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あの頃の君の物語

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あの頃の君の物語
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祖母の最期の言葉〜琳 鳳明〜

 中国河北省。
 黄河の北に位置するこの地は神話の地であり、首都北京と天津を取り囲む省でもある。
 山の地域と平原の地域が半々の土地柄で、琳 鳳明(りん・ほうめい)はその山間部の方に住んでいた。
 鳳明は元々は捨て子で、事故で息子夫婦を失った老夫婦に拾われた。
 老夫婦の家には美明という孫がいたが、美明はすでに結婚して家を出ており、都会で家庭を築いていた。
 都会に出た孫娘は春節にくらいしか帰ってこない。
 孫娘が嫁に行ってしまってからは、老夫婦たちは寂しい思いをしていた。
 そこでちょうど捨て子の鳳明と出会った。
「どうせ拾うなら男の子がいいのに」
 と、周囲からは言われたが、もう家の跡継ぎをあきらめている老夫婦は女の子である鳳明でも拾って育てることにした。
 もしかすると、鳳明がいつか婿を取って琳の家を継いでくれるのを数%くらい期待したのかも知れないが、そう言う事は特に聞かされず、鳳明は老夫婦の元で、すくすくと育っていった。
 九年制の義務教育を終えた鳳明は、卒業後、祖父母の農作業を手伝うようになった。

 そして、小さい頃からと同じく大きくなっても祖父から伝統武術である八極拳を習い、いつもにこにこ物静かな祖母の家事を手伝って暮らしていた。
 その生活が変わったのは、この数日前だった。


「おっはよー!」
 朝日が昇る前に、鳳明は起き出して、日課の鍛錬を開始した。
 一通りの套路を済ませ、一度、家に戻る。
 すると、家の中から食べ物の匂いが……しなかった。
「あ、そうだ! お粥作らないと!」
 祖母が丁寧に作っていたお粥を思い出しながら、鳳明はお粥を作った。
 お葬式に来た姉は、こういう物は食べなかった。
 都会の中国人は通勤途中に外食したり、店で買って食べることが多く、こういうふうに家でお粥を作ることは少なかった。
「屋台の豆腐あんかけスープとか人気があるのよ。安いし、美味しいし、肌にもいいから」
 姉はそんなことを言っていた。
 その姉のそばにはいつも春節の時にしか会わない姉の夫がいて、2人は鳳明には分からない世界の話をたくさんしていて、なんだか姉が少し遠くに見えた。
 姉のポニーテールもちょっとせっかちなところも、胸の部分がすっきりとした細身の身体も自分の知ってるものと変わらないはずなのに。
 

「おじいちゃん、ご飯できたよ〜!」
 鳳明が呼ぶと、祖父はのっそりとやってきた。
 農作業の準備をしていたのか、向こうに道具を置く様子が見えた。
「さ、食べて食べて。おばあちゃんほど上手には行かなかったけれど……」
 お粥を作るのは意外と難しい。
 火加減と水加減の微妙な割合もあるし、何よりまめに様子を見ていないと行けない。
 鳳明は祖母のそばにいて、いつもその様子を見ていたが、自分でやってみるとやはり勝手は違った。
 祖父は特に何も言わず、鳳明の作ったお粥を食べた。
 いまだ亭主関白の多い中国北部では、鳳炎のようなタイプは珍しくなかったが、そういったおじいさんたちの中でも、鳳明の祖父は『偏屈じいさん』として村で有名だった。
 祖父が嫌いだと思ったことはない。
 ただ、祖父はとても無口で、鳳明は祖母といつもおしゃべりしていたから、食卓が寂しく感じた。
 いつも笑顔で話を聞いてくれた祖母は、もういない。


 祖父の農作業を手伝って、家の片付けをして、お昼や夕飯の支度をして……。
 気付くともう夜になっていた。
 お風呂に入った後、鳳明は家の屋根に登り、星空を眺めた。
「おばあちゃん……」
 星に手を伸ばしてみる。
 自分の瞳に映るその手は、祖母が最期に握ってくれた手だった。
 鳳明は自分を拾い、育ててくれた祖父母に恩返しがしたくて、義務教育を終えるとすぐに、家の手伝いに専念した。
 恩返しのつもりで進学も就職もせず、家の畑もがんばって手伝っていたつもりだった。
 しかし、明照は最期に鳳明にこう言った。
「もう、好きな事をしてもいいんだよ」
 その言葉を思い出すと、鳳明の胸が痛くなる。
 気を使っているつもりが気を使われていた。
「好きなことをしていないつもりはなかったのにな……」
 それとも祖母にはそう見えてしまったのだろうか。
 だとしたら、それはまた悲しい。
 義務教育を終えて、家の手伝いを始めたのも、恩返しをしたいと思ったことも、自分で好きで選んだ道なのに。
「……好きなことってなんだろう」
 鳳明は誰に問うともなく、夜空に呟いた。


 ある日、鳳明は祖父におばあさんが言ったことを覚えているかと言われた。
 それは明照が残した「好きな事をしてもいいんだよ」という言葉だった。
 覚えていると鳳明が答えると、祖父はそれなら好きにしろと答えた。
 祖父が何を言いたいのか分からなかったが、無口な祖父がそれ以上答えてくれることはなく、鳳明はその悩みを払うように、鍛錬に打ち込んだ。
「……好きなことかぁ。八極拳だって好きだし、農業だって嫌いなわけじゃ……」
 そこで鳳明は「あれ?」と思った。
 祖父から教えられた八極拳も、祖父母と共にやっていた農業も。
 ……そのどちらも、鳳明自身が見つけた『好きなもの』ではなかった。
 鳳明は自分の小さな世界にいて、それに満足していて、それ以上を探すことはしなかった。
 祖母は『自分の好きなもの』を探しに出ない鳳明を心配していたのだ。
「あ……」
 途端に視界が開けた気がした。
 祖母が亡くなって以降、変わらないと思っていた鳳明の世界は少しずつ変わっていって。
 その変化に鳳明自身は取り残された気持ちでいたけれど、取り残されると思わず、自分から足を踏み出す必要があったのだ。
「……私は、変われるのかな?」


 この農村を出たいと鳳明が言った時、祖父は「おう」とだけ答えた。
 それ以上何も言わなかったが、それ以上の言葉はいらなかった。
 鳳明はなぜ無口な祖父でも祖母はその気持ちが理解できたのか、少しだけ分かった気がした。
 新しい第一歩。
 鳳明はそれをこれから踏み出そうとしていた。