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【特別シナリオ】あの人と過ごす日

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【特別シナリオ】あの人と過ごす日
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リアクション


もう一度、カスパールとお茶を

 話はすでに聞いていた。
 受け入れがたいという気持ちはあっても、事実は事実として受け入れる覚悟はできていた――と、思う。
 それでもアルクラント・ジェニアス(あるくらんと・じぇにあす)の、インタフォンに乗せた指は震えていた。
 押せば認めてしまうことになる。
 事実に直面せざるを得なくなる――そんな気がした。
 それは、恐怖だった。
「アル君……」
 シルフィア・レーン(しるふぃあ・れーん)が彼の肩に身を寄せていた。
「いいのよ。会わずに帰っても」 
 むしろそうしたほうが、という感情が言外ににじんでいる。
 しかしアルクラントは首を振った。
「いや、会う。会いたいんだ」
「そうね。そうしたほうが、いいでしょうね」
 これもシルフィアの真意だろう。アルクラントにはわかった。
 枯れ木でできた橋に最初の一歩を踏み出すかのように、アルクラントは慎重にインタフォンの突起を押した。
「アルクラント・ジェニアスです。彼女に……カスパールに、面会に来ました」
 ふとなにか、後ろめたいことをしているような気がしてアルクラントは振り返った。
「どうしたの?」
 シルフィアが問うたが、彼は答えられる説明を持たない。
 背後にあったのはまっすぐな白い廊下だ。アルクラントとシルフィアはそこをたどってこの場所に至った。
 右手の壁はしみひとつなく白く、天井も限りなく白く、床もまた白い。
 左手側は大ぶりのガラス戸、開ければ広い中庭に出ることができる。
 中庭の観葉植物までもが、午後の陽射しをうけて白い光を反射していた。
 最新設備のととのった病院……精神病棟の内部だ。

 病室に案内された。
 鋭い目つきをした看護師が、首だけでうなずいて部屋から出ていく。
「なにかあったらすぐに」
「大声を出して呼べ、ですね。わかっています」
 シルフィアの言葉は看護師を満足させるものであったらしい。彼女は立ち止まらずに姿を消した。
 白くて大きなベッド。
 機能的だが殺風景な内装。
 本棚には無害な小説がいくつか並べられているが、手の触れられた形跡はない。
 ベッドのそばには車椅子が置かれている。
 車椅子は、まるで最初からこの部屋の調度であったかのように光景に溶け込んでいた。
 その車椅子に、カスパールは腰掛けていた。
 来客を迎えた飼い猫を思わせる目で、彼女はアルクラントとシルフィアを見ていた。
「まさか、こうして再び……会えるとは思ってもみなかったよ」
 アルクラントはひどい喉の乾きを覚えていた。舌が口蓋に張りついたように感じる。
「いや……再会は確信していたと言うだろうね、かつてのきみなら」
 しかしまるでその言葉を聞いていないかのように、小首をかしげてカスパールは言った。
「あなた、だぁれ?」
 ぎゅっ、とアルクラントの腕をシルフィアが握った。
 倒れそうになった彼を支えるためなのか。
 それとも、そうしなければ自分が倒れてしまいそうになったからなのか。

 カスパールが発見されたのは、グランツ教のクイーンが当局に捕らえられてから何日も経た後のことだった。
 ただし彼女が『元マグスのカスパール』だと特定されるには、さらに長い時間を要した。
 日食の空に舞う揚羽蝶のような優美さは、保護されたときの彼女にはまるでなかったからだ。
 両足首の骨は砕かれていた。顔は赤黒く腫れ上がり、大小様々な傷が縦横に走っていた。雪白の肌のほうぼうに、癌細胞のような火傷の痕があった。
 そして彼女は、女性としての機能を喪失していた。
 どのような扱いが彼女の身になされたか、想像することすらはばかられた。
 ただ、カスパールが教団内での特権的地位を奪われたこと、同時に、あるいは前後して、一度受けた攻撃は絶対的に防禦するという能力を失ったことだけは、すぐに理解できる状態だった。
 棄てられたのだ。さもなくば、教団内で政変が起こったのだ。
 いずれにせよカスパールはその存在意義を失い、以前彼女が実現を主張していた『完全なる能力主義の世界』に放り投げられる結果となった。つまり、あらゆる意味で収奪される側に落ちたのである。
 収奪は徹底していた。命だけは残したのも、彼らの手落ちではなく徹底の一環だったのではないか。
 カスパールに残された自由は、正気を失うことだけだった。

