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第7章 屋台でお祭り(1)


 乗合馬車を下りて十数分。ゆるやかな上り坂を歩いていると、かすかに何かが聞こえてきて、桐生 円(きりゅう・まどか)は歩く速度を小走りに上げた。
「音、聞こえてきたよ! ほら!」
 振り返り、他の3人に伝える。
 海から吹く夕方の風に乗って届く囃子の音が聞こえてきて、七瀬 歩(ななせ・あゆむ)は足を止め、耳をすました。
 懐かしい、日本の縁日を思い出す。ここはパラミタだから、きっと微妙に違うだろう。それでも、懐かしさで胸がふくらんだ。
「タコ焼き、わたがし、りんごアメ。お好み焼き、焼きソバ、チョコバナナ」
「わぁ、歩ちゃん、何それ? 呪文みたい」
「ふふっ。呪文かぁ」
「イカ焼き、とうもろこし、大判焼、じゃがバター」
 前を歩いていた宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)が、歩の言葉に乗っかった。
「クレープ」
「おでん」
「フランクフルト」
「ベビーカステラ!」
 2人同時に同じ名前をあげて、プッと吹き出した。
「射的」
「輪投げ」
 と、2人の言葉遊びは続いていく。
「えー? えー? どういうことー?」
 円が1人、分からないと2人を交互に見る。
「さっちん分かるー?」
 遅れて歩いていた冬山 小夜子(ふゆやま・さよこ)に訊いてみた。
 小夜子は黙ったまま、首を振る。
 本当は知っているけれど、言わずにいて、それを目にする円の驚く顔が見たかったからだ。
 円はちょっと不服そうだが、それももう間もなく笑顔に変わるだろう。
 屋台の道は、もうすぐそこに見えていた。


 縁日は、たしかに華やかな屋台が目当てになりがちだが。
 これは神社の祭式だから、神社にお参りするのが、まずしなくてはいけないことなのだ。
「だからね、神社の拝殿でお参りして、それから屋台を楽しもうね」
 神和 綺人(かんなぎ・あやと)はそう言って、神和 瀬織(かんなぎ・せお)に手を差し出した。
 まだ祭りは始まったばかりとはいえ、祭りの前に開かれるコンテスト目当てで来ていた客が大勢いて、早くも屋台の通りは足元もおぼつかないほど人であふれ返っている。屋台目当ての人でにぎわう両側でなく、真ん中を行くとしても、小さな瀬織ではあっという間に迷子になりかねないとの配慮だった。
「はい、綺人」
 綺人の手を取り、つないで一緒に並んで歩く。
 背中にチクチク視線が刺さっているのは分かっていたけれど、譲る気は全くなかった。
(クリスはいつも綺人と一緒じゃないですか。クリスは綺人を独占しすぎです。この前なんか、2人きりでお城にお泊まりまでしていたではないですか。たまにはわたくしたちにも綺人を貸してくださってもいいはずです)
「――はたから見てて、恥ずかしいほど丸分かりだぞ、クリス」
 隣を歩くユーリ・ウィルトゥス(ゆーり・うぃるとぅす)の言葉に、ますますクリス・ローゼン(くりす・ろーぜん)はぷくーっと頬を膨らませた。
「だってっ! 私もアヤと並んで歩きたいのに、瀬織ってばずるい」
