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【Tears of Fate】part1: Lost in Memories

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【Tears of Fate】part1: Lost in Memories
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「ふたーつ」
 楽しそうに独り言するのは、紫のスーツを着た女性だ。
 胸ポケットからは白いハンカチが顔を出している。
 スーツの下のシャツは黒、知的な顔を飾る眼鏡の細いフレームも黒。
 限りなく赤に近い栗毛を、アップにして頭の後ろで束ねていた。
 翠色の瞳、猫の目のように縦長の瞳孔。
 虹彩の中に何か、機械的なものがあり、歯車のように回転している。
 恐らく知的レベルは相当に高いと思われるが、近寄りがたいほどに冷たい雰囲気を持っていた。
 それは、微笑んでいる今も同じだ。
 クランジΘ(シータ)は立ち上がり、来客に向けて丁寧に一礼した。
「ようこそ。私はクランジΘ」
 すぐにはそれに応えず、シュリュズベリィ著 『手記』(しゅりゅずべりぃちょ・しゅき)は後ろ手に扉を閉め、ゆっくりとシータの前に立った。
 それほど広い部屋ではない。書斎といった趣だ。四方の壁はすべて本棚で、チェスに関する書がぎっしりと詰まっていた。
 手記はそのマスターであるラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)を置いて、単身図書室に来ていた。自分でもその理由はわからない。繊細なところのあるラムズを謀略戦に関わらせたくない……という配慮だったのではないかと思わないこともないが、断定はしない。
 この騒動の中にあっても、手記は量産型やΚ、あるいはΠを追わなかった。別の目的の下に行動した。
(「この騒動、クランジ……Σじゃったかな? と言う輩の単独犯とは到底思えぬ。単独犯ならば、わざわざ部下を引き連れて来るとは思えぬし……何よりも、物狂いに指揮が執れるとも思えん」)
 その判断に基づき手記は、あえてエリザベートたちの即席を追わず、むしろ反対側ばかり選んで進むようにしたのだ。黒曜鳥を駆使するなどして、人の近づかない部分を探した。
 その結果、隠された通路を発見したのである。狭いが一直線のトンネルを進み、何度か階段を降り、かくてこの小部屋にたどり着いていた。
 シータの姿をしっかりと確認すると、手記はようやく口を開いた。
「初めまして、シータとやら。我に厳密な名はない、好きに呼んで欲しい」
 ローブの下の不定形の身体をくねらせ、手記は右手を差し出した。何気ない口調で言う。
「おぬしが黒幕か」
「そう考えてもらって結構だよ」
 手を握って、シータは意味深な薄笑みを浮かべた。その手は、ぞっとするほど冷たかった。
「だが、劇の主要登場人物ではないようじゃな。今のところ」
「いわば、最前列で鑑賞している客かな」
「最前列の眺めは如何かの?」
「悪くないけれど……ちょっと、物足りないかなあ」
 眼鏡の奥の目を、シータはすうっと細めた。
「きみのような人が少なくて……ええと、ローブくん」
 服装から手記のことを『ローブくん』と呼ぶことにシータは決めたようだ。
「さっきからチェス盤を見ているね。気になる?」
 シータは目で、机の上のチェス盤を指す。椅子を引いてどうぞと勧め、手記が腰掛けるのを見て自分も座った。
「ほう、近頃の機械にしてはマナーをよく知っておるな」
「どういたしまして」
 シータが笑むたび、部屋の温度が下がるようだ。肌寒い感覚を覚えながら手記は問うた。
「さて、主には色々と聞きたい事があるが……一つだけ、主の意思を聞かせてほしい」
「なんだ、チェスの相手をしてくれるんじゃないのかい?」
 ナイトの駒を玩びながらシータは言った。
 小さく息を吸って手記は改めて問うた。
「勝つために、主は何をする?」
「勝つために?」
 シータは手すさびに駒を並べ替えている。
「今回の事に限った話ではない、主は勝つ為にどんな事をする?
 チェス盤を整え、駒を並べ、タッチアンドムーブを繰り返すか?
 物狂いを焚き付け、量産された機械をばら撒き、一人戦略を練るか?」
「戦略、ねぇ」
「チェスは戦略について教えてくれるが、その意味までは教えてはくれぬぞ?」
 質問に対し質問をぶつけるやりとりを、シータは楽しんでいるようで、白黒、その両方の駒を動かしながら言った。
「回答にはならないかもしれないけれど……いわば意識改革さ」
「チェスのようなゲームを心理学の教育に用いるというアイデアを聞いたことがある。チェスの勝ち負けにこだわるのではなく、『心の読みあい』を学ぶのじゃと……そういった話か」
「割といいところをついてくるね、ローブくん。残念だよ」
「なにを残念がっておる?」
「もっと話したかった、ってこと。悪いけど、ここまでなんだ」
 いつの間にか盤上のゲームは黒の勝ちで終わっていた。
「また会おうよ。ローブくん」
 シータを指先で白の『王』をぱたんと倒した。

 気がつくと、手記は一人、さきほどの部屋に取り残されていた。