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【特別シナリオ】あの人と過ごす日

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【特別シナリオ】あの人と過ごす日
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リアクション


Celebration

 演奏が、ヒラニプラの小さな教会に流れはじめる。
 弦楽器の調べは研ぎ澄まされたものながら、そこに鋭角の光沢はない。あるのは、もっと穏やかな光の粒子だ。春の朝、つまり、ちょうど今の時間帯の陽光のように、丸みがあり肌に染み込むような清らかさをもつものだった。
 曲はワーグナーの『婚礼の合唱』、誰であれ一度は耳にしたであろうあのメロディだ。
 軍正式の礼装に身を包み、クローラ・テレスコピウム(くろーら・てれすこぴうむ)が立っている。
 いささか緊張気味の面持ちで、されどもしっかりと、二度とはないこの瞬間を迎える明確な意志とともに立っている。
 クローラは花嫁を待っているのだ。
 目が覚めるような白いウェディングドレス姿で、ユマ・ユウヅキ(ゆま・ゆうづき)がバージンロードを歩いてくる。
 その顔は、薄いヴェールに隠れて見えない。
 彼女は左手に鮮やかなブーケを持ち、右手をリード役の男性の腕にかけている。
 ユマを連れてきた初老の男性は、目の片方に眼帯、もう片方には冬の視線を宿す。階級章は彼が、少佐だということを物語っていた。といっても彼は、その階級ではありえないほどの戦歴と伝説を持つ歴戦の勇士である。名はユージン・リュシュトマという。
 リュシュトマも軍の礼服だ。彼とクローラにとどまらない。参列者の大半は国軍礼装に袖を通していた。四人の楽団すら同様なのだから徹底している。
 国軍の結婚式なのだ。金 鋭峰(じん・るいふぉん)団長も、主賓の一人としてこの場にあった。
 やがて、ユマとリシュトマはクローラのもとに到達した。
「少佐……ありがとうございました。私……」
 声をつまらせるユマに対し、平時と変わらず峻厳に、されどいささかの柔らかさを持たせながらリュシュトマは答えた。
「式はこれからだ。せっかくの化粧を落とさんようにな」
 敬礼の代わりにうなずいて、ユマは静かに壇上にあがった。
 並んで立つ。
 新郎と新婦、ふたりはよどみなく、誓いの言葉を述べる。
 ――晴れの日、かぁ。
 新郎の介添人として屹立するセリオス・ヒューレー(せりおす・ひゅーれー)の胸には、決して大袈裟ではなく万感の思いが去来していた。
 振り返ればあっという間、それでも、ここに至るには長い長い日々があった。
 もちろんその当事者はクローラとユマだが、彼らのすぐそばで見守っていたセリオスとしても、これまでの場面ひとつひとつを思い返さずにはいられない。クローラの想いと煩悶を、もっとも知っているのはセリオスなのだ。気恥ずかしい話だが、セリオスは涙腺に迫る熱いものを懸命にこらえていた。
 今日、花嫁を飾るブーケも、このあと降らす予定の花吹雪も、もとはいずれもセリオスが庭で育てた花だ。ささやかながら、真心を込めた花々である。
 まだ秘密だがセリオスは、結婚祝いとして揃いの時計を用意している。
 同じ時間を歩いていけますように――との意を含めたもので、アンティーク調の手巻き式を選んでいた。喜んでもらえればいいのだが。
 ――それにしても……。
 指輪を交換するふたりを、まるで映画の一場面のように見つめながらセリオスは思った。
 ――いい顔をしてるよ。クローラも、ユマも。
 迷いのない表情だった。これから待ち受けるであろう人生の苦難にも、ふたりなら立ち向かえるというかのような。
 このときついに、こらえにこらえていたものが、ひとしずくだけこぼれ落ちたことは書かずにはおれない。
 だがやはり、この会場でもっとも感慨押し迫るものがあるのはクローラとユマだろう。
 クローラはユマとの日々を回想していた。それこそ、彼女が虜囚として教導団に来たその日から順番に。
 彼女への気持ちが、恋情であると自覚したのはいつだろう。
 寝ても覚めてもユマのことを考えるようになったのは、いつ頃からだったろう。
 もちろん軍人として、ユマのために任務を忘れるようなことはなかった。引け目があったからだろうか、ユマを知ってからはかつて以上に任務に励んできたつもりだ。しかし意識していようがしていまいが常に、胸には彼女への想いがあった。
 告白したあの日のことは忘れない。ユマが彼の気持ちを受け入れてくれた瞬間は、なおさら。
 そしてプロポーズ。これも生涯残るであろう記憶だ。
 それらすべてを経て……ここにあるのは、
 ――ユマと名前を呼んだら君がそばにいる幸せ。
 これからはずっと一緒だ。死がふたりを別つまで。
 ユマの着るドレスには、クローラのセンスが反映されていた。
 上品で可憐、しかし派手すぎないサテン地、長いスカートには繊細なレースがあしらわれ、足元まですっきりとした立ち姿である。色はもちろん純白、全体としてはホフホワイトに抑えてあって、ユマの落ち着いたイメージにはぴったりだ。
 同じことは結婚指輪にもあてはまる。
 定番のダイヤであり、以前クローラがユマに贈った四葉と鳥のネックレスと揃いのデザインにしてあった。
 ユマは美しい。本当に、世界の誰よりも美しい――目だけではなく魂で、彼女に見とれている己が身をクローラは自覚している。
 誓いの口づけを交わす段となった。
 ――ユマ、俺たちは。
 言葉に出さなくとも相通じるものがあった。見つめ合い、クローラが眼で呼びかけると、
 ――私たちは……。
 ユマも眼で応じた。
 ――家族になる。
 
