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らばーず・いん・きゃんぱす

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●序〜ある研究室にて

 正確な時刻はわからない。限りなく明け方に近い深更、とだけ記しておこう。
 空京大学、研究棟。昼なお暗いこの棟の、入り組んだ通路を辿った奥の奥。
 明かりの消えた床をひたひたと、夜の化身のようなものが歩んでいた。黒い猫だ。ただ一匹、好奇心に駆られてここを探検していたのだ。つややかな体毛は闇と同化しており、エメラルド色の眼だけが、ちらちらと蛍火のように明滅していた。
 時間も時間だけに死のような沈黙が支配していた。しかし、完全な無音ではなかった。
 猫は耳を澄ませ、ある一室より、うっすらと声が漏れてくるのを聞いた。そっと近づき、ドアの隙間より内側を覗いてみた。
 室内も闇の中だ。ただ、ぼんやりと青白く、水槽のようなものが浮かび上がっていた。
「……これと……これだな……」
 ブラックライトに照らされた水槽の前で、身を屈めて作業している男の姿があった。何日も洗濯していないと思われる白衣を着ていた。他に人の姿はなかった。つまり声は『彼』の独言なのだ。ぶつぶつと呟きながら己の作業を確認していた。
「……よし」
 様々な材料や酵素、薬品を混ぜ合わせては、手元の資料をチェックしている。資料には記号のような組成式がびっしりと書かれているのだが、彼はこれをスラスラと読み解いていた。
 以下、猫が知らない(知るはずもない)事実を書こう。彼が開発しているのは危険な兵器ではない。宇宙服に用いる新素材だった。ただしその研究は科学の潮流からはずれた異端であった。協力者はまるでなく、開発費も大きくカットされていた。ゆえにほとんどの作業を時間をかけて自分で行わなければならなかった。孤独な作業になるのは必至といえよう。無論、組成式も彼が編み上げたものであり、これは絶対的に正しいという自信が彼にはあった。あとは、この理論を実現する素材の『組み合わせ』を見つけるだけだった。
「誰かいるのか……?」
 背後に気配を感じ、研究者は振り返った。猫は身をすくめて闇に紛れた。
 このところちゃんと寝ていないので、研究者の顔色は良くない。精神状態に至っては顔色を遙かに上回る悪化具合で、さっきからブツブツと独り言が止まらない状態である。
 彼は、怒りを感じていた。研究がままならない怒り、私生活の様々トラブル、そして――現在の孤独に対して。
「リア充め……」
 なぜかそうした怒りは、現実(リアル)生活が充実している者、それも、主として恋愛方面で幸せな状態にある者……通称、『リア充』へ向けられていた。
 水槽に向き直ったとき彼の手は揺れ、手にした試験管を滑り落としそうになった。
「おっと」
 ところが急に体勢を直したのが逆効果、左の肘で、無関係の薬瓶を叩いてしまったのだ。
「あ……これは」
 ぼちゃん、と音を上げて薬瓶はゴム材のプールに沈んでいった。手を伸ばしたが間に合わなかった。みるみる瓶は溶けて、中身がゴム材と混じり合ってしまう。彼は後じさった。
「や・ば・い・み・ょ・う・な・え・き・た・い・お・と・し・た!!」
 次の瞬間、プールが爆発した。四方の棚がガラガラと崩れ、あっというまに彼はその下敷きになってしまった。
 恐るべき怪ゴムは、このとき生まれた。白色、褐色、桃色、串団子みたいな組み合わせのアメーバ状の存在が這い出し、見る間にどこかへ姿を消してしまったのだった。
 ややあって、さきの黒猫が、様子を見に戻ってきた。猫は棚の下を覗きこみ、前脚でつんつんとその下を触った。
 猫は、白衣の男が寝息を立てているのを聞いた。