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リアクション
■~.Grand Waltz brilliant Op.18
「和葉」
新たな旋律が刻まれ始めると、神楽坂 緋翠(かぐらざか・ひすい)はパートナーの水鏡 和葉(みかがみ・かずは)に料理を取って渡しながら不服な声を出した。
「どうして私はこんな服を着ているんでしょうね?」
緋翠がそう訴えるのも当然だった。彼が今着ているのは和葉の姉の着物である。ちなみに緋翠に女装癖はない。だからこそ彼は改めてそんな質問をしたのだが、和葉の答えはこうだった。
「似合うじゃん」
思わず緋翠は言葉を失くした。それは一概に和葉の言葉があまりにも簡潔すぎる所為ではなく、少なからず的を射ているからだ。
化粧などしていないのに、自分で鏡を見ても違和感を抱けないほどに着こなせていた。
もうこの際否定しても仕方がない。今は辛抱することにして、気が紛れるような何か他の話をしよう。そうでないと自分が誰なのだかわからなくなる。
小さく咳払いをすると、緋翠は気を取り直して口を開いた。
「そういえば私たちの出会いは、和葉が迷子になっていたことから始まるんですよね」
「だから、迷子になってたのは父様だってば!」
和葉が鋭く反応すると、緋翠は笑みを含んだ。
何はともあれ、あの時は――。
緋翠は真昼の空京をふらふらと彷徨っていた。
彼には生き別れた妹がいる。ただわかっているのはそれだけで、どこにいるのかも、どんな暮らしを送っているのかもわからない。妹を探しているというか、妹を探す手がかりを探しているのだ。
そんな気の遠くなるような現状を自嘲していると、緋翠は見逃しかけた風景を振り返った。
緋翠は目を見開いた。遠い記憶の中にある妹の面影が、今しがた彼とすれ違ったのだ。どうしてよいものかわからず、その背中を凝視する。すると、妹は――いや、彼は振り返ったのだった。
緋翠は肩を落とした。それは妹によく似た、しかし別人の男の子だった。そんな簡単に見つかるはずがない。そう思った緋翠が引き返そうとすると、その子は口を開いた。
「あの、お兄さん?」
男の子にしては随分と可愛い声だ。もしかしたら妹が男装してるのでは。一瞬そんな希望的観測が頭を過ぎると、緋翠はすぐに掻き消した。
「俺ですか?」
「そう、お兄さん。ちょっとお願いがあるんだけど、父様が迷子になっちゃってさ――」
緋翠は不思議な感覚に囚われていた。彼が自分の妹でないことははっきりしている。なのにこの、懐かしさにも良く似た空気は何なのだろう。出会うべくして出会ったというか――。
「――お兄さん? ねぇ聞いてる?」
彼が緋翠の目の前で手を振って見せると、緋翠は我に返った。
「え、ええ、聞いていますよ。あなたが迷子になったから、お父様を探せばいいんですよね?」
「違う! 迷子になったのは父様! もう、ちゃんと聞いててよ」
眉を吊り上げて必死に訴える彼は、一通り言い終えると腹の虫を鳴かせていた。
「う……」
「おや、お腹が減っているのですか?」
「まだお昼を食べてないからね……」
その仕草を見た緋翠は少し笑みをこぼす。
「では、お父様を探す前に、あそこのカフェテラスで腹ごしらえしましょうか」
サンドイッチを頬張る和葉を眺めながら、緋翠はコーヒーを啜った。
「お名前は何と言うのですか?」
「ボク? ボクは水鏡和葉」
一言答えると、彼はまたモグモグやり始める。緋翠はそんな彼を眺めた。
整った身なりだ。サンドイッチに夢中ではあるが、その食べ方からも染み付いたマナーが身についている。そういえば歩いている時も姿勢正しかったし、そこらの子供とは少し違っていた。だから緋翠は妙な違和感を抱いたのかもしれない。
「良いお家柄に育ったのですね」
緋翠がそうこぼすと、口の中にあるものを飲み込んでから和葉は顔を上げた。
「そうなのかなぁ? 学校とかの友達もみんなそう言うけど、ボクにとってはそれが普通だからよくわかんないんだよね」
その言葉を受けて、緋翠はコーヒーを飲みかけたその手を止めた。
それはとても幸せなことだ。周りから見て自分の環境が見劣りしないからこそ、彼は自分の環境が普通だと言える。それを遥か下方から見上げるしかない人々にとっては、口が裂けても彼の環境を普通だとは言えないだろう。
