彼女、わけありのようだから」
 先からの会話はエレノアの元までも届いていた。
 それにさっきの手合わせの戦い方。ハリールはどこか精神的に切羽詰まっている。表に出すまいと、押さえ込んでいるけど…。
 それと気付いたのはエレノアだけではなかった。
「皆さーん、お昼ごはんの準備、できましたですよー」
 前かけをつけたホリイ・パワーズ(ほりい・ぱわーず)が口元に手を添えて、草原に散らばったほかの同行者たちを呼んだ。同じような格好をしてとなりに立つ草薙 羽純(くさなぎ・はすみ)は、お玉で肩をとんとんしている。
「おっ、うまそうだな」
 弱火で保温されている寸胴鍋のふたを開け、エヴァルト・マルトリッツ(えう゛ぁると・まるとりっつ)は大きく深呼吸をした。肺いっぱいにおいしそうなにおいが満ちて、ますます空腹が実感される。
「こら! 何をしておるのだ!」
 すぐに羽純が見とがめた。ホリイを手伝ってテーブルセッティングをしていた手を止めて戻ってくる。
「まだ何もしてない」
 実際そのとおりなのだが、エヴァルトは少し罰が悪い思いで彼女を振り返った。
 腰に手をあて、羽純はじーっとエヴァルトを見上げる。
「ふん。それだけでかければ、燃費も相当良いのであろうな。
 早く食事にありつきたければ、そなたも手伝え」
「手伝いか。それはいいが、どうすればいい?」
「今からわらわが盛りつけるからそこのテーブルに並べれば良い」
「分かった」
「あちらのも忘れるでないぞ」
 羽純がお玉で指した所では、ブリジットが黙々と野菜をちぎってサラダを盛りつけていた。
「ああ、了解」
 ホリイが並べたフォークやスプーンの間にそれらを手早く置いていく。全員がそろったところで、テーブルを囲って昼食が始まった。
「そういや俺たちが向かってる北カフカス山では、数百年に1度目覚めるっていう竜を見るツアーが開催されてるんだって?」
 という話題から入り、皆陽気にわいわい楽しく食事をとる。
 佳奈子はちらちらとハリールの横顔を盗み見た。
(お母さん、亡くなったっていうし。こういうこと訊くのって、遠慮しなくちゃいけないのかもしれないけど…)
 でも知りたい。
 佳奈子は意を決してハリールに訊いた。
「ねえ、ハリール」
「え?」
「さっきの話の続きなんだけど…。ハリールのお母さん、東カナンの人なんだよね」
「うん。ショーネ・アタシュルク・シュナワっていうのよ」
「お父さんがシャンバラの人で、それでお母さんは結婚してこっちへ来たの?」
「ううん」
 ハリールは首を振りかけて、途中で止める。
「あ、でも、半分あたりかな。父が死ぬ前に母に言い残してあったの。自分に何かあったらシャンバラの父の実家を訪ねるように、って。この剣を見せたらきっとかくまってくれるから、って」
 道中、ショーネは不安がっていた。レイはああ言ったけれど、本当に自分などが彼の妻と信じてもらえるのか……けれどそれは杞憂で、レイの両親や親族たちはよくぞ自分たちを頼ってくれたと2人を温かく迎え入れた。レイの早すぎる死を心から惜しみ、「この子はレイにそっくりだ」と、ハリールをかわいがってくれた。
だからあたしにとってあそこが故郷で、彼らが一族なの。母が亡くなっても、戻りたいなんて1度も思わなかった」
「でも、ついに帰るんだ?」
「うん。イルルヤンカシュが目覚めたからね」
「あーっと、ハリール」
 2人の会話を小耳にはさみ、ホリイたちとの会話を切り上げて甚五郎が向き直った。
「いくつか疑問点があるんで答えてくれないか。現状、わしらは校長よりイルルヤンカシュという竜を鎮めるためにおぬしを竜の元に送り届けよということしか聞いていないわけだが、その竜についてほとんど知らん。先にだれかが言ったように、数百年に1度目覚める、そして見る者に幸運を与えるというのみだ。
 一体その竜とおぬしにどのようないきさつがあるのだ?」
 とたん、周囲の騒がしさが少し静まった。たわいのない日常会話をしながらも、何人かは2人の会話に耳をすませている。
「そうなんだ」
 ハリールはぱちぱちとまばたきをした。
「ごめんなさい、みんな知ってるとばかり思ってたわ。イルルヤンカシュはね、目覚めるたびに代々アタシュルク家直系の魔女が鎮めてきてるの。あたしの母は、その対話の巫女だったのよ。で、母はもう亡くなっているから次はあたしが、ってわけ。
 イルルヤンカシュについてだけど……多分、あたしもみんなと同じくらいしか知らないわ。母はシャンバラへ来る道中で体を壊して、すぐ寝ついてしまって、あたしが小さいころに亡くなっちゃったから。詳しくは何も聞かされてないの。ただ、対話の巫女が鎮めなくちゃならないってだけ」
「しかし、それなら歓迎されこそすれ、おぬしが命をねらわれるいわれにはならんだろう」
「それは――……」