 教会の鐘が鳴る。
 協会の外に場を移し、緑あふれるガーデンにて披露宴が開催された。
 といっても派手なものではない。夫婦は身の丈にあったものを選んだつもりである。華美ではなく瀟洒といおうか、無駄はなくかといって乏しくもなく、まるでクローラという人間と、その妻であるユマを象徴するような宴席であった。
 乾杯が済むとユマの手を取り、クローラは上司たる鋭鋒に挨拶に向かおうとしたのが、もったいなくも彼自身が夫妻の席を訪れていた。
「招待状にしたためられた個別の言葉、大儀であった」
 鷹のように相手を貫く鋭鋒の視線も今日は優しい。
 腰を浮かせかけるクローラとユマに、「そのままで」と告げて彼は続ける。
「これまでの謝辞については書きすぎなくらいだ。少々、面映ゆい」
「恐縮です」
 言葉だけではなく本当に恐縮しきったクローラの表情である。鋭鋒は苦笑気味に、
「いや、それが貴官らしくていい。今後の抱負についても読ませてもらった。良い内容であったよ。幸せにな」
「ありがとうございます」
 また感極まったのか、ユマは瞳を潤ませていた。今日、彼女はずっとこの調子だ。
「ともあれ……結婚というものに関しては、貴官らが先輩になったわけだ。見ての通り私は独り身、先達に教えを請うことがあるかもしれん。そのときは頼むぞ」
 と言う鋭鋒の口ぶりには、この軽口を楽しんでいる風があった。彼にしては珍しいことだ。これを耳にしてか女性の将校のなかに、満潮のごときさざめきが広がったが、それはまた別の話である。
 鋭鋒が去ると、リュシュトマ少佐が姿を見せた。団長同様にふたりの起立を制すると、
「いい式だった」
「団長にも申し上げましたが、多忙な中参加してくださったこと、本当に感謝しています」
 そうか、とすらリシュトマは言わないが小さく頷いた。
「これは団長に申し上げそびれましたが……俺たちを育ててくださったのはお二人だと思っています」
 クローラはクローラらしい、あの真摯な眼で少佐を見上げていた。
「俺がユマと深く知り合えたのも団長と少佐のお心があったればこそ。お二人ででなければユマは殺されていたかもしれないし、俺たちが出会うこともなかった……いわば、俺たちの恩人です」
「私への言葉に関しては、買いかぶりすぎだと言っておく。団長への謝辞は、私から伝えておこう」
 リュシュトマもリュシュトマらしく、素っ気なくそう言ったきりであった。
 しかしクローラは見逃さなかった。
「他にも諸君を言祝ぎたい者が列をなしているのでな、これで失礼する」
 そう言って踵を返したリュシュトマの口元に、わずかだが笑みがあったことを。