「あ」
緋翠が思いに浸っていると、和葉は不意に声を上げた。
「どうしました?」
「父様だ」
緋翠が彼の視線を追うと、ちょうどこのテラスを通りかかった男性がいた。立派な出で立ちだ。やはりなと緋翠は思った。
「じゃあボク行くよ。サンドイッチご馳走様」
お互いが立ち上がってただ儀礼的に握手を交わしたその時だった。何の変哲もない動作のはずなのに、二人の間に仄かな輝きが溢れ出して――。
「何を思い出してんの?」
あの時と同じように口をモグモグさせる和葉に声をかけられて、緋翠の脳は今に戻ってきた。
「いえ、大したことでは」
質問しておいて緋翠の返事を聞いていたのか怪しい和葉は、リンゴジュースを飲み干すと勢いよく立ち上がった。
「さて! お腹も一杯になったし、踊ってこようかな!」
「和葉、踊るって言ったって誰と――」
言いかけた緋翠は自分の姿に気が付いてはっとする。
「お美しいお嬢さん、ボクと踊っていただけませんか?」
和葉は流石に良家の出である。スイッチが入るとこういうことには滅法強い。差し出されたその手を見て、緋翠はやれやれと笑いながら溜め息をついた。
「きちんとリードしてくださいね?」
#
月美 あゆみ(つきみ・あゆみ)は沈んだ気分で図書館入り口の階段を上っていた。
平日の真昼間、図書館はまるで開店休業状態だった。
あゆみは何かあるたびに図書館に足を運んでいた。本のある場所は落ち着くし、あゆみの好きなスペースオペラの本だって山ほど置いてある。
今日もいつもと同じようにSFの棚の前を行ったり来たりしていると、あゆみはふとおかしな光景に足を止めた。
向こうの通路に、毛並みの良い猫がちょこんと佇んでいる。
どこから紛れ込んだのかな。それにしても開いた本の上でひなたぼっこしてるなんて可愛らしすぎる。そう思ったあゆみがその猫にそっと近付くと、猫は急に本をぱんぱんとその柔らかそうな手で叩き始めた。
「猫は、人間なんか、食べないもん!」
あゆみは耳を疑った。辺りに人はいない。ならば今の声は一体誰が言ったのだろう。
疑問を抱いたあゆみが辺りを見回すと、猫の耳がぴくりと動いた。
「誰?」
あゆみは目を丸くした。その声と同時に振り返ったのは、目の前の猫である。
「うわわ、うわわわわ!」
「そんなに驚かないでよ。大丈夫、化け猫とかじゃないから」
猫はそう言いながら、読んでいた『注文の多い料理店』を閉じた。
「猫が、喋ってる!」
泡を食ったあゆみは指さして言った。
「うーん、正確には猫じゃないんだけど……」
猫は途中で言うのをやめた。あまりにもあゆみが慌てすぎていて聞いてくれないのである。
「あなた、そういう本が好きなの?」
「えっ?」
突然話題を変えられたあゆみは、自分の抱いていた本を見る。
「あ、ああ……このシリーズはまだ読んだことがなかったの」
「『火星のプリンセス』……? 聞いたことないけど」
「あら、結構有名なのよ」
思わず少しムキになってしまったあゆみは、なぜ私は猫と真剣にこんな会話をしているんだろうと冷静になる。
大体猫が話しかけてくるなんておかしい。普通に考えたらありえっこないのだから、そもそもの原因は私にあるのかもしれない。そういえば、この間読んだ本には脳が原因の幻覚のことが――。
「獣人なの」
「へ?」
間抜けな声を出すあゆみに、猫は呆れて溜め息をついた。
「だ、か、ら! ミディーは獣人なの!」
「あなた、ミディーっていうの?」
「そうよ。フルネームはミディア・ミル(みでぃあ・みる)! そっちは?」
一通り自己紹介すると、ミディアはあゆみに返してきた。
「あゆみは、月美あゆみ」
「ねぇ、あゆみ?」
ミディアは少し考える素振りを見せると、思いついたように口を開いた。
「本もいいけど、本当の冒険をしたいとは思う?」
「そりゃあ、クリスみたいにレッド・レンズマンとして……あ、でもあゆみは赤毛じゃないから、ピンク・レンズマンなのかな。とにかく――」
「ストップ! ストーップ!」
ミディアは両手を挙げてあゆみを遮った。
「じゃあ、私と契約しましょ。そしたら冒険の世界に連れて行ってあげられるわ」
「契約? 契約ってもしかして、悪魔に魂を売るみたいな――」
あゆみの口を突いて出た言葉を聞いて、ミディアは全身の毛を逆立てた。
「ミディーが、悪魔だって、言うの!?」
そんなことがあって、二人は今蒼空学園のパーティー会場にいる。
