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第二章 ステージゾーンの怪


「ララ……ララッ!」
 ステージゾーン入り口。
 リリ・スノーウォーカーは、白目をむいて昏倒しているララの体を揺さぶってその名を呼んだ。
 鍋の蓋をしっかりと持ったままで、ララは硬直したように動かない。その顔には、悍ましいまでに歪んだ恐怖の表情が貼り付いている。
「なんてことだ、ララほどの者が……SAN値ゼロとは」
 この表情には見覚えがある。この世に存在するこの上ない恐怖の一端に触れてしまった者の、避け様のない末路に見えた。
 リリは、そこに何か悍ましいものの召喚の痕跡を感じ取った。
 小さく嘆息し、鋭い視線で辺りを観察する。
 ララが働いていたこの屋台の中は、何かが暴れ回った後のように物が地面に散乱している。
 気になることは、ふたつ。
 ララの手にした、鍋の蓋。そしてその足元に転がる、空の鍋。
 ……では、鍋の中味は?
 鍋の中味が溢れた痕跡は無い。或いは何かがそれを消し去ったのかもしれないが……何故だ?
 リリは這うように地面に顔を近づけ、何か軟体動物が這いずった後のような筋を発見した。地面も、屋台も、転がった調理器具も、そしてララの全身も、大小の痕が無数に走り、その縁には、粘液質の白濁した液体が、まだ乾ききらずに残っている。
 リリはララの頬についた白濁液を指でこそげて、じっと観察した。
 そして、ぺろりと舐める。リリの瞳が、深い輝きを宿した。
「……小麦粉なのだ」


「む、こいつは……」
 ステージゾーン奥の、青空ステージ前の客席でハデスがつぶやいた。
 普段このステージでは、ハークのマスコット・コンちゃんをフューチャーした「コンちゃんとなかまたちの名状しがたいミュージカル」を上演している(コンちゃんは音痴なのだ)が、どういう訳か今日は一向に始まらない。
 苛立ったお客さんがスタッフを問いつめたりしている中で、ハデスは先刻まで悠々とたこ焼きを食べていた。
 白いものが這い寄って来てアルテミスが立ち上がっても、「慌てるな、見苦しい」と意にも介さなかった。
 しかし、そのネバネバの向こうに無数の名状しがたい触手の様なものが蠢くのを見た瞬間、目を輝かせてその場に立ち上がった。
「こいつは、まごうことなき邪神の眷属だな? さすがだ、元・邪神よ。この邪悪で悍ましい空気……素晴らしい!」
 ハデスが高らかに叫ぶと、どこからとも無くけたたましい、声とも音とも呼べぬ騒音が響き渡った。奇怪な発声器官を持つ名状しがたい異形の生き物の、血も凍りつく呪詛と嘲笑であった。
『hq@おy、0;t@っgくぇkfちゅ6sw@ふえ6_tq@<bk45うh6_tq@』
 その不快なやかましさに、さすがのハデスも少し顔をしかめて両手で耳を覆った。
「ああ、ケラケラとやかましい奴だな。いいだろう、貴様は今より、ケララと名乗るが良い!」

「えーっと……邪神、なんですか? っていうか、どっちが?」
 緋王 輝夜(ひおう・かぐや)が不思議そうにハデスと触手を見比べていると、エッツェル・アザトース(えっつぇる・あざとーす)のローブがふわりと翻り、輝夜の視界を遮った。
「ずいぶんと凝ったショーですね。あちらはあまり正視しない方が無難ですよ、輝夜」
「えー、だって見えなくちゃショーにならないと思うんだけど……」
「いえいえ、きっと狂気チェックをかいくぐって鑑賞する恐怖と渾沌の名状しがたきショーのようなもの。驚異の念が恐怖に打ち勝つ、なかなかに楽しい趣向です」
 抑揚の無い声だったが、輝夜にはどことなく楽しそうな響きに聞こえた。

「くぉら、命名までしてやったのだ、姿を現さんか、這いよる混沌……もとい、コントン・ハイヨールよ! 貴様のその名状しがたい能力、気に入ったぞ! どうだ、我らオリュンポスで怪人として働く気はないか?!」
 いつの間にか椅子の上に立ち上がって、ケラケラと怪音波を発している「本体」の不定形の巨大な陰に向けて、ハデスは演説していた。
「ちょ、は、ハデス様……なんかアレ、やばいですよ……っ」
 ハデスが素晴らしいと絶賛した、アレから発散される悍ましい空気。それはアルテミスにとっては、死にものぐるいで逃げ出すか、発狂するか、いっそ死ぬかという選択肢しか頭に浮かばないほどの恐怖だった。
 しかし、騎士の誇りが、彼女を踏みとどまらせた。
「くっ……こ、この名状しがたいモノが何かは分かりませんが、ハデス様は、このオリュンポスの騎士アルテミスがお守りします!」
「フハハハハハ、我が元に来るが良い、邪神よ!」
『3yqけZs。bsfxZf「l0とyt@う!!』

「時々いるんだよな、ああいうSANチェック自体不可能みたいな非常識な奴が」
 シュリュズベリィ著 『手記』(しゅりゅずべりぃちょ・しゅき)が呆れたようにつぶやき、ローブの下から伸ばした触手の一本の先で、頬をぽりぽりと掻いた。
「触手の塊がヒトを非常識呼ばわりとは、清々しいほど愚かな発言を耳にしてしまいましたね」
 ふいに背後から掛けられた声の持ち主がエッツェル・アザトース(えっつぇる・あざとーす)であると気づくのに、『手記』は振り向く必要は無かった。
 『手記』は傍らのラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)向かって言った。
「……こんな所に来てまで此奴に会うとはな。化物が暴れている以上に不快な事実じゃよ」

「……ねえ、カンナ。あの動きって」
 客席で成り行きを見つめていた九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)が、何かに気づいたように傍らの斑目 カンナ(まだらめ・かんな)を見た。
 カンナも気づいていたのか、短く頷いて、ギターを取り出して言った。
「アレをお客さんたちから引き離そう。このままだとヤバい気がする」