 それは今隣にいる俺に対して失礼じゃないか? クリス、とユーリは手で覆った口元でツッコミを入れる。
「………べつに、おまえたちの仲を邪魔する気はない。しかしおまえたち2人きりだと、何かしでかしたときに、誰もおまえを止める人間がいないだろう?」
「何かって何ですか? 人を痴女みたいに言わないでください。
 大体、楽しいお祭りの夜、恋人同士が2人きりでいて、なんで『何か』するのが私の方なんです? 失礼でしょう、ユーリさん」
「じゃあ訊くが、綺人がするとしたら何だ?」
「そりゃあ、手をつなぐとか、手をつなぐとか、手をつなぐとか…」
 そこから想像が進まない。
「で、おまえがするとしたら何だ?」
「――――くッ」
 とても口には出せません。乙女なんですからっ。
「そういうことだ。
 だから念のためもう一度訊くが、この前2人きりで外泊していたが、そのとき、綺人に何もしてないよな? クリス」
「してません! アヤはあのとき肩に大けがを負っていたんですよ? 何をするっていうんですか?」
 顔を真っ赤にして否定する彼女をじーっと見て、再び視線を前方へ戻す。
「そうか。いや、確認しておきたかっただけだ。行った相手がおまえだったから」
 瀬織だったらこんな心配は無用だったんだが。
「……ユーリさん。私も一度訊いてみたかったんですが、ユーリさんの中の私って何ですか? ケダモノですか?」
 その問いに、ユーリは答えなかった。


 石段を登った先、拝殿前もやはりお参りをする人であふれていたが、屋台の道ほどではなかった。
 古来よりの手法にのっとって、きちんと神社に手を合わせる。そのへんの作法は綺人が詳しく教えてくれた。
「ああ、ほら。あそこに御籤売場があるよ。引いてみる?」
「引きたいです」
「じゃあ引こう」
「はいっ」
 たたたっと瀬織が駆けていく。
 売場には「水占(みずうら)」と草書体で書かれた紙が貼ってあった。
「あのー、みずうらって何ですか?」
 対応に現れた、巫女のミスティに訊く。もう何度も訊かれた質問だったので、ミスティもすらすらと答えることができた。
「ここに真っ白い紙があるでしょう? これを、そちらの神水を満たした甕に浮かべると、運勢が浮かび上がってくるんです」
「それはすてきですね」
「私もそう思いますわ」
 にっこり。笑みをかわしあって、瀬織は水占用紙を1枚買った。
 さっそく教えられた通り、甕の水に浮かべる。すると、みるみるうちに文字が浮かび上がってきて「大吉」となった。
「わぁ! 大吉です! 綺人、ユーリ!」
 見てと言わんばかりに両手で掲げて戻ってくる瀬織。大吉の下には運勢が書かれていたが、難しい字で瀬織には分からなかった。でも大吉だから、きっといいことが書かれているのだろう。
「よかったね。大事に持っておくといいよ」
「え? 結ばないんですか?」
 同じように水占を引いた人たちが木にくくりつけているのを指して訊く。
「あれはよくない運勢だったから、それをなくしてもらうために結んでいるんだよ。大吉の瀬織には必要ないことだから」
 と、綺人の視界に、甕の横で動かないクリスの背中が入った。
「クリス? どうかしたの?」
(……小吉。待ち人いつまでも来ず、望みが叶うは期待薄、って…)
 こんなの、嘘ばっかりです!
