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リアクション
●その名はカスパール(3)
これがカスパールの特殊能力なのではない。
一般の人と同じだ。虫の知らせと呼ばれるたぐいのものだ。
首の後ろに重みがのしかかっているような感じ。
あるいは、静電気でも発生したかのように、ざわざわと産毛が立つ感じ。
そういった感覚を今、カスパールは味わっている。
彼女を訪なう者が来たのであろう。おそらくは、この建物に。
最後の訪問者があってから何分あるいは何時間経ったのかはわからない。
しかし十時間熟睡したような晴れやかな光が、このときカスパールの瞼の下に宿っていた。
受付で名乗ったアルクラント・ジェニアス(あるくらんと・じぇにあす)は軽いショックを覚えていた。
「マグスの訪問予定者に名前がありますね」
受付の女性はそう言って、市役所の受付のように素っ気なく「お通り下さい」と告げた。
灰白色のリノリウム通路を歩きながら、シルフィア・レーン(しるふぃあ・れーん)はしばし振り返り、尾行や監視がないことを確認している。
「まるで私たちが来ること……読んでいたみたいじゃない? アポイントをとっていたわけでも何でもないのに……」
気味悪いわ、とシルフィアは言うのだが、エメリアーヌ・エメラルダ(えめりあーぬ・えめらるだ)の見解は異なるようだ。
「私はそうは思わないわね。カスパールはきっと、毎日アルクラントの名前を来客予定に乗せていたのよ。本当に会いに来たときハッタリを効かせられるようにね。
テレビで何度かカスパールの話すのを観たけど、あれこそ希代の詭弁家ってやつよ。ああいえばこういう、その場限りだけど力強い言葉を用いて、どんな議論も強引に自分のほうに流れを持ってきていた」
エメリアーヌは『詭弁』と断じるが、確かにカスパールは一代の論客であった。ひとたび宗教家と論争になれば、グランツ教に対して受けた質問を「ところであなたのところはどうなのです?」と逆に質問にして返す。一旦質問がわに転じればしめたもので、彼女は矢継早に質問を繰り出し、相手が窮すればそこを徹底的に攻撃して黙らせてしまう。その攻撃の言葉にしたところで、メディア受けを多分に意識した切れ味鋭い文句が並ぶのである。深く考えずにこれを見た者は、カスパールに理があると思うことだろう。
そのようなカスパールであれば、論戦の機先を制するような行いは決して特殊ではない――むしろこの程度は常套手段ではないかとエメリアーヌは考え、警戒しているのだ。
「着いたよ。この扉だよね?」
受付で聞いたドアの前に完全魔動人形 ペトラ(ぱーふぇくとえれめんとらべじゃー・ぺとら)は立ち、噂に聞くパネルをおっかなびっくり眺めていた。決して触らない。まるでこれに触れると高圧電流でも流れるとでもいうかのように。
だがアルクラントは迷わず手を伸ばし、ひやりと冷たい鉄球を握った。
「エメリー、指示を頼む」
エメリアーヌが指示した。最も左の穴に鉄球を設置せよ、そしてしばらく待てと。
「私の本体にしてあんたの日記帳を納めているのも素敵八卦……これは偶然かしらね? それとも何かの予兆?」
ふっと彼女が微笑したとき、小さな金属音を立てて扉が開いた。
「さ、行ってらっしゃいな」
エメリアーヌは扉を開くと、アルクラントに行く手を示した。
「太陽と月をつなぐ、あんたの言葉。それこそが八番目の星になる」
奥部から声がする。聞き覚えのある声だ。
「アルクラント・ジェニアス様、ですね」
彼は軽く頷くと、紫色の薄明かりの中に踏み込んだのである。
「先日の問い、それに対する答えを告げに来た」
「拝聴いたしましょう」
三人のパートナーを連れアルクラントが部屋に入ると、背後でドアが重々しい音を立てて閉じた。
完全防音なのだろう。外の音はまるで聞こえない。部屋には窓もなく時計もないので、外界から完全に遮断された環境に思える。
深海の底のような静けさの中、たしかに彼女……カスパールはそこにいた。
座禅を組むカスパールは人というよりまるで、人を模した人形のように見えた。微笑するでも怒るでもなく、ただ真剣な顔をしている。前髪が目にかかっているが、払う気はないようだ。
「どうしました? アルクラント」
臆したのですか? カスパールの口調はそう言っているようにも聞こえた。敬称の『様』は消し飛んでしまっている。
――怖がってるかって? 少しはな。
認めたと同時に、いくらか気が楽になるのをアルクラントは感じた。
当然だ。まったく恐怖を感じないほうがどうかしている。
ここはいわば敵地……敵地の中なのだから。
「カスパール、私はあの日から考えてきた。どう回答すべきかを」
アルクラントもカスパールを『さん』付けで呼ぶことをやめている。そうすることが自然と思えたのだ。
小細工はせず率直に言おう、と前置きして彼は続けた。
「先日の会談での言葉の意味とその先にあるもの。そして、私の中にいる神。
おそらくその両者は似ているようで……違う」
ほう、とカスパールは眼を細めた。むしろその答を期待していたかのように。
「あのときお目にかかったお二人も同意見で?」
「そうね」シルフィアが言った。「あなたは、超国家神(アルティメット・クイーン)が降臨して世界に創造的破壊をもたらす……つまり旧い秩序を一掃し、すべての人を平等なスタートラインに置くと言ったわ。でも、本当にそんなことができる神様がいるのなら世界は変わる?」
「変わる、そう断言したはずですけれど?」
「質問が悪かったかもね。
私は多分幸せなんだと思うけれど、世界には悲しんでいる人もたくさんいる。本当に変化が実現するとして、そういった人たちは本当に救われるの?」