 静かに始まった披露宴は、静かに幕を下ろした。
「じゃあ、気をつけて」
 クローラとユマに最後に声をかけたのはセリオスだった。
 晴れて夫婦となったふたりは会場を出てこのまま、白いリムジンに乗り港に向かう。
 そこから新婚旅行に出かけるのだ。
 目指す地は、ロシア。
 クローラの故郷だ。
「一日目は地球に降下して、日本から空路をたどってモスクワかあ。そのまま二日目は首都観光だね」
「ああ」
 白ワインが回ってきたのか幸せに酔ったのか……あるいはその両方か、わずかにクローラの顔色は上気している。
「ユマにモスクワを見せたい。赤の広場にクレムリン、宮殿の武器庫、ダイヤモンド基金……定番かもしれないが、そういったものをね。夜はボリショイでバレエを鑑賞したいな」
「私が一番楽しみなのは、その翌日です。モスクワに連泊して……クローラの生まれた家を訪ねるんです」
 ユマは薔薇色の頬をしていた。クローラもうなずく、彼にとってもそれは、新婚旅行のクライマックスになるだろう。
「プーシキン州立博物館を見てから、父母に結婚の報告をするんだ」
「それから……」
 と言いかけたクローラをセリオスは止めた。
「そろそろ車の時間だよ。詳しいことは戻ってから聞こう」
「そうか……そうだな」
 ふとクローラは戸惑ったような色を目に浮かべた。
 パートナー関係を結んでから、彼とセリオスはまるで一心同体だった。もちろん離れて行動したこともあるが、一週間近く顔を合わせなくなるのはこれが初めてになる。
 わかってる――というようにセリオスは微笑した。
「行きなよ。よい旅を」
「……行ってくる」
 クローラも笑みを返した。それは、『ここで笑む』と書かれた台本に従った役者のような笑みだった。けれどそれは役者としてはオスカーウィナー級のものであった。
 そもそも、半ば以上本心でなければ、こんな笑みはできない。
「行ってくる」
 もう一度、クローラは繰り返した。
 ユマは数歩離れて、そんな夫とセリオスを見ていた。

 深々と礼をしてクローラとユマは去った。温かい拍手が彼らを見送った。
 まだ残る来賓にセリオスは頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「大役だったな」
 と言ったのは鋭鋒だ。
「もったいないお言葉です」
「私はただの客だ。そう気を遣うな。それにしても――」
 次につなぐ言葉を見失ったのだろうか。鋭鋒は口を閉じてクローラたちの行ってしまった方角を見つめた。
 そんな彼の意を汲んだように、
「そうですね。ちょっと寂しい気持ちもあります」
 セリオスは笑みを湛えたまま言ったのだった。
 鋭鋒は否とも応とも言わない。しかしセリオスの言葉を聞いているのはわかった。それに、言葉を使わずして問いを発しているのも。
 だからセリオスは先回りして答えた。
「僕ですか? 好きな女性ができないんですよ、いやあ困ったなあ。友人はいるんですけどね」
 鋭鋒としては珍しいことだが、彼はセリオスの言葉を聞くと片腕を伸ばし、その背をポンと叩いたのである。
「さて、後宴と行くか。こういうのを通常ではなんと言うのであったかな」
 いつの間にか、そんな鋭鋒のすぐ後方にリュシュトマがつけていた。
 彼は言った。
「打ち上げ、かと」

 そこから数日、クローラとユマはロシアの旅を楽しんだ。
 そして三日目の昼過ぎ。
 ユマはクローラの父母との対面を果たした。
「やっとお目にかかることができましたね」
 ユマは冷たい石の前に膝を折る。
「お父様、お母様、と呼ばせてください。ユマ・ユウヅキと申します。正しくは『ユマ・テレスコピウム・ユウヅキ』です。ふつつか者ですが、どうぞお見守り下さい」
「……ユマ、両親もきっと喜んでくれている。娘ができたことを」
 クローラも墓石の前に膝を付いた。
 両親と向き合うために。そして、ユマの涙を拭うために。

 ロシアの短い夏の予感、花々が咲く五月。
 墓地近くの丘は一面の花景色だ。
 水色の粒子を刷毛で薄くのばしたような空。
 いつしかそこでふたりは手を取り合い、見つめ合った。
 甘くて長いキスを交わした。
 そのとき一迅の風が吹いて、桃色緋色黄色白、無数の花弁を空に巻き上げた。
 驚いたようにふたりの唇ははなれたが、手はつながれたままだ。
「花々の祝福……だろうか」
「ええ。きっと」
 彼は片手を彼女の腰に回した。
「踊らないか?」
「ここで?」
「変かな」
「いいえ」
 彼女は照れたように笑った。
「私も、そう提案するつもりだったんです」