 こんな運勢は流してしまおうと、木にくくりつけようとして、ふとあることを思いついたクリスは、ペンを取り出して用紙に書き加える。
(念のためです。神様、なしにするんじゃなくて、こうしてください)
 運勢を改ざんしようとするクリスの鬼気迫る姿になんらかを感じて、綺人が駆け寄った。
「クリス、どうしたの? 何かあった?」
「えっっ! あ、いえ。何もないです。それより、早く屋台へ行きましょう。私、おなか好きました」
「う、うん…?」
 しっかり綺人の手をとって、石段へと引っ張っていくクリス。
 あわてて結んだため、しっかり結べていなかった紙ははらりと落ちて、カサカサ地面を転がっていく。そこには「大」と書き直された「小」の字があった。


 降夜 真兎(ふるや・まさと)は、ちょっとはた迷惑な男だった。
 例えば、燃え上がると
「うおおおお! ま、祭りだって!? これは俺様の出番だなっ! 思う存分楽しませてもらうぜ!」
 こんなことを掲示板のド真ん前で叫んでしまうくらいだ。
 パートナーのフィーリア・ブリフィレス(ふぃーりあ・ぶりふぃれす)は真兎と対照的に、掲示板の前で腕を組むと、鼻で嗤った。
「ふん、くだらん。私はこんな、人で混雑するような場に行くのはうんざりだ。しかも乗合馬車を使った挙げ句歩きだと? どれだけ田舎だ? ここは」
「まぁまぁ。そう言うなって。なっ? りんごアメ買ってやるから」
「りんごアメ…?」
 フィーリアは、それが何か全く分からなかった。
 ただ、りんごとアメは知っている。どちらもおいしいから、きっとりんごアメというのもおいしいのだろう、という見当はついた。
 ちょっと、食指が動く。
「そう。だから行こうぜ? 俺様1人だとつまんないしさ」
「……ふ、ふんっ」
 プイッとそっぽを向いて見せたが、かなりそわついているのは傍目にも分かった。
(もうひと押しだな)
「なっ、わたがしもつけるから」
 一緒に行こう、と拝み倒した結果。
「う、ぬぬぬぬぬぬ…」
 フィーリアは今、屋台横に設置された長机の上で、真剣に、つまようじを使って型抜きをしていたのだった。
(あーあ、寄り目になっちゃってるよ)
 まるで命がかかっていると言わんばかりの真剣な表情で、少しずつ少しずつようじを動かして、ガムに書かれた風船を持った女の子の絵をなぞっている。
 これは、真兎も初めて見る姿だった。
(やっぱ、子どもだよなぁ。屋台見たときも、目キラキラさせてたもんな)
 思い出す。
 乗合馬車と徒歩の間中、ブツブツ文句を言っていたフィーリアだったが、両側に所狭しと連なる屋台を見た瞬間、態度が一変した。
「おおおおおーーっ! こ、これはッ!! なにやら楽しそうではないかっ!
 真兎、真兎! あれは何なのだ? これがりんごアメかっ?」
 興奮にうわずった声でそう言うフィーリアは、見た目通りの7歳の女の子にしか見えなかった。
    パキッ
「あっ…」
 なぞっていた所からガムが割れて、端がとれたのはよかったが、一緒に風船まで真っ二つにしてしまった。
「はーい残念!」
 屋台から様子を伺っていたミーナ・リンドバーグ(みーな・りんどばーぐ)が、割れたガムをつまんでフィーリアの口にポイと入れる。
「もう1回だ! 今度こそちゃんと抜いてやる!」
 と、ミーナが後ろの真兎を見た。お金の出所は真兎だからだ。
「あー、じゃあもう1回お願いします」
 フィーリアから預かっていたりんごアメとわたがしを左手に移して、ポケットから小銭を取り出す。
「まいど! なんだったらお兄さんもやってかない?」
「あ……」
 兄じゃない、と言いかけて、やめた。説明は面倒だ。
「俺、不器用なんで。遠慮しておきます」
「あら残念。ここでしかできない特別製・竜神様型抜きなのに」
 ミーナが手元のA6サイズのガムを見せる。フィーリアがやっている物とは比べ物にならない細かさだ。ガビョウを使って抜くタイプだろう。