「『救われる』というような表現を私はしましたか?」
「そう思ってたけど……」
「とすれば失礼ながらシルフィア・レーン様は考え違いをなすっておいでです。勉強不足、と辛辣な表現を使わせて頂きますわ」
「……」
シルフィアは黙らされてしまった。途端、カスパールは滔々と自説を述べたのである。
「私が望むのは機会の平等が確保された社会……何もせぬ怠け者が救われる社会ではありませんわ。一旦この社会を壊してあらゆる既得権益を剥ぎ取り、健全な努力こそが唯一絶対の優劣を決める社会を指向するものです。それを『破壊』と表現しただけのこと。
怠け者、いわば社会的要因によらぬ『結果としての弱者』を救済する必要はありません。悲しんで泣いているだけで何もしないのであれば、いつまでもそのままです。ただし、彼ら怠け者が努力さえすればおのずと道はひらかれるでしょう」
完全に納得はできない、できないのだが、シルフィアは返す言葉を失ってしまった。
シルフィアと入れ替わるように、ペトラが口を開いた。
「うーん、やっぱり僕にはそのお話、よく分かんないんだけど……違和感があるところだけ言うよ。カスパールさんの言う『破壊』って言葉がひっかかるんだ。なんだかイヤだな、って。
僕は、まだまだ世界のことを何も知っていないから、このすてきな世界を、もっともっと、見たいんだ。壊されちゃったりしたら、出会えなくなっちゃうものが多すぎるよ」
「いいえ。そうではありません」
カスパールは今度も足下に否定した。彼女は言う。
「むしろ『出会えなくなる』原因を作っているのは現在の閉塞的状況です。ペトラ様、あなたの前にあるはずの無数の可能性が、既得権に凝り固まる人々に奪われていたとしたらどうなります?
もう少し簡単に言いましょう。超国家神が破壊するのは、あなたの足を引っ張っているものです。破壊の痛みに耐えることで、足枷が外れるのです」
「僕はそんな足枷を感じないんだけど……」
「見えていないだけでしょうね。少なくとも、多くの足枷にとらわれている人はたくさんいらっしゃいます。それはいけないことではなくって?」
エメリアーヌは手の杖で床を軽く叩いた。
いけない。
シルフィアもペトラも、カスパールの術中に陥っている。このままアルクラントもカスパールの言葉にの呑まれてしまうのだろうか。
――アルク、私はアルクの日記データの化身だ。忘れるな、私を。忘れるな、己の過去を。
口に出して伝えるべきか……エメリアーヌは少しためらったが沈黙を選んだ。なぜなら日記データである彼女は、誰よりもアルクラントのことを知っているから。これで気後れするような男ではない、と。
――アルクがいままで見てきたこと、その全てを、世界に見せておやりなさいな。
エメリアーヌの思念が伝わったかのように、アルクラントは落ち着いて言葉を発した。
「カスパール、今のやりとりを聴いても私の考えは同じだ。いや、一層強くなったと言える。
改めて、確信を持って言おう。私の考える神と、それとは違う。
理由はシンプル。私はこの世界が好きだからだ。
グランツ教の超国家神には、未来があるかもしれないが、過去がない。だから、決して交わることはない」
「過去がない……?」
「カスパールは過去を忌まわしきものとしてのみ捉えている。だから簡単に『破壊』などと言うのだ。
私がどこから生まれてきたのか、それはわかっている。曽祖父くらいの先祖であればたどることはたやすい。だがそれよりずっと先の先祖、数百年前ともなるともうお手上げだ。しかし、だからといってそれが、過去を忌まわしきものと断じる理由にはならない。
考えてみてほしい。過去なくして現在が、そして未来があるだろうか」
声を上げてアルクラントは、カスパールに一歩近づいた。
「カスパール、あなたの言うグランツ教は、現代の視点でのみ過去を切り捨てるのか? 過去を切り捨てながら未来をうたうのか? それは現代人の傲慢ではないのか? あなたもいつかは『過去』になるであろうに……」
「……そこまで言ってはおりません」
カスパールは反論するがその口調にはどこか力がなかった。痛いところを突かれたのかもしれない。
アルクラントはさらに一歩、彼女に近づいた。
彼とて過去に苦しめられたことはある。だがそのときも過去に勇気づけられ、現在に復帰し、未来を目指すことができた。これは事実だ。
『恐れることを恐れるな。
本当に恐れなければいけないのは、立ち止まることだ』
彼の曾祖父である天地・R・蔵人の言葉だった。これがアルクラントを苦境から救うきっかけとなった。立ち止まるまい。されど、来た道を否定することも、ない。
「すべてを背負って、私は私の行くべき場所へ行く。
それの道程は、現在(いま)を生きることだ」
アルクラントは、手を伸ばせば触れられるほどの距離にまでカスパールに迫っていた。
「私は人として、人に問う。過去とは、未来とは、そして現在とは何か、を」
「それは、いま私たちが話し合う内容ではないかと思います」
カスパールは立ち上がっていた。たじろぐような様子は微塵も見せなかったが、彼女の指は出口を指し示していた。
「少し疲れました……休ませて頂けますか」
カスパールは笑みを浮かべていた。
だがアルクラントはもう判っていた。
笑みを浮かべているときこそ、彼女は嘘をついているのだ。
別れを告げてアルクラントは立ち去った。
遠からず彼女とはもう一度会うことになるだろう――そんな気がした。
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