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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

リアクション

 空気中に混じる雨の匂いを、八神誠一の鼻は捉えていた。
 降りそうだ。だが、今すぐというわけじゃない。とっぷりと暮れてからか。それとも明け方か。
 いずれによせ、雨が進入を助けてくれそうもないことだけは、わかる。
「ま、天候が味方してくれることばかり期待するわけにはいかないしね」
 誠一は呟くと、守宮(やもり)さながらに壁に取り付き、するすると塀を登攀した。
 クナイのような道具を使ったのではない。それでは、痕跡が残る。彼は掌で壁の凹凸を読み、わずかな窪みに足をかけ、通常見えないような隆起を見つけて手でつかむというように、フリークライミングの要領で壁をよじ登ったのである。
 塀を昇るまで、誠一は普段の、どこか余裕を残したような口調であり顔つきであった。
 だが今、塀の上に立ち、巻かれた有刺鉄線を調べている誠一は、切れ長の瞳に油断ならぬ光を湛えた、暗殺者の顔つきになっていた。変身したのではない。むしろ、本来の姿に戻っただけと思ってほしい。
 目を凝らすと邸宅が見える。普段は新竜組が、賭博接待に使っている場所だという。
 溜まり場として使っているところで、最近人の出入りが増えた場所、子供を監禁するのに適している場所、さらに、夜でも誰かが起きている気配のする場所――この情報を総合して、誠一はここを突き止めていた。
 時間はかかったがようやく、この場所までたどり着いたのである。
 といっても性急に行動する愚は犯さない。陽が落ちるまで待った。
 そして宵闇の頃、おもむろに彼は行動を開始したのだ。
「あら、お散歩? 塀の上を歩くなんて、変わった趣味だこと」
 誠一の背中に緊張が走った。だが敵とは思わない。声は邸内ではなく塀の外からだ。新竜組といっても一般人、自分の偽装を見抜けるはずはない。そもそも、自分にだけしか聞こえない声量で話しかけきたところからして、目的は同じという可能性が高い。
「俺と同じ契約者か」
「そうよ、お仲間。引っ張り上げてもらえる?」
 上がってきたのは、黒い髪をした令嬢、崩城亜璃珠だった。知らない間柄ではない。
「エリザベート校長とチヨちゃん、どっちを救うか迷ったけどね、校長のほうは無事保護されたみたいなんで、こっちに来たわ」
 暗殺者に復した誠一は愛想のいいほうではない。何も答えずに行く手を示した。
「あの邸宅が怪しいですわよねえ。あなた、潜入は得意? なんなら応援を呼んだって……」
 だがもうこのときには、誠一は有刺鉄線を乗り越えて敷地内に着地していた。
「あらあなた随分素っ気ないのね……そんな性格だったかしら? まあ、そういうのもストイックな感じがして嫌いではありませんけれど」
 亜璃珠もここからは無言で続いた。来るなと言わないのは、ついて来いという意味だろう。
 茂みに入って進む。亜璃珠は舌を巻いた。誠一は、茂みをかきわけながらも一切音を立てないのだ。彼の回りだけ真空になったかのようだ。亜璃珠も細心の注意をはらって続き、二人は邸宅の裏口までたどり着いた。
「随分用心深いのですわね」という亜璃珠は、今度も誠一の返答は期待していなかった。
 ところが、
「……今までの力押しとはうって変わって、連中はそこそこ頭の回るやり口をしている」
 誠一が、呟くように言ったのだった。
「だから俺たちも、用心深くなければならない」
「ですわね」亜璃珠もその意見には賛成のようだ。
 邸宅の裏に回った。
 誠一は滑るように扉に近づくと、ぴたりと扉に頭を当てた。
「これ、でしょう?」
 亜璃珠がヘアピンを取り出すと。
「感謝する」
 一言告げて受け取り、誠一はその先端を鍵穴に差し込んだ。

 二人は邸内に侵入した。
 途上で暴力団員の姿を何度も見た。そのたび隠れてやりすごしたが、決して少なくない数だ。
「どうやらここは、新竜会の詰め所の一つのようですわね」
 一通り巡ったが、子どもの声ひとつしない。誘拐された子らが捕らわれている場所ではないのか。厳重に警戒されている箇所もあり、すべてを把握したわけでもないが。
 人の気配のない空き部屋で、亜璃珠と誠一は顔をつきあわせた。
「手段は二つ、姿をあらわして暴力団員すべてを相手に戦う……楽ではありませんが、正攻法ですわね」
「もう一つは?」
「発想を変えてみます。これまでは、暴力団員が多い場所こそ重要と考えてきました」
「……だが、捕らえている子どもにそれほどの見張りは必要ない。むしろ、子どもが騒ぐとうるさいからな」
 結論が出たようだ。人が少なく、それでいて、隠しやすい場所だ。
「地下か」
「ありえますわね」
 やがて二人は、入ってきた裏口の付近に、地下へ降りる落とし戸を発見した。
「さて……それでも見張りの組員がいるかもしれませんから」
 先行を買って出た亜璃珠は、暗闇で目をオレンジ色に輝かせた。見ているだけで足が竦みそうな凶暴な視線になる。
「鬼眼です。見張りがいたら、これを見て大いに怖がらせてあげましょう」
 ところが数分と立たぬうちに、亜璃珠はやや後悔することになった。
 見張りの組員は、確かにいた。一人だけ。
 だが、その組員が張っている檻に閉じ込められていた数人の子どもたちにも、この『鬼眼』が届いてしまったのである。いわゆる全体攻撃というやつだ。
 これぞ阿鼻叫喚、子どもたちはわあわあと大泣きした。組員も小心だったらしく、一緒になってヒイヒイ泣いているではないか。
「やれやれ」
 誠一は溜息をついた。
「……怖いものを見せてしまいましたわね……なんだか、都市伝説になりそうな予感がしますわ……」
 亜璃珠は苦笑いするしかなかった。救出に来たはずなのに、すっかり怯えられてしまった。
 だがいずれにせよ、子どもたちの救出には成功したわけだ。彼らは残らず孤児で、新宿界隈で今日のうちに連れてこられた者ばかりだという。
 問題は、この中には桜井チヨがいなかったということだ。