(絶対高いよ、あれは)
 ちら、と下を見る。
 思った通りフィーリアは、まるで宝石で見るようにミーナの持つ竜神の型を見ていた。
「そっ、そっちをやる! 渡せ!」
(あ、やっぱり…)
「これは本当は大人向けの型なんだけど、フィーリアちゃんは、もう8枚もしてくれたお客さんだし。そうねぇ…」
 ちらちら、ちらちら。真兎を見るミーナ。
「……それ、ください」
「まいどありがとうございます〜♪」
 ミーナは満面の笑顔で真兎の差し出すお金を受け取ったのだった。


「絶対あれは、最初から割れていた型だったのだ」
 射的の台に腰かけ、足をぶらぶらさせながら、フィーリアが不満を漏らした。
 ぷくーっとガム風船をふくらませる。
「まだ言ってるのかぁ?」
 パシ。狙いをつけて引き絞るが、うまく当たらない。
「水つける方法教わって、1対1のレッスンまでしてもらって、難癖をつけるのはどうかと思うぞ」
 パシ。コルク弾は狙った的から3センチは横にズレて飛んだ。
「……当たらんな。どれだけヘタなんだ、おまえは。たかだか1メートルにも満たないこの距離でさえ当たらんとは。ここまでくると、ある種の天才だな」
「うるさいぞっ」
 パシ。最後の弾も、的の上を飛んで行った。
「くそ。これ、絶対銃身が曲がってるんだってっ」
「銃口の先にコルク詰めてるだけだろう。それこそ難癖と言うんだ。隣を見習え、隣を。さっきから全発命中しているぞ」
 フィーリアに言われて、真兎は隣に目を向ける。そこには、山と積まれた景品に、さらに先ほど当てたぬいぐるみを積む武尊がいた。
「よぉ」
「こんばんは」
 視線が合って、ぺこっと頭を下げる。
「すごいですね、それ」
「ああ。射的は得意なんだ」
「だと。見習え、真兎。爪のアカでももらって飲めば、あの的ぐらいは落とせるようになるかもしれんぞ」
「このっ」
 ギギギギギ、と手を押し合う。
「はははっ。お嬢ちゃん、どれが欲しいんだ?」
「あれ」
 ウサギのぬいぐるみ(大)と書かれた、高台の小さな札を指差す。見るからにここで一番の景品だ。
 あれをねだられ、真兎は既に数十発を無駄にしていた。
 パシ。武尊は最後の1発で、難なく札を撃ち落とす。
「いやぁ、お客さん。こうも取られちゃ、商売あがったりだよ」
 カランカラン。ベルを鳴らしながら、屋台の店主が言う。
「悪い悪い。こいつと俺と、2で割ってちょうどとでも思ってくれよ」
「しょうがねぇなぁ。――ホイよ」
 ウサギのぬいぐるみを受け取った武尊は、そのままフィーリアへと横に流した。
「ほら。ついでにここの景品も、全部おまえらにやるよ」
「えっ? でも――」
「俺はこれだけでいい」
 デジカメ用に欲しかった電池を持って、歩き出す。
「あの、ありがとうございました」
 応じるように手がひらりと一度だけ揺れて、武尊の姿は人混みの中に消えていった。



 前へ出した足がグキっとなって。
「あっ…」
 橘 瑠架(たちばな・るか)はよろけて隣を歩いていたシェイド・ヴェルダ(しぇいど・るだ)の胸に倒れ伏した。
「大丈夫か?」
「ええ。ひねってはいないみたい」
 ぱしっと浴衣の裾をはたく。白地に描かれた目の覚めるような菖蒲の柄が美しい。
 体勢を整えるまで彼女を支え、大丈夫と確信してからシェイドは手を離した。
「う〜ん、祭りには浴衣だと思ったんだけど、やっぱり着てくる服を間違えたかしら。慣れてないから、かなり動きにくいのよね。おかげでこの通り。恥ずかしいわ」
「何も恥ずかしがることはない。それに、その姿のきみも十分きれいだ」
 さすが夜の仕事をしているだけあって、シェイドは臆面もなくこういうセリフを口にする。
「ありがとう」
 ぽんぽんと腕を叩き、彼から離れた。
「ずいぶん人が増えてきました……2人とも迷子には……注意です」
