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72


 表の顔は、学会から注目を浴びるほどに素晴らしい科学論文を書くほどの高い知的能力を持った、元数学教授。
 そして裏の顔は――ロンドンに暗躍する悪党一味の頭領として機知を揮い、狙った獲物は必ず仕留める犯罪者。
 ついた渾名は犯罪のナポレオン。
 彼の名はジェームズ・モリアーティ
 シャーロット・モリアーティ(しゃーろっと・もりあーてぃ)の曾祖父である。


 シャーロットは、かの曾祖父の後継となるべく教育・訓練を受けてきた。
 ジェームズが作り上げた組織や人脈も引き継いでいるし、引き継ぐだけの素質もあった。
 表の顔と裏の顔を使い分けるのもジェームズの模倣。
 私立探偵を表の顔とし、犯罪者を裏の顔とする。
 ……のは、後継者を作ろうとする『彼ら』を欺くための嘘。
 実際のところは真偽が逆で、私立探偵として活動するためにジェームズの後継という立場を利用している。
「そうだろう?」
 安楽椅子に座り足を組んだジェームズが、皮肉にも探偵のようにシャーロットに笑いかけた。
「さあ、どうなのでしょうね」
 優雅に微笑む様は、まだ決定的証拠を突きつけられていない犯人のようで。
 これじゃあ逆転してるわね、と内心で苦笑した。
「それはそれとして、お爺様は私のことをどう思っているのです?」
 ――ジェームズ・モリアーティの後継である私のことを。
 目の前で煙管をくゆらす初老の紳士が僅かに目を細める。品定めをするような目。数秒の沈黙。
「私の知を受け継ぐ者たちの中で、唯一私の後継と呼べる才を持つ者」
 端的な答え。
 表向きはそうですか、と嬉しそうに笑い、
 ――それは残念でしたね。そして、好都合ですね。
 心の中では別の声。
「だが、先にも言ったようにお前は立場を利用しているだけにすぎない。ということは、後継にはなり得ない」
「お爺様、勘繰りすぎではありませんか?」
「物事は何事も慎重に、特に相手の底が知れぬうちは下手に手を出すべきではない。覚えておくといい」
「ええ、ありがたく」
 五分早めておいた壁掛け時計がボーンと音を立て、空気を奮わせた。
 一回。
 二回。
 合計で九回の音を響かせ、沈黙する時計。
 二十一時を報せる音に、ジェームズが立ち上がった。
「時間か」
 あと五分もしないうちに、ナラカの門は閉ざされる。
「お見送りしましょうか、お爺様?」
「結構だ。ここでいい」
 玄関先で、ジェームズが振り返った。
 何か言い残したことはないかね。
 射抜くような目で、シャーロットを見据える。
 ――本当に何もかも見透かされているのね。
 心の中でそう呟き、シャーロットは意を決して口を開いた。
「数十年後。
 あなたが英霊として復活し、犯罪のナポレオンとして私の前に立ちふさがるなら勝負してみたいものです」
 不敵な笑みを浮かべての宣戦布告。
 ほう、とジェームズが楽しそうな声を上げた。
「面白い、やってみるがいい。お前が何をしたところで私に嫌疑を掛けることは出来ないだろうがな」
「ご冗談を。勝つのは私です」
「随分な自信だな。……ふむ、ならばたっぷりと時間はあるのだから、お前をどうやって打ち負かすか考えておくとしよう。いかにして無様な姿を隠すか考えておくがいい」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しさせていただきます」
 くすくす、くすくす。
 冷たい笑いが、空間に満ちた。
「なかなか楽しかったぞ」
 最後にそう言い残し、ジェームズが玄関のドアを開けた。
 ばたん、と閉まった後は、静寂が残るばかり。