二人はお互いに似たような境遇だった。悲しみや寂しさから逃れる毎日だったそれぞれが、契約を交わしたことによって日常を激変させたのである。そうなるために二人はあの図書館で出会い、また引かれ合ったのだ。
「ねぇ、ミディー?」
白いふわふわのドレスに身を包んだあゆみは、しゃがみながらミディアを呼んだ。
「あゆみたち、踊っているように見えるかな?」
ミディアは普段人の姿にならない。あゆみが踊りながら時折しゃがみ、ミディアの手を取るのである。
「何言ってるのよ、あゆみ。私たちが楽しめてればそれでいいの!」
「うん、そうね」
あゆみは、初めてミディアの背中を見かけた時、今までになかった何か新しいことが始まるんだと予感していた。
ミディアもまた、最高のパートナーに逢えた。楽しくリズムを刻みながら、私たちの魂が永遠で良かったと心から感謝すると、不意にあゆみがミディアを抱き上げた。
「ミディーと一緒にこの大陸に来れて良かったよ」
嬉しそうにそう言うあゆみは、ミディアの頬にキスをした。
「わっ、あゆみ~」
びっくりするミディアを見て、あゆみは満面の笑みを浮かべる。
「これからもよろしくね、ミディー」
「うん、よろしくね、あゆみ!」
こうして二人は、この宴が終わるまで、最高のパートナーとして楽しく踊り続けた。
#
カルウェルト・セフィラ(かるうぇると・せふぃら)は、思わずパートナー・結城 沙耶(ゆうき・さや)の優雅な足取りに驚いた。
「踊るのは、本当に久しぶりです……」
切なく呟いた沙耶に、カルウェルトは思い出す。
そういえば沙耶は、深窓の令嬢だったんだ。
まだ世間というものを、人間というものを、悪意というものを知らなかった沙耶は、その心と同じく真っ白で綺麗な格好をして、椅子に座っていた。
大人たちは匂いの強い飲み物を飲み、顔を赤らめながら踊り明かしていた。沙耶はその光景も、そこに流れる音楽も好きだった。陽気な大人たちがちやほやしてくれて、まだ酒は早いなんて言いながら冗談を飛ばし合って。一度踊ってみれば拍手喝采は当たり前だった。
だが、なんでもないある日、それは紙を千切るように簡単に崩れ落ちた。
沙耶の父親に憎しみを抱いていた誰か――またはその手先が、家にいた者全員を殺めた。沙耶だけ残されたのは、恐らく賊の気まぐれである。沙耶の顎を下から強く握ると、そいつは口を開いた。
「この顔をよぉく覚えておきな。俺が、お前の全てを奪った男さ」
そいつを筆頭にした賊どもは、下品な笑い声を後に残して去っていった。
沙耶が気付いた頃には、家のあちこちで火の手が上がっていた。
いつ家を出たのか。いつから走っていたのか。いつ座り込んだのか。沙耶にはわからなかった。一つだけわかっているのは、人通りの少ない道端で強く雨に打たれているということ。
突然、沙耶の周りだけ雨が止んだ。
「泣いてるのか?」
沙耶はその男性を見上げたが、答えられなかった。自分でも泣いているのかわからない。
「……喋れない?」
彼は沙耶に雨がかからぬように傘を差しながら、困った顔で聞いた。それに対して沙耶はぶんぶんと首を振ると、髪を濡らしていた水滴が飛び散って彼の服にかかった。沙耶はそれを、自分の手のひらで拭き取ろうとする。だが煤と雨で汚れていた沙耶の手は、余計に彼を汚してしまっていた。
彼女の目に涙が溜まり始めると、それを見ているのに耐え切れなくなった彼は言った。
「……とりあえずウチに来るか? そのままだと風邪引くぞ」
それから、二人の物語が始まった。身寄りをなくした沙耶が頼れるのは、偶然拾ってくれたカルウェルトだけ。
平穏に生きたい。ある時、沙耶はそう言った。仇を討つ気もないらしく、このまま何も失わず静かに暮らせたら。彼女は恐らく心の底からそう願っていた。
しかしカルウェルトはそんな彼女を見てはいられなかった。付き合っているうちにある程度の表情は取り戻していったが、決して笑顔を見せてくれることはなかった。彼女は笑顔を失くしたのではなく、奪われたのである。
彼女が笑ったらどんなに素敵な画になるだろう。そう思うと、カルウェルトは沙耶をそのままにはしておけなかった。
その事を思って自然に暗い表情になってしまうカルウェルトに、沙耶は心の中で問いかけた。
あなたはどうして、全てを失くした惨めな私を、拾ってくれたのですか?
