|
|
リアクション
ニルヴァーナの街はお昼時を迎えていた。それ故、飲食店からの良い匂いに誘われ、吸い寄せられるようにお客が店に入っていく。
茶房朔月(さぼう さくつき)との看板をかけた、甘味と軽食を提供する和食店も昼のかき入れ時を迎えて、店員は大忙しの模様である。小さな店ながらも既に全ての座席は埋まり、外には数名のお客が並んでいる。
そして、茶色系を基調とした落ち着いた雰囲気の店内では、たすき掛けの着物姿で接客する柊 美鈴(ひいらぎ・みすず)の姿があった。
「かしこまりました、白玉と栗のぜんざいとお茶ですね? 少々お待ち下さい」
テーブルでオーダーを取った美鈴は、お客に微笑みながら丁寧に頭を下げると、黒のロングウェーブの髪を揺らし、厨房へと向かう。と、帰った客のテーブルに空の食器を発見し、これを回収する。
「(やはり私だけじゃ、手が足りなくなりましたわね……)」
食器を片づけた美鈴は溜息をつきながら厨房へ向かう。
「マスター? 白玉と栗のぜんざいとお茶をお願いします」
美鈴が呼びかけた先には、厨房でひたすら料理に没頭する神楽坂 翡翠(かぐらざか・ひすい)の姿があった。
「……」
「あの、マスター? 注文聞こえましたか?」
「え? ……はい! 勿論ですよ、美鈴。クリーム羊羹雑炊とお茶ですよね?」
翡翠が美鈴を見て、ニッコリと微笑む。
「いえ、お茶は合ってますけれど、白玉と栗のぜんざい……ですわ」
「あぁ! すいません。クリームあんみつは今作ったモノでしたね。ちょっと間違えてしまいましたよ」
「え、えぇ……」
翡翠は今作ったクリームあんみつを美鈴へ渡し、直ぐ様白玉と栗のぜんざいの調理に取り掛かる。
オープンしてから一切の休み無しで厨房で孤軍奮闘していた翡翠。悪いことに、本人は疲れをあまり自覚出来ておらず、今のように、いつもの彼なら間違えるハズのない些細な事でもミスをするようになってきていた。
「(本当なら、私も厨房でマスターのお手伝いをするハズですのに……)」
後ろ髪を引かれる想いで料理を運ぶ美鈴は、こんな状況にならないように釘を刺しておいた男の事を思い出す。
× × ×
開店前の店では、翡翠が持ち込んだ食材の下ごしらえを行ない、美鈴もそれを手伝っていた。
そんな中、翡翠から頼まれていた店の内装の手直し作業を終えたレイス・アデレイド(れいす・あでれいど)が、何処かソワソワとした素振りで、翡翠達の前を右に左に忙しなく歩き回っている。
「レイス。そんなに動いては、折角掃除したのに、またホコリが舞いますわ?」
美鈴が言うと、レイスは足を止め、
「じゃ、俺も調理を手伝おうか?」
レイスの発言に、翡翠と美鈴がピクリと身体を震わし、
「……それは……」
「遠慮します……」
「だろ?」
レイスと料理の相性が最悪であることは、翡翠も美鈴も長い付き合いの中で嫌というほど知っていたのである。
「レイスは接客の方をお願いしますね?」
翡翠がニッコリと笑う。
「ウェイターか? でも、まだ開店前だから……いや、今日どっさりとお客が来る保証なんてないよなー。翡翠の料理が美味いことをみんなまだ知らないわけだし……あ〜、まだ、店暇だよな?」
「う〜ん、確かに。この店もできたばかりですし、ニルヴァーナには他にも色々なお店が有るので、暇だと思うのですが……初日は」
微笑む翡翠を美鈴がチラリと横目で見る。
レイスは、店内の壁掛け時計をチラリと見て、入り口の方へ向かう。
「あ〜、ちと街中見てくる……」
「レイス?」
訝しげな視線をレイスに送る美鈴。
「すぐ戻る。今の状態じゃこの街の何処に何が有るかが不明で、混乱し易いからな」
「マスター? よろしいんですか?」
小豆を煮ていた鍋を確認する翡翠が、顔をあげる。
「大丈夫でしょう。確かにレイスの言う通り、まだ店は暇なんです。それに、レイスに一度街を見て回って来て貰えれば、私や美鈴が街の観光に出かける時、その案内が役に立つかもしれませんよ?」
「話が早いな、翡翠……じゃ、そういう事で……」
扉を開くレイスに、美鈴が念押しする。
「レイス……遅くとも昼時には戻って来て下さいね? もし、繁盛した場合、マスターと私だけじゃ手が回らりませんから」
「わかってる。昼時までには戻るよ」
レイスはそう言うと、扉を閉めてしまう。
× × ×
「(やはりあの時、引き止めるべきでしたわ……)」
店内の壁掛け時計が指す時刻は、既に昼時を十分に過ぎている。
「(このままでは、マスターが倒れるかお客様が倒れるか……)」
厨房では、料理の最中、食器を洗う翡翠の姿があった。
