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プロポーズしましょ

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■朱里・ブラウとアイン・ブラウの場合


「痛ッ」
 指に走った鋭い痛みにアイン・ブラウ(あいん・ぶらう)は包丁を動かす手を止めて、反射的、反対側の親指を口に入れた。皮をむいていたじゃがいもは流しに溜めた水のなかへボチャンと落ちる。
 痛みが引くのを待って口から離して見ると、指の平のところに2センチほどの傷がななめに入っていた。アインの反応が早かったため、どうやら浅い傷ですんだようだ。
 ふう、と息を吐き、落としてしまったじゃがいもを取り出して、皮むきの続きに戻る。
 どうにも集中力に欠けている。
 最愛の妻朱里・ブラウ(しゅり・ぶらう)が病院へ向かってから、もう3時間は経っていた。
『行ってきます。終わったら、まっすぐ帰ってくるからね』
 と落ち着いた笑顔で明るく出掛けた朱里だったが、彼女の姿が見えなくなったとたん、アインの方は何をするにも手につかなくなってしまった。
 やらなくてはいけないことはいくらも思いついた。だけど、どうにもそわついて、する気になれない。
 だけど何もしないでもいられなくて、つい、バスルームの掃除をした。それから順々に家の掃除をして、する場所がなくなって、夕食の仕込みを始めたアインだったが、それでもどうしても考えずにいられなかった。
 家と病院を往復するのにかかる時間、ロビーで診察を待つ時間、診察を受ける時間……。
 もうそろそろ帰ってきておかしくない時刻だ。なのに戻らないということは……それだけ結果が深刻だということだろうか。
 ぐっと強くじゃがいもを握りしめすぎたのだろう。つるりとすべって手のなかから飛び出したじゃがいもが、また流しのなかに落ちて水しぶきを上げた。
 パシャッとしぶきが顔にかかる。
 ふう、と、朝から何度目か分からないため息をついて、水のなかのじゃがいもを見つめた。
(こんなに気になるんだったら、一緒に行けばよかっただろうか……)
 そんなことを思って、迎えに行くべきか迷っていたら、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり!」
 玄関まで出迎えに走る。
「それで、結果は……?」
 怖さ半分、期待半分。息を詰めて訊いたアインだったが、朱里が口を開く前に答えは理解していた。
 朱里の顔はこれ以上ないほど喜びに輝いている。
 まるでユノを授かったと知った、あの日の彼女のように。
 本人も知らず、苦虫を噛みつぶしているかのように固く閉じていた口元が、花がほころぶように緩まり始める。そんなアインの幸せにしびれた耳に、きっと帰り道でどういうふうに伝えるか試行錯誤していたに違いない、朱里の言葉が届く。
「私たち、今年の12月には家族がもう1人増えるんだよ。
 私……私ね、アイン。私……とっても嬉しい……!」
 声に出したとたん、ぐわっと胸に押し寄せてきた熱い感情の高まりに圧倒され、声が震える。
 月並みな言葉かもしれない。だけど、どうしてもほかに言葉が浮かばない。
 それ以上言葉を続けられないでいた朱里だったが、次の瞬間、彼女はたくましい夫の両腕のなかにいた。
 アインもまた、感極まったがゆえのとっさの行動だった。しかし朱里の体を案じて、抱き寄せる力は弱くて優しい。
「おめでとう!
 本当に……本当に、おめでとう」
 噛み締めるようなつぶやき。
 その声も、体も、朱里と同じくらい震えている。
「うん」
 この世で一番安心できる場所、夫の腕のなかで、大事な宝物のように抱き締められていることに、朱里はほっと息をつく。
 目を閉じ、身をゆだねて。
「うん」
 もう一度うなずいた。



「お正月の夜にね、夢を見たの。今年の初夢」
 ダイニングルームでテーブルについて、アインの入れたハーブティーを受け取りながら朱里は言う。
「夢の中で私は、ユノの弟か妹らしい赤ちゃんを抱いていたの。
 その夢が、現実になったんだね」
 両手で持ち、ふーっと息をふきかけて冷ますと、ひと口飲んだ。
「きっと、おなかの子がきみにメッセージを送っていたんだよ。それを、きみは夢のなかで受け取ったんだ」
「そうかも」
 そっと片手をおなかの下にあてる。
 まだ妊娠3カ月。おなかは平らで、それらしい感触は何もない。だけどこの下に芽吹いているのは間違いなかった。
(アインと私の奇跡の子)
 確かに今でも「機械と交配して、機械の子を産むなんて」と後ろ指を指す者はいる。
 それでも、言いたい人には言わせておけばいい。私がアインやユノに向ける愛情は、何も変わらない。むしろ『アインと同じ』機晶姫の命を宿せたことが、純粋に嬉しかった。
 最愛の人とともにある喜び。そしてその人との間に新たな命を紡ぎ、わが身をもってこの世に送り出し、この世ででき得る限り精一杯の愛情をそそぐ。それができるなんて、なんと幸せなことか。
 この幸せだけは、決して何者にも侵すことはできないし、朱里から奪うこともできない。
(このパラミタでは、きっと種族の差なんて、簡単に飛び越えられるぐらい些細なことなの。
 それはきっと、すべての種族が等しく『人間』であることの証なんだと思う)
 もちろん、朱里とて子どもが生まれるということは喜びばかりではないことも知っている。おとぎの世界に生きているわけではないし、もうすでに1人、ユノを育ててきているから。
 妊娠中の体調管理、妊娠中から出産、産後、育児にかかる費用、それに仕事のこと。きっと、これからいろいろ不安は尽きないだろう。
 そしてそのことはアインも知っている。
 ティーカップに指を添えたまま黙り込み、考え込んでいるアインの横顔を見て、朱里は彼が今何を考えているか、手に取るように分かる気がした。
(きっと今、私たち、同じことを考えてるね)
 じっと見つめていると、ようやく視線に気づいたのか、朱里の方を向いた。
 2人でいるのに、自分だけの思考に没入していたことを恥じるように、ほんのりと赤く染まったほおで、こほ、と小さく空咳をする。そして大きくてがっしりとした手を朱里の手にかぶせた。
「いろいろと至らないかもしれないけど、決してきみや子どもたちに不安な思いはさせない。
 これからも2人で協力して、苦難を乗り越え、幸せな家庭を築いてゆこう」
「……うん。
 私の方こそ、いろいろアインには苦労をかけるかもしれないけど、元気な子を産めるように私も頑張るからね。
 これからも2人で乗り越えてゆこう?」
 これからも、何があっても。
 きっと2人でなら乗り越えていける。
 だって、そうしてきたからこそ今の私たちがあるの。
 そして私たちから続く、子どもたちや、ユノや、この子の幸せがあるんだから……。
「朱里、愛しているよ」
「私もよ、アイン」
 2人はこつんと額を合わせると、どちらからともなく、互いに求め合って唇を重ねた。