それを口に出して聞くのは怖かった。何か下手なことを言って、「何も持っていないお前などもう要らない」と捨てられてしまったら、私は、私は――。
「沙耶」
いつの間にか視線を伏せていた沙耶はカルウェルトの声にびくりとすると、必死に怯えを隠して彼を見た。
「な、なんでしょう……?」
「なんでしょうじゃないだろ。折角のダンスなんだ、もっと楽しそうに踊ってくれよ」
――せめてそんな、悲しい顔をしないで。
カルウェルトはぶっきらぼうな男だ。だが、そんな彼の表情に温かなものを見て、沙耶は自分の馬鹿げた不安を消した。この人は、そんなことは口が裂けても言わない。私は、彼に身を預けてもいいんだ。
「すみません……そうですね。私のわがままに付き合ってくれてありがとう、です。カル」
目を合わせると、二人は静かに揺れた。
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杉原 龍漸(すぎはら・りゅうぜん)は辺りを見回しながら料理を自分の皿によそっていた。
もう宴も終わりを迎えつつある。龍漸は参加者と交流したくてこのパーティーに参加したのだが、運悪く話す相手を見つけられずにいた。何もしないでいるのも手持ち無沙汰なので、今は仕方なく料理に手を出しているのだが、何かを食べたいわけではない。
「それ、食べないの?」
ふと女性に話しかけられた龍漸は、振り返ると違和感を覚えた。たった今自分の皿に盛ったはずの料理がない。そして話しかけてきた女性は何かを咀嚼していた。
「あっ、こら!」
白いタキシードに身を包んだ彼女のパートナーらしき男性が、慌てて駆け寄ってきた。
「カフカ! 人の物を勝手に食べちゃダメだと言ってるでしょう!」
「え~、ちゃんと聞いたよ~? それに、この人食べる気はなさそうだしー」
彼女の否定をまるで無視して、男性は龍漸に頭を下げた。
「申し訳ありません、この黒木 カフカ(くろき・かふか)が飛んだご無礼を」
「いやいや、拙者は大丈夫でござるよ。確かに、食べる気はなかったし」
「ほらね、シロ! 言った通りでしょ?」
龍漸の言葉を聞いてカフカが得意げに胸を張ると、男性はカフカの額をぺちんと叩いた。
「あたっ」
「そういう問題じゃありません」
「シロ……?」
妙な名前だなと龍漸が不思議そうにする。それに気が付いて男性はまた頭を下げた。
「これは、申し遅れました。私はこの黒木カフカのパートナーの白鳥 鷺(しらとり・さぎ)と言います。パートナーというよりは、パトロンと言ったほうが正しいですが」
「おお、そうでござったか! 拙者の名は杉原龍漸でござる」
二人が自己紹介をする傍で、カフカは目の前のテーブルの大皿をあっという間に空にしていた。
「それにしても、すごい速度でござるなぁ」
「すみません、いつもこの調子なんですよ」
龍漸と鷺がしげしげとカフカを眺めると、カフカは不意に顔を上げた。
「んで? リュウちゃんのパートナーは?」
龍漸は目を丸くした。
「リュウちゃん、とは……拙者か?」
「ああ、すみません。カフカは誰彼構わずあだ名をつけるんですよ。はは、言っても聞かなくて」
今日は謝ってばかりだと鷺はおかしそうに自分を嗤う。
「拙者は一人。今日はパートナーを連れてきてないでござる」
「なんで?」
龍漸は頬を一杯に膨らませるカフカにわけのわからない愛くるしさを覚える。さしずめハムスターだ。
「拙者は踊るためじゃなく、こうして誰かまだ見知らぬ人と話したいからでござる」
「それもまた良い楽しみ方ですね」
鷺が笑顔を向けると、龍漸は空になっていた自分の皿をテーブルに置いた。
「拙者は、日々辛い修行を重ねてきた」
龍漸は思わず自分の手のひらに出来たマメを見る。