疲労のためか、あんみつの前で手に持った洗剤を見て「おや? クリームかと思ったのですが、これは洗剤でしたか! 白いところが似てますよね?」と一人でノリツッコミをする翡翠の姿に、美鈴は抱えた不安を大きくする。翡翠は料理する手が早い。早い分、ミスを止める方法が難しい。
テーブルまで料理を運んだ後、翡翠を手伝いに行こうとも思うのだが、そんな時に限って……、
「すいませーん。お会計お願いしまーす」
「あ……すぐ伺います!」
美鈴はオープン初日の大変さを身をもって実感していた。
「随分色んなモノがあるよなぁ……それに結構広いし」
レイスはアディティラーヤ宮殿から伸びる繁華街を見学中であった。
「お? 神社……か?」
歩くレイスが目を留めた繁華街の片隅には、社殿と社務所付きの神社があった。境内には羅刹女が来客の応対をしている。但し、角の生えた女性の外観を持つ羅刹女の態度は、なかなか威圧的でもあった。にっこりと笑うが、一見怖い笑顔にしか見えない。
「社名は……阿羅耶(アラヤ)神社か。ふぅん、コレも描いておくか」
尚、この神社は、とある人物がセルシウスに「涅槃の間の研究の一環」とか適当な事を言って作って貰ったものである。そして、今現在その人物は不在であった。
レイスは、通りで人々の通行の邪魔にならぬところに立ち、手に持ったスケッチブック大の大きさの紙にペンで建物の絵と、簡単な説明書きを描き始める。その文字や絵はとても繊細であり、且つ読みやすい文字で描かれていく。
「えーと……神社。羅刹女の巫女さんが居る。誰が建立したのかは不明……と」
描き終えると、レイスはペンを仕舞い、次の場所へ行こうとして……足を止める。
「何の神社か知らないが、祈っておいてバチは当たらねえか……」
お賽銭用に1Gを財布から取り出す。
「(そういや……この1Gは道で拾ったもんだったな)……ま、いっか!」
レイスが神社の賽銭箱の前へ行こうとすると、ふと、神社の傍にいた人影から声がかかる。
「ちょっと、そこのおまえさん……?」
レイスが振り向くと、そこには菊がいた。
「菊? 何してんだ?」
「フフフ……あたしも祈ってたのさ、誰かあたしに1G貸してくれますようにって……」
「ふぅん。願いが叶うといいな」
お賽銭を投げ入れようとしたレイスの腕が菊にガッチリト掴まれる。
「お願いだよ。あたしに1G貸してくれ〜!」
「……どういう事だよ?」
菊はレイスに、セルシウスに今日中に10万G払わなればならない理由を語る。
「今もお昼時の仮設店舗で、卑弥呼があたしの居ない間も調理を頑張ってくれてるんだ」
「……そっか、店か……あッ!!!!!」
羅刹女も驚く大声を出すレイス。顔が徐々に青ざめていく。
「ヤバイ……今、昼時だよな?」
「そうだけど?」
即座に踵を返したレイスは神社から走り去る。
「あ、オイッ!? あたしに1G貸すって話は?」
「もうとっくに投げたぜ! 俺は店に戻るッ!!」
脱兎の如く、駆け出すレイス。
残された菊は、やるせない顔をする。
「チィ……神様のとこにいりゃ、誰か心の清らかな人がきっと1Gくらい恵んでくれると思って……イタッ!?」
菊のおでこにカツンと何かがぶつかった後、菊がソレを手でキャッチする。
「ん? ……これは、1G!! でも、一体誰が?」
周囲を見回すが、特に人影はない。掃除をする羅刹女くらいだ。
「……ハッ!!」
レイスが去り際に、「もうとっくに投げたぜ!」と言っていた事を思い出す菊。
「あいつ……1Gを投げたのは賽銭箱ではなく天に向かって……だったのか」
菊は通りを走り去るレイスの後ろ姿に向かって呼びかける。
「ありがとう!! 恩に着るよ!!」
菊の声に、レイスは軽く手を挙げて応えるのであった。
「マスター!! 無理をしてはいけませんッ!!」
「何を言うのです、美鈴。あなただけに接客をさせては苦です。だから自分も調理の合間をぬって、少しだけだけどお手伝いしますよ?」
制止する美鈴に微笑む翡翠。
「駄目です。マスター。マスターは厨房だけで手一杯なんですから」
「どうしてです? 自分は大丈夫ですよ?」
「だって、……お盆に包丁を載せたままですわ」
料理は兎も角、ウェイターとしては優秀なレイスが居ない今、調理でテンパる翡翠までが料理を運ぼうとするような、美鈴が恐れていた事態になりつつあった茶房朔月の店内。
「……あ」
翡翠が苦笑する。
「すいません。やはり、接客は美鈴にお願いした方が良いみたいで……」
「がらららっ!!」と、扉が大きく開く音がする。
「あ、いらっしゃいま……」
後光がさしたような登場をしたのは、肩で息をするレイスであった。
