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■綾原 さゆみとアデリーヌ・シャントルイユの場合


 夢うつつに、シャワーの音だと思った。
 でも違っていて、目を覚ますと明確に、それは雨の音だと分かった。
 綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)は覚醒しきれていない頭を回して、ぼんやりと窓の方を見る。閉じきれていない遮光カーテンの隙間から覗く窓は、打ちつける雨が筋となって伝い落ちていた。
 カーテンの端が少しふくらんで揺れている。
 そのころにはもう大分頭も覚めていて、さゆみは起きようとベッドに手をついた。
 横から白くて長い、アデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)の優美な手が伸びてきて、つつつ……とさゆみの手を肘から手首まで伝う。
「寒いですわ……ベッドへ戻って」
 顔に寝乱れた髪がかぶさっていたせいで気づけなかったが、いつの間にかアデリーヌも目覚めていたようだ。しかしさゆみのように起きるつもりはさらさらないようで、うつ伏せになったまま、その指を今度は上掛けの下に隠れたさゆみの腰のあたりへ這わせる。「あ」と、さゆみの唇から小さな声が漏れた。
「まだです、さゆみ。まだ夜は明けきっていません」
「ちが、うの……そうじゃなくて……」
 さゆみは必死に言葉をつむごうとするが、アデリーヌは聞く気はないようである。炎のようなセンセーションが駆け上がってくるのを感じて、体をわななかせ、ついに肘を折ったさゆみは「ああ」と呻き、あお向けに倒れた。
 ふふと笑って、アデリーヌが羽のような軽やかさで上半身をかぶせる。さゆみの胸の上で徐々に頭を下していったアデリーヌのセミロングの髪の先が、ほんの少し、わずかにさゆみの肌に触れた。
 触れるか触れないかの感触が、さゆみにどんな影響を及ぼすか知った上で、アデリーヌはもったいぶって動きを止める。だがそれとは対照的に、シーツの下の手はますます動きを速めているようだ。
「や……! アディ……!」
 身をくねらせ、背を弓なりにして浮き上がった胸のいただきにフッと軽く息を吹きかけると、おもむろにアデリーヌは身を放した。
「アディ……?」
「ねえさゆみ。たまにはこういうのもいいと思いません?」
 アデリーヌはにっこりほほ笑んで、サイドテーブルに置いたままの化粧ポーチのなかから薔薇のローションが入った小瓶をつまみ出した。



「……だから、そうじゃなくて……」
 むせかえるほど強い薔薇の香りが漂うベッドの上で、ぐったりとあお向けになったさゆみの頭がまともに文章をつくれるようになったのは、数十分が経過してからだった。
 いつの間にか縁からずり落ちて、ぶらぶらしていた腕を引き戻し、力を溜めると、今度こそ身を起こして床に足をつける。愛し合ったあとの余韻にひたるアデリーヌは、今度は止めようとしなかった。
 実を言うと、あのときさゆみが少し開いたままの窓を閉めに行こうとしていたことには気づいていた。邪魔をしたのは、ただなんとなく、だ。
 愛し合った余韻はさゆみの体にも残っている。昨夜からずっと、わずかにまどろむ以外は愛をかわしていた。どちらかが目を覚ませば片方を起こして愛し合う。そんなことをしていたせいで、夢のなかでも愛し合っていたような気がして、本当に眠っていたときがあったのかも分からないほどだった。
 よろよろとおぼつかない足取りで窓へ向かうさゆみから目を放して、アデリーヌはサイドテーブルの時計を持ち上げて見る。
 ――9時。
 いつもなら、とんでもない時間だ、仕事に遅刻してしまうと、あわてて寝室から飛び出し準備にとりかかっている時刻だ。
 だけど今日は、コスプレアイドルデュオ【シニフィアン・メイデン】の仕事はオフ。大学も休講だ。
 つまりは1日じゅうこうして2人ベッドで過ごしていても、全然問題ないということ。
「ふう。疲れた」
 やっと窓を閉め終えて戻ってきたさゆみが、まるで大変な大仕事を成し遂げたかのように大げさに、ばさっとベッドへ倒れ込んだ。
 もぞもぞ上掛けの下にもぐり込んでくるということは、さゆみも同じ考えなのだろう。
「アディ、時計見てたでしょ。今何時?」
「9時ですわ」
「まだ? もう昼かと思ってた」
 枕の上の頭が回転して、アデリーヌの方を向く。
「だから言いましたでしょう? まだ早いと」
 乱れてあちこちに散ったさゆみの長い髪を適当に指で梳いてまとめたアデリーヌは、現れた白くてかわいい肩にそっと口づけた。
「や。くすぐったい」
 くすくす笑って身をひねって肩を遠ざけたさゆみは、お返しとばかりにほおにキスをする。そして指をアデリーヌの形の良い唇にあて、その形をなぞるように動かすと、突然ちろりと小さな舌先が第二関節のところを舐めた。
「きゃっ」
 引き戻した直後、2人の目が合う。
 どちらともなくふふっと笑い出して。ベッドに横向けになったまま、こつんと額を合わせた。
「ねえアディ……。私たちってあと何年、こうして愛し合ったり、おしゃべりしたり、一緒にどこか行ったり……そんなことできるのかな?」
「さゆみ?」
 そっとささやかれた声が先までとまったく違う、真剣さを帯びていることに気づいて、アデリーヌは閉じていた目を開く。
「私もアディのように、何百年でも何千年でも生きられたら……って、最近思うようになったの。だって、アディはもう何百年も前に愛してた人を亡くして……それからずっと、1人ぼっちだったでしょ?