「だが、ここにきてからは修行があまり辛くなくなったのでござる。それは友達が出来て、皆に毎日会えるからに他ならないでござるよ。拙者は小さい頃友達がいなくて、ただ修行だけの毎日でござった」
言いながら、彼は辺りを眺めた。ダンスフロアでは、彼と同じ葦原明倫館の学生も幾人か踊っている。
「しかしここには共に戦った同士がいる。これは拙者にとって、とても良いこと。皆には感謝をしているでござるよ。だから、もっと友人を増やしたいのでござる」
「ほぉ、そうでしたか」
関心したようにそうこぼした鷺は、食べっぱなしのカフカの口周りを拭く。
「それにしてもおぬし、いい食べっぷりでござるなぁ。もしや、朝飯や昼飯を抜いたのでござるか?」
龍漸の問いに答えようとカフカが顔を上げるが、その口には喋れないほどに料理が詰め込まれていた。代わりに鷺が口を開く。
「いえ、カフカは一食抜いたら恐らく死んでしまうかと。毎食この調子なんですよ」
「なんと!」
龍漸が文字通り飛んで驚くと、鷺は苦笑をこぼした。
「ええ、まぁ、はは……」
その傍でカフカが嬉しそうな目をする。食べても食べても次の料理が出てくるここは、彼女にとってはさながら天国のようだ。
「カフカと出会った時はそれは驚きましたよ。彼女、行き倒れていたんですけど……まぁもちろん空腹でね」
その言葉を聞いたカフカは何か言いたげな目をしていたが、鷺はそれを無視した。
「私は料理を出したんですけど、出した傍からなくなっていくんです。五人前のビーフシチューが二分でなくなるんですよ」
「おお……それは恐ろしい話でござるな」
龍漸が相槌を打つと、鷺はまさにそれと言わんばかりだった。
「その日、買い出しに行っておいたのに冷蔵庫は空。なのに彼女はまだ腹半分も満たされてないと抜かすんですよ。四次元胃袋という称号があったら、まさにそれは彼女のためにあつらえたようなものです」
鷺の横で不服な顔をしながらも未だ食べ続けているカフカを見て、龍漸は頷くしかなかった。
「ですが、私はそんな彼女だからこそ面倒を見ねばと思いました。放っておいたら空腹で倒れるような人ですからね」
「しかしそれも物凄い包容力でござるな。その調子だったら、月の食費は――」
龍漸が言いかけると、鷺が片手ですっとそれを止めた。
「言わないでください。それはNGワードです」
「お、おお……」
鷺の妙な辛辣さに、龍漸は思わず後ずさってしまった。カフカはコップを鷲掴みにすると喉を鳴らして水を空にする。
「でも、これでリュウちゃんと僕たちは今日からお友達ってわけだね!」
「おお、そう言ってもらえると拙者もありがたい! どうやら、人の良さそうなお二方でござるからな!」
「ええ、こちらこそよろしくお願いしますね」
双方が改めて嬉しそうに挨拶をすると、カフカは満面の笑みで言う。
「じゃあそのうち、リュウちゃんのとこにも遊びに行こうか!」
「うっ……その時は覚悟がいりそうでござるな……」
龍漸は服の裾に入っている財布を堅く握り締めた。
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「へぇ、じゃあミシェルさんは、使い手がいないのに目覚めてしまったってことですか?」
加夜は、今日最後になるであろうペアとカウンター越しに話をしていた。玉兎は店仕舞いの準備をするため、またグラスを丁寧に磨き始める。
「そうなの。なんだかそれがいけないことらしくて、すっごく追いかけられたし」
ミシェル・ジェレシード(みしぇる・じぇれしーど)は加夜の問いに答える。
「でもそれは不思議ですねー。あ、もしかしてその時にはもう、銀さんはパラミタにいたんですか? 例の、小型結界装置で?」
「たぶん、タイミングとしては同じ頃か?」