 許可を得て、アルクラントは車椅子を押して中庭を歩いた。
 やわらかな陽射し、気持ちの良い風の吹くなかを、ゆっくりと車輪が回る。
 アルクラントから半歩ほど遅れてシルフィアが続いていた。
 中庭に出たときからずっと、カスパールは焦点の合わない目でくすくすと笑いつづけている。
「なにか面白いものでも?」
 ところがカスパールはくすくす笑いを続けながら、
「ひみつ」
 と言って、唇に指を当てただけだった。
「カスパール。グランツ教が蜂起したあのとき……きみや、メルキオールも現れるかと思っていた。しかしきみたちマグスは姿を見せなかった……。私たちは直接アルティメットクイーンと対峙し、言葉を交わした」
 最近のことなのにこうして口に出すと、遠い昔の物語のように感じられる。
「そして思った。きみたちは手段を同じくしつつも……本当の目的は違っていたのではないか、と」
 紫陽花の花咲く花壇の前でアルクラントは足を止めた。銀の車輪も、止まった。
「あのとき聞けなかった答……クイーンが捕らえられ、グランツ教は実質的に力を失った今なら……話せるんじゃないか? そう思って、今日私たちはきみを訪れた」
 カスパールは無言だった。くすくす笑いも消えている。だがアルクラントは構わずに話した。
「教えてほしい。時を越えてきたというきみの本当の願い……誰かの死の運命を変えることはできたのか?」
 アルクラントはしばし待った。
 シルフィアも待った。
 カスパールは不思議そうな表情を浮かべていたが、ようやく、自分が回答を求められていると悟ったのだろう。さらに間をおいてやっと、
「わかんない」
 と、子どもがパズルを放り出すような口調で言った。
「あなたのはなし、ながすぎるんだもの」
「なら表現を変えるが……」
 とアルクラントはカスパールの正面に回ろうとしたが、シルフィアがそれを遮った。
「私に任せて。お願い」
 シルフィアがカスパールの眼前に立った。彼女は腰を屈め、カスパールの大きな瞳を見すえた。
「あなた、カスパールよね?」
「うん」
 そう名乗れと言われて言わされているような、落ち着かない口調だった。
 けれどシルフィアは気にせず続けた。
「ねえ、カスパール。私、アルティメットクイーンに言ったの。
 夢を見ることも後悔することも『今』しかできないんだから……だから、『今』を生きている自分を大切にして。先を見すぎても、後ろを振り向きすぎても、誰かの隣を歩くことはできないでしょ、って」
 きょとんとした目で、カスパールはシルフィアを見ている。
「戦うことを避けられたわけじゃないけれど……少しはあの人……神って呼ばれてたけど、ここでは人、って呼ぶわね……あの人にも言葉は伝わったと思う」
 カスパールは不安げに、目線を逸らしただけだった。けれども、
「聞いて」
 というシルフィアの呼びかけに、怯えたように目を戻した。
「私が聞きたいのはひとつだけ。カスパール、あなたには、隣を歩きたい人が……いる?」
「わからない」
「わからなくてもいいわ。それが本当の言葉だってわかったから」
 シルフィアはカスパールを傷つけないよう、優しい口調で言いきかせた。
「私にはいるわ。隣を歩きたい人が……誰のことかは、わかってくれると思うけど」
 シルフィアは背を伸ばして後退する。そうしてアルクラントと並んだ。
 するとごく自然に、まるでそうすることが生まれる前から定めれていたかのように、アルクラントがシルフィアの腰に手をまわしたのだった。
「わかる! そのひとね……となりをあるきたいひと!」
 ようやくカスパールに笑顔が戻っていた。シルフィアはうなずいて、