 私もその人と同じで、あなたのように永遠には生きられない。もし私が死んだら……アディはまた1人ぼっちに……」
「さゆみ……そんなこと……そんな悲しいことおっしゃらないで!」
 アデリーヌは思わず身を起こしていた。
 突然の激情に目を瞠り、アデリーヌを見上げつつも、さゆみは話すことをやめない。
「だって……私はアディのこと、こんなにも愛してるのに……ずっと、ずっと、そばにいてあげたいのに……いつか必ず別れの時が来るのよ? どんなに望んでも、私はあなたのようには……」
「やめて……やめてください!」
 聞きたくないと、アデリーヌは耳をふさぎ首を振った。
 その手をさゆみは半ば強引にはずさせる。
「ごめんなさい、アディ。聞きたくないことを聞かせることになって。でも、どうしても不安なの……時は過ぎるばかりで、止まってなんかくれないし。
 あなたをどうしても1人にしたくない」
「さゆみ……どうかそんなこと、口にしないでください。どうか落ち着いて……」
 けれど、どう見ても動揺しているのはアデリーヌの方だった。
 さゆみはもうずっと以前からこのことについて何度も考えていて、たどりついた結論を口にしているにすぎない。
 アデリーヌの小刻みに震える手をとり、彼女が落ち着くのを待って、さゆみは静かに言葉を継いだ。
「ねえ、アディ。こんなこと、あなたには唐突すぎるように思えて、戸惑ってるかもしれない。それは謝るわ。ごめんなさい。でも、私だって戸惑ってるの。こんなふうに思えた相手は、あなたしかいないから……。
 とても大切なことだから、言わせてアディ。
 私と……私と、一緒になってくれる?」
「……え?」
「……私と……その……結婚してくれる?
 アディと結ばれてから3年、こうして……ずっと恋人のままで来たけど、もっと……もっとアディと深く結ばれたいの……嬉しい時も、哀しい時も、辛い時も、素敵な瞬間も、すべてアディと分かち合って、全ての時間をふたりで様々に彩っていきたいの」
「……さゆみ……」
 アデリーヌはそれきり、言葉を失ってしまったようだった。
 彫像のようにぴくりとも動かず、またたきもせず。
 喜ぶ様子はなかった。が、同時に拒絶する様子もない。
 ただ、さゆみの両手のなかの手を引き戻すこともしなかったから、さゆみの心は壊れずにすんでいた。
「…………ダメなの、かな?」
 いくら待っても返事が返ってこないことに、だんだんとさゆみの心は暗く落ち込んでいく。
 アデリーヌを見ていられず、うつむいたさゆみの目の前で、ぽつりと一粒の滴がつないだ手に落ちた。
 あわてて顔を上げると、アデリーヌのほおを静かに涙が伝っている。
 これほど美しい涙を見たことがないと、さゆみは思った。
「アディ……?」
「さゆみ……。
 本当にわたくしでよろしければ、つつしんでお受けいたします」
「もちろんよ!」
 さゆみはしがみつき、アデリーヌを覆いつくそうとするように胸に抱き込んだ。
「アディがいいの! アディじゃなきゃ嫌! ずっとずっとそばにいて。私もアディのそばにいるから……っ!」
 全身全霊の誓いの言葉だった。
 熱く、激しい。
 身も心も震えるほどにそれが感じられて、アデリーヌはこれ以上ない幸福に包まれながら小さく「はい」と答えた。