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プロポーズしましょ

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プロポーズしましょ
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■遠野 歌菜と月崎 羽純の場合


 あと少しで6月。
 そう考えるだけで、自然と遠野 歌菜(とおの・かな)のほおはゆるくなる。
(ううっ、駄目だなぁ)
 ぺちぺちぺち。
 締まりの悪くなった鏡の向こうの顔に活を入れるつもりでほおをはたく。
 だってそうしないと、羽純くんに気づかれて――……
「何をしているんだ? 歌菜」
「ひゃあっ!?」
 突然その羽純本人の声を聞いて、歌菜は文字どおり飛び上がりそうになった。ドレッサーに座っていなかったらそうしていたかもしれない。
「やだ、おどかさないで、羽純くん」
 腰をひねって入り口の羽純を振り返る。歌菜の夫月崎 羽純(つきざき・はすみ)はドア枠に背を預け、軽く腕組みをして歌菜を見ていた。
 その真青の瞳に、どきりと胸が波打つ。
「何か心配事か?」
「うっ、ううん! 違うよ。化粧水をはたいてただけ」
 手元にコットンはないし、化粧水のふたは閉まったままなのだが。
 しかし羽純はふぅんというような表情をして、それ以上突っ込むことはなかった。
「は、羽純くんこそ、どうかしたの?」
 上ずりかけた声になるのをどうにか抑えて、平静を装い訊く。羽純は「いや」と軽く肩を竦めて答えた。
「何もなければいい。シャワーを浴びてくる」
「いってらっしゃい……」
 バスルームへ向かう羽純を見送って、ほうっと脱力する。
 鏡へ向き直り、今度こそ化粧水のふたを開けた。
 危ないところだった。
 いやべつに、知られて悪いことでもないのだが、ただちょっと……きまりが悪いというか、気恥ずかしいのだ。
 結婚して3年にもなるのに、まだそのときのことを思い出してにやけてる、なんて。
「……今思い返しても、プロポーズは突然だったな……」
 熱中症で倒れて、意識不明で病院に運ばれて。目を覚ましたら、羽純くんがいて。すっごく怒ってたけど、私のことを心から心配して怒ってくれているんだと分かって、すごく申し訳ない気持ちでいっぱいになって……。
 何も言えなくなっている私を見て、羽純くんが言ってくれたのだ。
『……俺が近くで、おまえのことをずっと見ているしかないな。
 結婚しよう。
 おまえには、俺が付いていないと駄目だ』
(そして驚いている私の手を取って、指輪をはめてくれたんだよね……)
 スキンケアを終え、髪をブラッシングしていた手を止めて、今もそこにある指輪を見つめてつくづく思う。
 それまでの人生で最高にうれしかった瞬間。
 思い出すだけで胸がときめく。
 だけど。
 場所は病院で、パイプベッドの上で。右腕には治療中の点滴静注があって。
 おしゃれな格好も、お化粧も、髪も崩れてて。
 ちょっと、いやかなり、ロマンチックさには欠けていたような……。
「――はっ!!
 や。これはぜいたくですっ。プロポーズしてもらえたんだからっ」
 自分が一番愛する人に同じように一番に愛されて結ばれるという幸せが、どれだけ奇跡的なことか知っている。
 だからこれは、本当にぜいたくな望み。
 うん、とうなずいた直後、でもやっぱり……という消しきれない思いが浮上した。
 だって、女の子だもん。
 どうせなら、最高にロマンチックな雰囲気で、最高の私で受けたかったな、って思ってもいいじゃない? 思うくらい、自由なんだし……。