ミシェルのパートナーである影月 銀(かげつき・しろがね)は、当時のことを思い出しながらそう言う。結界装置は貴重なものだが、先ほどなぜそんなものを持っていたのかと加夜が尋ねても、それは言えないんだと銀は堅く口を閉ざした。
「あ、じゃあ、ミシェルさんは銀さんがパラミタに入ってきたことを察知して目が覚めたんじゃないですか?」
「うーん……そうなの、かな?」
ミシェルがはっきりしない返事で銀を見た。
「そんな都合のいいことがあるのか?」
銀がそう言って鼻で笑うと、ミシェルも少し困ったように笑った。
「もしそうだったら素敵じゃないですかー。実際に出会った時はどうだったんですか?」
「はぁっ……はぁっ……」
小型結界装置を利用し、パラミタに足を踏み入れてから数十分。どう考えても銀の体は重くなっていた。
「これ……ちゃんと機能してんのか?」
荒れ果てた忍の里を出る時に持ってきた、里秘伝の宝物。しかしどうにも完璧に作動しているとは思えない。もしかすると、里が襲撃された時に何かの拍子で壊れてしまったのかもしれない。
「くっそ……」
引き返そうにも道のりは長い。仕方がないので、ひとまず休憩するため、銀は道端の古小屋へと入った。どうやらそこは農具小屋らしく、敷かれていた藁の上に銀は倒れこんだ。
どうしたものか。何が原因でこうなるのかはわからないが、銀は確かにこの大陸に拒まれつつあった。結界装置も脆いものである。
しかし原因を究明したって今は意味がない。それよりもなんとかここから出ないと、このままではまずい。
じわじわと襲い来る危機感が銀の足をもう一度立たせようとしたその時だった。
この小屋に一人の少女が飛び込んできたのである。
「助けて!」
少女は銀を見るなりその胸に飛び込む。銀は彼女を受け止めるしかなかった。
「なんなんだ?」
「私はなんにもしてないのに、知らない人たちが追いかけてくるの!」
銀は必死に訴える彼女を見て驚いた。幼馴染と瓜二つなのである。しかし、銀の良きライバルでもあった幼馴染は、里が襲われた時に命を落とした。それを思い出してから銀が彼女は別人なのだと認識すると、また入り口に複数の人影があった。
「ここにいたか! おい少年、その娘をこちらに寄越せ!」
先頭にいる男が怒鳴ると、銀は彼女を後ろに庇い、男の前に立ち塞がる。
「ん……?」
銀が自分の体に違和感を覚えたのはちょうどそのすぐ後だった。銀は男には目もくれず、自分の手足を見る。
「おい、お前! そいつを庇うとはどういうことだ! 彼女はな、剣の花嫁なのに契約もせず――へぶっ!」
瞬間、怒鳴り散らしていた男は後方五メートルを優に超す勢いで吹き飛んだ。後ろに連なっていた男たちもその光景に何が起きたのかわからず、言葉をなくしている。
「なるほど、契約……パートナー契約か。そういうことか」
目を丸くしている少女を振り返り、一人で納得した。道理で突然体が回復したと思った。ということは、先ほど彼女を受け止めた時に、もう契約が交わされたということか。契約の形が千差万別とは聞いていたが、これほど偶発的なこともそうないだろう。
息を吹き返した銀は、男たちに向かって勝ち誇ったようにこう言った。
「この子には既に契約者がいる。さっきの男みたいに蹴られたくなかったら早めに帰れ」
突然の発言と、先ほどのが蹴りだったことに対してどよめきが生まれた。
「でまかせを言うな! どこに契約者が――ばぷぁっ!」
二人目の男が同じ軌道を描いて落ちる。
「うるせぇ。ここにいるだろ、俺だよ」
「え? え?」
男たちと同じように、ミシェルもわけがわからず頭の上に疑問符を並べていた。
「格好いいーっ!」
思わず加夜が声を上げると、銀は照れ隠しなのかそっぽを向いた。