 ――穢れた子!


 ハリールの脳裏に、憎悪と呪詛の言葉がよみがえった。
 それはもうはるか昔の出来事なのに、幼いころ脳裏に刻み込まれた姿はまるで今聞いたばかりのようにあざやかに浮かび、忌まわしい汚物でも見るかのような視線は強烈にハリールを揺さぶる。

 ――まさかどこの者ともしれぬ獣ごときが、アタシュルクの血を穢すとは!
 ――八つ裂きにしても足りない! 一片も残さずあの獣どもを食らい尽くせ! ジズ!
 ――二度とこの聖なる地へ戻れるなどと思うな! 一歩でも踏み入れば、そのときこそ我が幻獣のエサとしてくれる!


「――ごめん。言いたくない」
 硬く強張った声で、ハリールはそれだけを言った。
 一瞬で紙のように白くなった顔色に、甚五郎も重ねて問うのをやめる。何があったかは分からないが、おそらく当時相当むごい出来事が彼女の身に起きたに違いないということは見てとれた。
(そうか。彼女はおびえているのだな)
 先に剣を合わせた甚五郎は、ハリールのあの闇雲なまでに積極的な攻撃の根底にあったのが何かを悟る。
 押し黙ってしまった2人に、こほ、と羽純が空咳をして、なんとか場の空気を元に戻そうと試みた。
「ハリールよ。先にそなたは「対話の巫女」と言うたな。推察するに、その巫女というのはイルルヤンカシュと対話する巫女、つまり竜に対し何某かの影響力を持つ役職と取れるのじゃが、いつ目を覚ますか分からぬものと対になっておる役職じゃろう? ならば、必ず国内にその役職を継いでいる者がいるはずではないのか?」
「……母は、双子だったから。今は多分、伯母が名乗ってると思う。もともとアタシュルク家当主が対話の巫女でもあったの。母と伯母はそれを分けあったのね」
「えーと、ワタシの調べたところによりますとですね、東カナンで現在対話の巫女とされるバシャンさんは、もう何十年も床についてらっしゃるそーです。かなり重篤のようですね」
 ホリイが口のなかの物を飲み込んで、博識を披露した。
「なるほど。ではやはり、ハリールが対話の巫女として立たねばならないのだな」
 納得し、うなずく。
 会話のおかしさには気付かれなかったようだ。ハリールはテーブルの下で握り締めていた手の力をそっと緩めた。



