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【五 錯綜する時間】

 妙だ、とレンが思い始めたのは、ルナパークの北側付近から新世界の街並みに視線を飛ばした時であった。
 レンの記憶に間違いが無ければ、大正2年のこの時点では、新世界国技館はまだ影も形も無い筈であったが、今、彼の目の前にそびえる石造りの巨大な建物は、どう見ても存在しない筈の新世界国技館そのものであるように思われた。
(いや……でもここは、現実の過去世界じゃなく、仮想世界なんだったよね)
 レンは周囲の街並みにも視線を這わせながらふと、そんなことを思った。
 既にこの電脳過去世界自体が、何らかの異常をきたしているのである。本来無い筈の物があったり、逆にあるべき物が無かったとしても、さほど気にかける必要も無いのではないだろうか。
 おかしな話ではあったのだが、むしろそう考えるのが自然であると、レンはごく当たり前のように思い始めてきた。
 だがそうなると、過去に関する知識がこの電脳過去世界でどれだけ役に立つのかについては、ちょっと怪しくなってきた。
 自身が持っている知識を、見たままの情報で上書きするしかない。少なくともこの世界ではそのように対処する方がベストであろう。
「どうしたんだい、レン。何だか、随分緊張しているみたいだけど」
 何も分かっていない和麻が、不思議そうに覗き込んできた。
 だが、ここでレンがあれこれ説明してみたところで、恐らく和麻には何のことやら、ちんぷんかんぷんであろう。であれば、下手に不安を煽るよりも、笑って誤魔化しておくのが、この場では最も適切である。
「いえ、何でも」
「ふぅん……おかしな奴だな」
 和麻が小さく肩をすくめた。
 おかしいのは、レンではない。この電脳過去世界全体が、明らかに普通ではないのだ。

     * * *

 初代通天閣の、ほぼ真下付近。
 ここに、大きな看板を掲げる劇場の入り口があるのだが、加夜はそこで、光一郎とオットーが難しい顔つきで佇んでいる姿に遭遇した。
 当初加夜は、シズル達の目立つ格好を探せばすぐに見つかる、と踏んで捜索していたのだが、シズル達よりも更によく目立つ光一郎とオットーのコンビを先に見つけてしまった格好になった。
「あの……どうかしたんですか?」
 おずおずと加夜が問いかけると、光一郎は悲しそうな顔で頭を掻いた。
「それがよぉ……ここの連中、俺様の歌唱力には目もくれず、門前払いしやがってさぁ」
「まぁある意味、当然といえば当然なのだがな」
 オットーのまるで容赦の無い突っ込みに、光一郎はますますへこんだ様子でがっくりと項垂れている。
 加夜としては、どう慰めて良いのかが分からず、すっかり途方に暮れる気分であったが、更にオットーがふふんと胸を反らして鼻を鳴らした。
「あぁ、別に慰めてやる必要は無いからな。苦労もせずに成功出来るだなんて考えが、そもそも甘いのだ」
「うるせぇなぁ。俺様は何も、将来プロデューサーデビューしてウハウハしようってだけが狙いで動いてたんじゃあねぇんだぜ」
「……いや、どう考えても、それが一番の狙いにしか思えんぞ」
 それまで黙って光一郎とオットーのやり取りを聞いていた加夜だったが、矢張りどうにもよく分からない。
 このふたりが一体何をしようとしていたのか、素直に聞いてみることにした。
 すると――。
「俺様は天才だからな〜、すぐにピンと来たぜ! エイコさんの出す波長にマイナス1を乗算すれば、効果は反転する筈! 引き寄せるのではなく、逆にアウトプットになって、問題解決なんですよー」
「……えっと、それとプロデューサーデビューが、どう関係するんです?」
 やっぱり分からない。
 加夜の頭の中には、?マークが十個ぐらい浮かんでは消えた。すると光一郎は妙に力を入れて、唾を飛ばさんばかりの勢いで力説し始めた。
「だーかーらー! そこで俺様の歌声にマイナス1の波長を乗算して流せば、全て丸く収まるってぇ訳!」
「だがな……門前払いを喰らうという最も重要な予測を立てていなかったのは、幾ら何でも拙過ぎるぞ」
 まるでとどめを刺すが如きの、オットーの容赦無いひとことに、光一郎は真っ白に燃え尽きていた。
 もうこうなってくると、加夜も下手に慰める訳にもいかず、ただただ引きつった口元で、乾いた笑いを漏らす他は無かった。
 だが、光一郎もオットーも、そして加夜も、あるひとつの重大な事実にはまるで気づいていなかった。今、三人が前にしているこの劇場は大正2年のこの時点では、まだ存在していない筈の施設だったのである。

     * * *

 フランツを外に待たせて、泰輔はひとり、金物屋の軒先をくぐった。
「こんちはぁ」
「あいよ、いらっしゃい」
 応対に出てきたのは、まだ三十歳手前ぐらいの若い店主だった。泰輔にとっては、以前、祖父に見せてもらった古びた写真で見た覚えのある顔だった。
「いやぁ、ここ最近ルナパークのお陰で、そこらじゅう景気宜しゅうおまんなぁ」
「さいですなぁ。おかげさんで、うちもええ商売やらせてもろてますわぁ」
 当たり障りの無い挨拶から入った泰輔。ここで彼は一呼吸置いて、ある重要な質問を、それとなくぶつけてみることにした。
「ところでさっき、あっちの饅頭屋さんで聞いたんやけど、弟さん徴兵に応じたんやって? 大変ですなぁ」
 泰輔のこの問いかけに、金物屋の店主は渋い表情で小さく頷く。
「いやぁ、ほんまに参りましたわ。まさかあいつがなぁ……」
 もう、これだけで十分である。
 泰輔は適当にお茶を濁してから、金物屋を退出した。すると近くの路地で、フランツが待っていた。
「で、どうだったんだい? 何か分かったのかい?」
 だが、泰輔はすぐには答えない。
 酷く深刻な表情で宙空のある一点をじっと凝視するのみで、ひたすら自身の思案に閉じ篭っているような様子を見せた。
 これにはさすがにフランツも驚いた。彼がもう一度呼びかけると、今度は泰輔も反応した。が、矢張り深刻な面を崩そうとはしない。
「この世界……えらいことしてしもうとるで」
「と、いうと?」
 フランツの問いかけに、泰輔はごくりと息を呑んでから、静かに答えた。
「ここに居るひとらな……プログラム上の単なるデータやない。全員、本物の人格や」
 泰輔のいわんとしていることが、フランツにはまるで理解が出来ない。泰輔は一体、何をいっているのだろうか。
 だが、続けて泰輔が口にした台詞は、フランツの予測を遥かに上回る衝撃的な内容であった。
「さっきあそこの店主な、弟が徴兵に応じたことを認めたんや。でもな、戸籍上では、徴兵に応じたんは兄貴ってことになってんねん」
「……ど、どういうことだい?」
「役所の手違いで、ほんまは弟さんの筈が、兄として戸籍に載せられてたって爺さんはいうてたんや。せやからもしマーヴェラス・デベロップメント社が過去の戸籍から人格データを作ったってんなら、あそこの店主は、弟やなくて兄貴が徴兵に応じたっていう筈やったんや」
 今度は、フランツが息を呑む番であった。泰輔のいっている内容があまりに衝撃的で恐ろしい事実をはらんでいると、ようやく理解出来たのだ。
 つまり泰輔は、この世界の住民は全て、過去に生きていた人々の霊魂もしくは人格を、そのまま封じ込めてデータ化しているのだと、そう指摘しているのである。
 にわかには信じ難い話であった。