「それに、同じ小屋に飛び込むなんて十分都合いいじゃないですか! 運命的です!」
「確かに、偶然にしてはよく出来てるかなぁ。ねぇ、銀?」
「……知るか」
ミシェルが話しかけても銀は向こうを向いたままである。
「あ、銀さんったら照れちゃって」
「照れてない」
加夜がからかうと、銀はぼそりと呟いた。不意にミシェルが時計を見る。
「もうそろそろ終わりかな」
「あ、本当ですね。どうですかお二人、最後に踊ってきては?」
加夜がにこやかに勧めると、ミシェルは笑顔で頷いた。
「うん、そうだね。銀、どう?」
「ミシェルは踊ったことあるのか?」
「ないけど、でもきっと楽しいよ。ね?」
ミシェルは断っても無駄よという表情で銀を見た。それに押された銀は仕方がないなと呟くと、彼女の手を取りダンスフロアへと向かう。
加夜は、そんな二人の背中にそっと手を振った。
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「どうやら、周りの人たちの思い出話は終わったみたいだね」
「もう終わりも近いようじゃのぅ」
カーズが言うと、舞は答えた。二人は先ほどからダンスフロアに立って踊っている。
「舞、僕たちが初めて出会った時のこと、覚えてる? 僕が何か釣れるかと思っておにぎりを垂らしてたら、舞が釣れたんだよねぇ。あはは、おにぎりだよ?」
「あ、あの時は、本当に腹が空いていたんだ」
舞は尻すぼみ気味に言うと、カーズから視線を離した。
「……き、君は……その、こんな自分と契約して、良かったと思うか?」
「うん」
舞がつっかえつっかえ言うのに対して、カーズは即答だった。それに驚いた舞は思わず彼を見る。
「だから、今更解約だなんてナシだよ?」
「……わかった」
タキシードがビシリと決まったカーズが、舞だけに笑みを向ける。舞は顔に熱がこもってしまって、また彼から視線を外した。すると、ふっと彼の顔が近付く。
「だから舞、僕のこと、もっと好きになってよ」
耳元でそう囁かれて舞は心底驚いた。何かの冗談だと思ってカーズを見ても、彼は至って真面目な顔をしている。それを見ると、舞の心臓は早さを増していった。自分でもわけがわからず、どうしようもなくなった舞は視線を下げた。
「舞、照れてる?」
今度はからかうような声が聞こえたかと思うと、不意に舞の体が宙に浮いた。
「わっ――!」
軽々とお姫様だっこされる舞は、思わずカーズの首に抱きつく。
「カーズ! 自分は、まだっ――!」
全身を真っ赤にさせて目を潤ませる彼女を見て、カーズは慌てて彼女を下ろし、会場の隅へと抜けた。これまでこういった経験のなかった舞はどう応対したらいいのかわからない様子だ。そんな彼女を見て、カーズは少しやり過ぎたことを自覚した。
「ごめん、舞」
「すまない、自分はこういうことには不慣れなもので……」
まだ顔の赤い舞は、胸に手を当て深く息をついていた。彼女の呼吸が和らぐのを待って、カーズは肩膝を絨毯についた。
「いつまででも待つよ。君の、隣で」
「……ありがとう」
カーズは舞の手を取って、そこに唇を落とす。
「約束だよ」
「お二方」
タイミングを見計らっていたかのように、二人の前に刀真が現れた。
「私どもからの、本日最後のサービスになります」
そう言って彼が差し出したのは、一つのグラスに絡み合う二つのストローがハートを描いた、カップル御用達のドリンクだった。
「これ、はっ――!」
それを見た途端頭からぼっと蒸気を出した舞は、顔を真っ赤にして卒倒した。
「おや」
「うわっ、舞ーっ!」
カーズの絶叫と同時に、今日最後の曲目は終止符を打った。
会場から幾許かの拍手が聞こえると、『追憶のダンスパーティー』は幕を閉じた。