 だがそれは、ハリールの思い違いだったらしい。
「シュナワさん」
 食事の片付けを終えてみんなが馬車に戻りだしたとき、エヴァルトがハリールを呼び止めた。
 振り返り、彼が自分元へやって来るのを待つ。
「1つ聞きたいことがある。きみはさっき「今は多分伯母が名乗ってると思う」と言ったね。つまりきみは現在の状況に詳しくないわけだ。ということは、きみが対話の巫女を名乗って竜を鎮めようとしているのは、それと関係ないことになる」
「……それは…」
「イルルヤンカシュは見る者に幸運を授ける竜だという。その竜を鎮める……竜は鎮めなければならない存在ということか」
 その言葉を聞いて、ハリールははっとなった。
 驚き、表情を隠して読まれまいとしていたことも忘れた顔でエヴァルトを見上げる。
「何を驚いている? まさか」
「そんなこと、考えたこともなかったわ。母はただ「対話の巫女はイルルヤンカシュを鎮める役割をずっと担ってきたの」とだけしか教えてくれなかった」
 そして決まってそう話したあとに泣いていた。「ごめんなさい、バシャン」と。だからそれ以上、聞くことができなかったのだ。
 エヴァルトは本気でとまどっているとしか見えないハリールに眉をひそめる。
 もしこれが演技だとしたら、相当なものだ。
「あなたと母親はシャンバラへ逃れてきたらしいことは分かった。それと同じ理由で、命をねらわれるとあなたが考えていることも。そのような危険な場へ、それでも戻ろうとするあなたの勇気はすばらしいと思う。しかしその理由をきみが話せないとなると……こちらは想像するしかない。何かやましいところがあるのではないかと。
 あなたは学友ではあるし、馬場校長に要請されたということもある。が、理由いかんによっては敵になる可能性もある、と先に言っておく」
 エヴァルトはそう言うと、ハリールに時間を与えた。しかしハリールに何も話す気がないのだと知るとため息をつき、
「まあ、正しいと信じたことを信念を持ってやり遂げようとするなら、自ずと仲間ができるだろう」
 そう言い残して立ち去った。
 その背を見送る。
 やましいところなどないと言えたなら、どれほどよかっただろう。なぜ東カナンを追われなければならなかったのか、話せたなら。そうしたらきっとあの人は力になってくれるに違いない。
 だけど口に出したくない――思い出したくない。
「……あたしは……穢れてなんか、ないわ」
 涙に震える声で、だれにも聞こえないくらい小さくつぶやく。
 だれかが近付く気配がして、ハリールは目元をこすった。けれどただ熱いだけで、涙は1滴もこぼれていなかった。
「ハリールさん」
 真人は彼女をこれ以上動揺させることを好まないように、静かに話しかけた。
「あなたもあたしに何か言いたいことがあるのね」
「いいえ。俺の知りたいことは、ほかのみんなが訊いてくれました。俺はただ、確認したいんです」
「確認?」
「ええ。あなたがねらわれているということは、あの地にはあなたの死を望む者がいるということです。それでも行くというのですね? 何が待っていようとも向き合う覚悟を持っていると?
 俺たちは命を賭けてあなたを守ります。でもそれは、あなたにその覚悟があればこそです。ただあの地へ行けば終わるというわけではないでしょう。そうすることによって何が起きるか、あなたは理解していますか。そしてそのすべてを負う覚悟が。
 もしそれがないのなら、今からでも引き返せますよ」
「……引き返したいなら引き返していいわ。あなたたちだけね。あたしはもともと1人で行くつもりだったんだから。……今さら1人になったからって、全然平気よ!」
「ハリールさん、そういう意味じゃなくて」
 そんな依怙地にならなくても――そう言いかけた真人だったが。
 どーーーん、と突然横から突き飛ばされて、軽く吹っ飛んだ。
「もうっ! 真人ったら難しく考えすぎ!」
「……セルファ。あのですね…」
「ハリール、困ってるじゃない! いじめたりしたら、あたしが許さないんだからっ」
「いや、そういう問題じゃなく――」
「はいはい。それじゃあさっさと馬車に戻って。みんな待ってるから」
 セルファは聞く耳持たず、馬車に向かって背中をぐいぐい押してくる。真人は説得をあきらめたものの、ぶつぶつ何かつぶやきながら馬車の方へ歩き出した。
「まったくもう、真人ったら相変わらずカタブツなんだから」
 腰に手をあてて後ろ姿を見送る。十分離れたところで、ハリールを振り返った。
「ハリール、あのね」
「……なに?」
 少し身構えつつ、ハリールもセルファを見る。
 目を合わせ、セルファはにっこり笑った。
「聞いたんだけど、校長室でエンヘドゥさんとやりあったんだって?」
「やりあったなんて…」
「それで、そのあと自分に非があることに気付いて、すぐ「ごめんなさい」って謝ったって。それ聞いて、私すごいなぁって思ったの。私だったら絶対無理。私が悪いって気付いても意地張っちゃって、あとで後悔することもよくあるのね。多分、真人はいっつもそれで苦労してると思う。彼のためにも、ハリールみたいにゴメンって言えたらいいんだけど」
 ハリールは少し呆然となりながらも首を振った。
「ううん。あなたもすごいと思うわ」
 にっこりセルファは笑う。
「行こ! ハリール。あの地で本当は何が待ってるのか、知らないけど。でも私はあなたを連れて行きたいって思ったの!」
「……ありがとう」
 にじみかけた涙を隠しながら、ハリールは差し出された手をとった。
 信頼の重さ、難しさをあらためて実感しながら……。