 後ろを歩いていた、紺無地に黒の角帯姿の神楽坂 紫翠(かぐらざか・しすい)が2人に注意を促す。
「はい」
 2人声を合わせて返して、瑠架はあらためて目的の屋台へ向かった。
「くださいな」
「はーい。いらっしゃいませでございます〜」
 「変わり広島焼き」とのれんのついた屋台の向こう側で、鉄板の上の広島焼きを次々と返していた氏家 小雨(うじいえ・こさめ)がにっこり笑った。
「お客さん、ちょうどいいときにいらっしゃいました。今なら焼きたての熱々でございますよ。何になさいますか?」
「そうねぇ…」
 瑠架はメニューを覗きこむ。カルボナーラ風、ナポリタン風、ボンゴレ風と、たしかに「変わり」とつくだけあって、味の想像もつかない面白メニューが並んでいる。
「ここでしか食べられないと思うと、迷ってしまうわね…」
「まだ食べるのか?」
 後ろでシェイドがあきれ声で言った。
「大丈夫。今まで「食べ過ぎた」なんて言ったことないでしょう?」
「それはそうだが…」
「2人は何にする?」
「もう十分食べたからオレはいい」
 そんな得体の知れなさそうな物。
「私も……おなかはいっぱいですから…」
「そう?」
 2人と全く同じ物を食べてきた瑠架は、不思議そうな顔をして2人を見て、再びメニュー選びに戻った。
 彼女は女性にしては背の高い方だが、スレンダーなその肢体を見ていると、シェイドの方こそ、一体どこにそんなに入るのか不思議に思えてならないのだが。
(ま、一応胃薬は用意してあるから大丈夫とは思うが…)
「それにしても、1枚100円なんて、安いわねぇ」
「はい。ルメンザさまがおっしゃるには「金儲けがしたいわけじゃない。この地域にきてから数カ月、いろいろと世話になった部分がある。これは、そのちょっとした恩返し代わりだ」ということでした」
「まぁ。それはすてきね」
「はいっ」
 心底から誇らしげな……そしてちょっとだけ自慢げな声だった。
 お客の中には「ルメンザというやつは、ごっつう金に汚いっちゅう噂を耳にしてたんやけどなぁ。ほんと、噂っちゅうのはアテにならんもんやな」と感心したように言って、笑顔で帰って行く人もいて、小雨は今日一日顔がゆるみっぱなしだった。
(さすがルメンザさまのお考えになったご企画です。ルメンザさまは本当は、とってもすばらしい方なんです)
 ちら、と屋台の横に設置した、長机を見る。3つ用意してあったが、それも8割方埋まっていて、1人もいなかったことは一度もなかった。
「小雨ちゃん、これ絶品やで」
 小雨と目のあった客の1人が絶賛する。
「そうやそうや。最初は、なんや小ぶりやなぁと思うたけど、食べてみたら結構ボリュームあって、ワシらにはちょうどえいくらいや」
「小雨ちゃん、これ、ほんとにうまいわ〜。同じやつもう1枚もらえるか〜」
「はーい、今すぐお持ちしますね」
 いそいそと皿に盛って、タレやトッピングをたっぷりふりかける。
「お待たせしました。焼きたての熱々ですから、中のチーズに気をつけてくださいね」
「くーっ。小雨ちゃんのその笑顔に、ほんま弱いわ。こっちももう1枚、カルボナーラ頼むわ」
「ありがとうございます」
「うーん、決めたわ。全種ちょうだい」
「はーい。お買い上げありがとうございまーす。
 お持ち帰りになさいますか? それともこちらでお召し上がりになりますか?」
「カルボナーラだけ食べ歩くから。それ以外は包んでちょうだい」
「はい、ただいま」
 屋台の中へ戻ると、小雨は笑顔で鉄板の上の広島焼きを包み始めたのだった。



「仕込み完了っと」
 キュッと水入缶のふたを閉め、ルメンザ・パークレス(るめんざ・ぱーくれす)はよっこらしょと立ち上がった。
 生地の入った特大ボウルを両手で持ち上げ、ビニールシートをくぐって屋台に入る。
「生地練り終わったで。タレの方はどうや? 足さないかんのあるか?」
