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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

リアクション

 夕方になってまた、降り始めた。
 トタン屋根を雨が打つ音が独特のリズムを刻む中、渋谷を抜け近い中目黒を散策するとやがて、雑居ビル群までたどり着く。
 空襲による延焼を運良くまぬがれた区域だ。ここにはまだ戦前が残っていた。といっても輝かしいものはなく、灰色にくたびれた過去が身を寄せ合って生き残っているような場所だった。
 その一つ、中でも突出して老朽化の進んだ建物に『石原拳闘倶楽部』がある。
 筆書きの看板だけ妙に真新しい。
 ところがその看板の下から、ミットを打つ音、サンドバッグを叩く音、そういったものはあまり聞こえてこない。ボクシングクラブといったところで、公式の試合に出るボクサーを養成しているようなところではないのだ。実際は、石原肥満を慕う街の不良たちが自然に集まってできた愚連隊の溜まり場のようなものであった。
 今、一人の緋の着物姿の女がジム内リング脇にいた。周囲は十数人の男、それも、明らかに強面の者どもである。眉間に傷を持つ顔、兵隊あがりらしい青白い顔、ブルドッグじみた顔もあった。
 だがその中にあっても、彼女の声には震え一つなかった。かく口上したのである。
「手前生まれは野州は佐野。
 秀郷公の膝下で、女だてらに愚連隊相手に喧嘩三昧。
 出る杭は打たれるもので、家を焼かれ故郷を離れ、坂東太郎の流れのままに流れ着きました帝都東京。
 相棒片手に切った張ったの喧嘩の中で、石原さんの噂を耳にし、渋谷へとやって参りました」
 流れるような口調であり、威勢の良さを感じさせる言葉であった。古風に仁義を切る姿勢も、寸分の隙なく美しい。驚くほどの美女だが、声には凄味があり、男たちは誰一人囃したり嗤ったりしなかった。
「姓は宇都宮、名は祥子。子供らのためにと奔走する石原さんに、僅かながら力添えをさせて頂きます」
 言い括って宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)は、取り囲むようにして聞いていた男の一人の前で目を止めるや、再度仁義を切る姿勢を取ったのである。
 恐らくリーダーと思われる男は他にいた。長身で肩幅が広く、このなかでは唯一和服を着ている。わずかに他の顔ぶれより前に出ていた。
 ところが祥子は和服の男ではなく、その隣にいたもう少し小柄で、もっとずっと痩せた男の前に膝を屈したのだった。
「よせやい、俺たちは筋者(ヤクザ)じゃねぇんだ」
 精悍の面構えの男だが、意外にも破顔一笑して伝法な口をきいた。
「楽にしてくれ、楽に。俺が石原肥満だ」
 こざっぱりした印象の男である。年は若い。まだ二十歳になるかならないかくらいではないだろうか。短く刈り込んだ短髪で、もう少し後の時代に『香港シャツ』と呼ばれ大流行することになる半袖の黒シャツを着、この時代の日本人の例に漏れず痩せていた。どことなく愛嬌のある顔立ちだ。いかにも裏世界の住人のような和服の男――後で判ったがこの男が鷹山であった――に比べると、まるで一般人の風貌ではないか。
 ただ、その肉体は鋼のようである。格闘技の心得がある者であれば、この男が肩と腕、脚に理想的な筋肉の付け方をしているのが判るであろうし、特に首を徹底的に鍛えていることにも気づくはずだ。同じ痩せ型でも、どことなく腺病質な印象のある鷹山とはそこが違っている。
「威勢の良い姉さんだな、なのに言葉は青空みてぇに澄みきっててそこも気に入った」
 石原が相好を崩すと、ほっとしたような空気が広がった。周囲と取り囲む強面、といったところでいずれも若い。少年も珍しくなく、一番年かさでも三十には達しておるまい。そして彼らは、ある者はサンドバッグを叩き、ある者は仲間と談笑し、またある者は連れだって出かけるなど思い思いの行動に移った。いちいち石原や鷹山に伺いを立てたりしない。そうした自由さも、若者の集団らしかった。
 ゆえに緊張が解けると、急に明るくなったように祥子は感じる。
「そこら辺に座ってくれよ。少し話そう」
 石原は祥子に椅子を勧め、その一方で自分も腰掛けた。
「試そうとしたように思えたのなら謝る。けど、どうして俺が石原だと判ったんだい?」
 すると祥子は苦もなく返答した。
「一目見て判りました。皆さん、落ち着いてはいましたが、もしここで私が」
 と、ぞくぞくするような白鞘を片手で持ちあげて、
「これを抜いて暴れようものなら、という覚悟を皆様されていたようですが、誰もが石原さん、あなたを守るべくちらちらと目配せしあっていました。万が一のときには飛び出してかばうおつもりだったのでしょう」
「ちぇ、肝心の俺がそれに気づかなかったか……そんな高級な人間じゃねぇんだがなぁ」
 ぽりぽりと頭をかく様子がいかにも年相応に青臭い様子で、これには祥子も頬を緩めたのである。
 それにしても、この痩せた青年が本当にあの石原肥満だろうか。
 2022年の石原は老獪な男である。表向きの活動はもちろん、裏も随分ありそうな人間で、一筋縄でいかないことおびただしい。しかしその一方で笑顔になると、つい許したくなるような茶目っ気も見せた。そのあたりはやはり、2022年の彼の中にまだ、1946年の彼が生きているということだろう。
「戦災孤児を世話してるって言ったって、大したことはしてねえさ。ただ寝床と多少の食い物を世話して……悪党どもの餌食にならねぇよう目を光らせてるだけだ」
 という石原の表情にはどこか陰があった。
「いや、俺たちも愚連隊……いわば不逞の輩(やから)さ。軍放出品の横流しや闇市商品の斡旋みたいな御法度もするさ。避けられない戦いなら真正面から受けてもきた。けどな、ガキを売買したりヤクを扱うようなド悪党とは絶対に違う。それに、弱い者いじめをするような連中は俺たちの仲間じゃねえ、それだけは覚えておいてくれ」
 自分の信念を語っていることに気づいたか、ここで、いくらか照れくさそうに石原は言うのである。
「ところで、いい刀だな。いや、抜かなくていい。その白鞘だけでわからあ」
 すると今度は、祥子が照れくさげに語る番となった。
「なんでもあちらの刀工が日本刀に模して作ったものだとか、素材に竜の爪を使った物だと祖父が言っていました。刀の素性はどうあれ記念の品として購入したのでしょうね」
 実はこれ、彼女がその得物である双龍刀を、この時代にも合うよう仕立て直したものである。もちろん現在の石原にそれが理解できるはずはないのだが、業物であることだけは伝わったようだ。素性は隠せないということか。
 よろしく頼むぜ、と祥子に言うと石原肥満は立ち上がった。
「このところ人を集めているところなんだが、今日は随分と新参者が多い」