「また上の空だ」

「!!!!!!!!」
 突然耳元でした羽純の声に、今度こそ歌菜は腰が浮くくらい飛びはねた。
「は、はははははは羽純くんっっ!?」
 び、びびび、びっくりした……っ。
 驚きのあまり裏返った声を出しながら振り返った歌菜の後ろで、背中の当たったドレッサーががたりと震える。羽純はまるで盾か何かのように胸の前で両手で握っているブラシを奇妙そうに見つめ、そして歌菜を見た。
 両手をドレッサーについて歌菜を腕の中に囲い込み、上から見下ろす。
「やっぱり何か心配事があるんじゃないか?」
「……や。ない、よ。本当に」
「本当か?」
「ほ、ほんと、本当……」
「なら、どうして目をそらす?」
「だっ、て……っ」
 あの、その……。
(お風呂上がりの羽純くんの姿が、め、目のやり場に困っちゃうなんて、そんなこと言えないっ)
 羽純は裸でなく、バスローブをまとっているのだが、のしかかるように上から迫られると歌菜の目の位置にちょうど胸元がくる。しかも羽純もバスローブをゆったりめに着ているものだから、緩んだ前の合わせからなかが覗けてしまうのだ。
 まだ乾ききっていない髪とか、風呂上がりの熱気とか、さわやかなボディソープと羽純のかおりが混じった、彼独特のかおりが漂ってきて、もうそれだけで歌菜の頭のなかは破裂しそうだった。
(羽純くん、色気出しすぎ!)
 全身真っ赤になって、心のなかで必死に訴える歌菜を見て、羽純はくすりと笑った。
 考えが読めるはずもないが、いかにもお見通しという顔だ。
 結婚して3年。もう何度もベッドをともにしてきているのに、いまだに歌菜は純なところがある。そういうところがかわいいのだと言いたげだ。
「そ、そそそ、そうだ!」
 歌菜が何か思いついたように声を張り上げた。
「なんだ?」
「ほら。もうすぐ結婚記念日でしょ? 羽純くん、今年は何したい?」
「何でもいい」
 これで少しは羽純の気をそらせたに違いない、とほっとした直後、羽純は即答した。
「そんなぁ」
 羽純くんにとって、その程度のことになっちゃったの?
 胸が沈みかけて、意識の大半がそちらへ向いていて。上からのしかかってくるような羽純に自然とドレッサーの上に背中を預けるかたちになっていることに、歌菜は気づいていなかった。
「俺は歌菜と2人きりで過ごせれば、それでいい。場所も何も関係ない」
 歌菜の髪を指に絡めて弄びながら、さらりと言う。
「え?」
 ぼうっと見とれている歌菜ののど元に軽くキスをして、そっと耳元でささやいた。
「何なら……もう1回結婚式を挙げるか? 今度は俺とおまえの2人きりで」
 そう言う間も、流れるような手つきで羽純の手は歌菜のまとった薄手のバスローブの上から体のラインをなぞって下りていく。
「……えっ?
 ちょっと待って……今、なん、て……羽純くん……」
 羽純が自分に触れている。
 身も心も羽純でいっぱいになって。しびれたようにくらくらした頭で、どうにかそれだけを言えた歌菜の胸元で、羽純はくつくつと笑う。そしてぐったりとした歌菜を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
「歌菜、愛している。結婚しよう」
 ヘッドボードへ凭れさせ、自分はベッドの縁に腰を下ろした羽純は、左手を取って甲に軽く触れるキスをした。
「返事は?」
 唇を触れさせたまま、歌菜と視線を合わせる。
「へん、じ……?
 そんなの、決まってるじゃない!」
 羽純くんはズルい。どこをどうすればいいか、私のことをこんなにも知り尽くしてる。
 私なんか、見つめられただけで頭が沸騰寸前になるのに。
 いくらか正気に戻ったところで、歌菜は逆襲に出た。噛みつくように自分からキスをして、しがみつく。ほんの少しでいいから、羽純の正気も奪ってやりたくて。
 転がるようにベッドに倒れ込んで、溺れるようなキスの合間に何度となく歌菜は「YES」を口にした。
 回数は覚えていない。頭の芯まで熱く溶けて、最後には自分が何を口にしているのかも分からなかったけれど、きっと、羽純には伝わっただろう。


 くたくたに疲れて、眠気が訪れて。夢も見ない眠りに引き込まれる寸前、歌菜は2度目のプロポーズも、自分はおしゃれなドレスも着てないし、化粧もしていなかったことに気がついた。
 だけど不満はかけらも沸いてこない。
 心の底まで満たされて、歌菜は夫の腕のなかで眠りについたのだった。