「はぁ、はぁ……悪い。遅くなった。混んでいるし手伝うぜ!」
「レイス!!」
美鈴が瞳を輝かせる。
「マスター! レイスが……あのレイスが戻って来ましたわ!」
「ええ。自分は信じてましたよ、レイスはきっと帰ってくるって……」
手をとりあって喜ぶ二人に、レイスは早速テーブルを片づけながら、
「あのな、家出少年が更生して帰ってきた時みたいな両親の喜び方は置いておいて……俺が接客関係を引き受けるから、翡翠は厨房へ、美鈴は料理を運ぶのと翡翠の手伝いをしてくれよ」
「はい、レイス」
「わかりましたわ」
「俺も遅れた分を取り戻すぜ!」
てきぱきと空の食器を運び、少し荒々しいながらもキッチリと客を捌いて誘導したりと、八面六ぴの活躍をするレイスの参戦により、茶房朔月は、次第に平穏を取り戻していくのであった。
× × ×
表に出ていた『営業中』の札を裏返して『準備中』にしてきた美鈴が店へと戻ってくる。
「やっと落ち着きましたね? 目が回りそうでしたわ」
着物につけていたたすきを外しながら笑う美鈴の前には、椅子に背を預けて座るレイスがいた。
「でえ……疲れたぜ……誰だよ、初日は暇だなんて言ったのは」
「レイス……私言いましたわね? お昼時には戻ってきて下さいって……」
「だから、全力で走って戻ってきただろ?」
「はぁ……まぁ、いいですわ。助かったのは事実ですし……ちょっとお茶でも入れて……あら?」
美鈴が良い匂いに気付くと同時に、翡翠がお盆を持って二人の方へやって来る。
「二人共、お疲れ様でした。残り物ですけど、お腹空いてませんか?」
翡翠がテーブルに盆を置くと、そこには、さんまの塩焼き、ひじきの煮物、漬物、大根の味噌汁とご飯と、由緒正しき和食があった。
「マスター、忙しかったのに、よく、これ作る暇有りましたね?」
「これは開店前に殆ど仕上げたものですよ」
「……(この料理、残り物に見えないんですけど)」
そんな無理しなくても、と美鈴が翡翠を心配そうに見つめる中、レイスは、「お! 美味そうだな!」と素早く箸を手に取ると味噌汁をすする。
「うん、美味い!! しかし、美鈴が言うように、この料理随分手が込んでないか? 翡翠? お前は食べたのか?」
「自分は、良いですから、二人共ゆっくりどうぞ」
微笑む翡翠だが、実は疲れすぎて食欲が湧かないのだ。
「それで、レイス? 街中はどうでしたか?」
「街中には色々な建物があったぜ。商店に、コンビニに、凄い豪邸に……あぁ、あと神社もな」
「あら?」
美鈴は食事をレイスと食べながら、一枚の紙を発見する。
「これは……手書きの地図?」
「地図?」
翡翠もその紙を覗きこむ。
「うわ! 見るなよ? 下手だって!!」
隠そうとするレイス。
「隠さなくても良いと思うのですけど。そう言えば、マスター。レイスは昔から絵だけは描いてましたわ」
「へぇ……レイス、見せて貰えませんか?」
翡翠に頼まれて渋々レイスは地図の描かれた紙を渡す。
「わぁ……凄いじゃないですか!」
翡翠が見た地図には、もはや『観光マップ』といえるほどの、細かく綺麗な字で纏めたコメントが付いた建物の絵が描かれている。
「綺麗な絵や文字と……あまり見せないのは変わりませんわね……クスクス」
美鈴が微笑む。
「意外でした。レイスにこんな才能があるなんて……この店のお品書きもお願いしたいくらいですよ」
「だから……人にあまり見せたくないんだよ、俺は」
恥ずかしがるように、箸で秋刀魚の身をほぐすレイス。
その時、コンコンッと表の扉がノックされる音がする。
「はい?」
美鈴が扉を開けると、見知らぬ男と女が立っていた。
「あの? 表を通りかかったら、秋刀魚を焼くいい匂いがしたんだけど……もう店閉めちゃった?」
「え、えぇ……次は夜からの営業になりますけど……」
「そっかー、残念だな」
「構いませんよ? どうぞお入り下さい」
翡翠の言葉に驚く美鈴とレイス。
「おい、待て、翡翠!?」
「マスター?」
翡翠は二人を見て、
「折角のお客さんです。秋刀魚定食なら少しは作れますし」
「少しって……俺達の分だけじゃないのかよ。何匹仕入れたんだ?」
「たった30匹くらいです。さっきまでは焼くのに時間がかかるのでメニューには載せてませんでしたけどね」
翡翠はそう言って厨房へ向かう。
「……」
レイスは黙って立ち上がると、自分と美鈴の食べた食器を厨房へと運ぶ。
「マスター……本当に、料理に関しては無理を平気でなさるんですから……」
美鈴は、お客を店内に招き入れると、表の札を『営業中』へと戻す。
その後暫くは茶房朔月から漂う秋刀魚の良い匂いに、客足が途切れることはないのであった。