「そう。彼はアル君……アルクラント・ジェニアス。私の大切な人」
 するとアルクラントも言った。
「そして彼女はシルフィア・レーン。私は、彼女を魂の片割れだと思っている」
「カスパール、覚えていない? 私たちとあなたは……知り合いだったのよ」
「しりあい?」
「そう」
「ともだちだった?」
 シルフィアはアルクラントに目を向けた。
「ああ。私たちはある意味、互いに奇妙な友誼を感じていた……いや、回りくどい言い方はよそう。友達だったよ。今ならはっきりとそう言える」
 カスパールが目を輝かせるのがわかった。こんな表情をする彼女を、アルクラントは見たことがなかった。
 しかしその輝きはすぐに、悲しい微笑みに取って代わった。
「でも……わたし、おぼえていない」
 その表情には、アルクラントも見覚えがあった。
 まぎれもない。やはり彼女は、カスパールその人である。たとえ記憶と心が、波にさらわれた砂浜のように漂泊されていたとしても。
 このときカスパールがシルフィアの左手を指さした。
「ゆびわ?」
「そう。指輪だ」
 アルクラントは左手を上げた。彼の薬指にも指輪が填まっている。
「私たちは婚約した。今日は、そのことも報告したくて来たんだ。友達としてね」
 意味はわかるようだ。カスパールは己のことのように喜んで手を叩いた。
「おめでとう!」
「ありがとう」
「ありがとう、カスパール」
 陽にかざすようにして、シルフィアは左手を上げる。
「この指輪は……時間や空間が捩れたとしても決して心は離れないということ、その象徴みたいなものね」
 今は素直に話していい――そんな気がしたので、シルフィアは思いきって告げた。
「正直ね、私あのとき……グランツ教団の建物でアル君があなたと一対一で話したとき……ちょっと嫉妬してた。今になっても、それがどういう理屈でだったのかは分からないけれど。
 あのときのあなたたちの会話の内容、私は聞いてない。これからも聞かなくてもいいと思ってる。だけど、アル君が本気の言葉をぶつけたってことだけは分かってる」
 話しながらシルフィアはふと思った。
 ――あ、これか、嫉妬の原因……今気付いた。
「シルフィア……いいのか」
「いいって、嫉妬の気持ちは、今はないから」
 シルフィアはアルクラントに場所を譲った。
 あらためてアルクラントは、カスパールの前に立つ。
「カスパール……こうして再会したのに、私の疑問は残ったままだ。それは悲しいことだ。だが、仕方がないことだとは思う。
 けれど今でも、このことは問えるだろう。
 ……カスパール。きみは今、どんな時間を生きている?」
「たいくつ」
「永劫の時に生きるという意味で……か?」
「ううん。ここは、たいくつ。ずっとおなじこうけいだもの。そとをみたいな」
 なぜだろう――その言葉に、アルクラントは救われたような気がした。
「そうか」
「うん」
「わかった。外出許可が取れるよう尽力しよう。できれば退院も……それに、きみの身請け先がないのであれば」
 と言いかけてアルクラントは口をつぐんだ。
 しかし、その続きをシルフィアが口にしていた。
「退院しても住む場所がないなら、いっそ私たちと暮らさない? 部屋ならあるから」
「いいの?」
「いいのよ」
 それを聞いてカスパールは言った。
「たのしみ」
 むしろ驚いたのはアルクラントのほうだった。
「シルフィア……」
 けれどシルフィアはこともなげな笑みとともに、
「友達でしょ? 私たちと、カスパールは」
「そうだな」
 アルクラントも笑みを浮かべていた。
「その通りだ」