「えーと。……そうですね、マヨネーズがちょっと足りないかもしれません」
 上の電灯に透かして中身を確認する。下3分の1程度に影があった。
「それくらいやったらえいわ。もう舞の始まる時間やけーの。客はみんな浜へ移動始めちょる」
 そう言って、小雨の手からコテを抜き取ると、ルメンザはパパッと2枚を皿に乗せ、トッピングをして小雨に突き出した。
「今のうち、裏で腹入れとけ。これ焼き終わったら浜行って出張販売や。それ終わったら神楽見よ思てる客のために戻ってこんといかんけーの。まだまだ忙しゅうなるで」
「分かりました」
 皿とわりばしを手に、ビニールシートをくぐる。そのとき、ちょっとだけ、シートの影から中の様子を伺った。
 ルメンザは真剣な顔で鉄板に生地を流して広島焼きを作っている。そこに、お客がやってきた。どうやら知り合いらしく、楽しそうに笑って対応していた。
 そんな彼の姿を見ていると、小雨までうれしくなってくる。
「私もまだまだ頑張るのです」
 パキッとわりばしを折って、ルメンザ考案変わり広島焼きを口に運ぶ。
「ふふっ。おいしいです」
 足元のラジオからは『昨夜未明、デパート『フロンティア』に何者かが侵入し、バックヤードから 薄力粉数箱・パスタ5箱・お好み焼きのタレ多数・その他生鮮食品と、食材ばかりが盗むまれる事件がありました。被害にあったのは…』というニュースが流れている。
 そんな不穏なニュースも耳に入らず、小雨はこれからの手順を頭の中で組み立てながら、広島焼きを堪能していた。



「わたがしわたがしいかがでっすかぁ〜。おいしいおいしいキャンディのわたがしもありますよ〜」
 ジェルソミーナ・ファブリカ(じぇるそみーな・ふぁぶりか)は、歌うように節をつけて、できたてのわたがしを入れた赤いビニール袋の口を輪ゴムで止めた。それを、屋台の空いた空間に結びつける。
 子どもの手の届かない、上の方の袋はフェイクだが、下は、子どもが好きな絵柄を選べるように、本物が入っていた。
 なにしろ、わたがしは仕上がるまで時間がかかる。今日の人の入りから見て、そんな悠長な時間はとれなさそうだった。事実、結びつける片端からどこかの袋が売れて、そこに空きができる。
「あら? キャンディわたがしですって」
 今もまた、そんな声がして、近づく人の気配がした。
「めずらしいわね。これってここだけじゃないかしら」
「はい、まいど! わたがし屋台は数ありますが、キャンディわたがしはここだけです!」
 自信を持って言えた。アイデアの勝利だ。
「へー、キャンディ! すごいな。何があるんだ?」
「そりゃいろいろです。イチゴ、ブドウ、メロン、スイカ、モモ……ミックスなんていうのもありますよ。あ、あと、カンロアメ!」
「カンロ…?」
 霧島 悠美香(きりしま・ゆみか)が、初めて聞く言葉だと言いたげに小首を傾げる。
「おっ、悠美香、カンロアメを知らないのか?」
 俺は知っているぞ、と言いたげに、月谷 要(つきたに・かなめ)は得意満面胸を張った。
「カンロ……甘露という言葉がありますわね。不老不死の霊薬とか」
「ははっ。お客さん、これは神社の屋台ですが、さすがにそれはありません」
「カンロっつーのは、ようするに水アメのことだよ。しょうゆで味つけされてて、きれいなアメ色してて、なめるとうまいんだぜ。日本では昔からあるアメ玉なんだ。
 懐かしいなぁ」
「地球人にはそうみたいですが、こっちの人はなかなかね。聞き覚えがない響きを警戒してるのか、皆さん無難な味を選ばれて」
 そう言って、ジェルソミーナは肩をすくめる。
「無難! そんなの面白くないじゃん! 決めた、俺、それにする!」
「はい、お買い上げありがとうございます」
 代金を受け取って、カンロアメわたがしを手渡した。
 お互い笑顔で別れる。
 それが、とんでもない爆弾・その1だったことを2人が知るのは、もう少し先のことである…。