校長室
星降る夜のクリスマス
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●Let it Shine 酷く頭が痛んだ。 ぎちぎちと脳髄が締め付けられるかのような痛みに頭を押さえる。 片付けがほぼ済んでいるのが幸いだった。作業中ともなれば、頭痛の一つや二つは我慢しなければならない。 立てたモップによりかかり、ラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)は作業を止めた。 眼球の奥がじんわりと刺激される。閉じた視界がちかちかと色めき、暗幕の中に万華鏡の色彩が散りばめられては爆ぜて行く。途端に頭から血が下へと流れ落ちていく感覚を覚え……。 ――私の中から、朝が消える。 「意識をしっかり保て、ラムズ」 我が身に呼びかける。この声が口から出ているのか、内なる宇宙に流れただけなのかすら判然としない。 よろめくが壁に手をついてラムズは一呼吸した。冷えた空気が肺を満たす。 だが空っぽの頭には否応なく自己否定のイメージが雪崩れ込み、耐え切れなくなった精神は吐き気となって彼の体を責め立てた。 「辛そうじゃな」 幼子の声が耳を打つ。顔を上げれば、襤褸をまとった子どもが……いや、化物が一匹。 嘲笑するかのように浮かべられた笑みはどこか仄暗く、黄の双眸は冒涜的な光を以てこちらを、矯めつ眇めつしているように見える。 幼子、それはシュリュズベリィ著 『手記』(しゅりゅずべりぃちょ・しゅき)だ。 数時間前までの散らかり具合が嘘のようだ。がらんとした講堂……パーティ会場だった場所は、粛々と片付けが終わっていた。正確にはまだ完全に終わってはいないが、それに近い。 「休むか?」 「……らしくありませんね、あなたがそう言うのは」 「何、こういう日じゃ。贈物の一つでも渡したくなるさね」 何気ない『手記』の口調だ。むしろ優しいとすら言っていい。 だが手記の心も千々に乱れている。 ――無様じゃ……。 そう感じた。小さく吐息をついた。 手記には、とてもではないが直視できたものではなかった。今のラムズの姿は。 逃れられるものではないのだ。誰であっても。自分というものからは。 ――何でもない様を装って、自分が恐れる場所から目を逸らす。かといって割り切っているというわけでもなく、眼前にそれが押し迫れば……この様じゃ。 ラムズはその場に座り込んでしまった。 講堂内は、現在二人きり。ラムズと、手記と。 このたった二人で、広い会場内を清掃し整えているのだ。だがこれはラムズが望んだことだった。手記も、不平を言わずこれを手伝った。陰鬱な気分を、体を動かすことで晴らしたかったという理由がある……残念ながら、その意図が達成されたとは言いがたいが。 「私を休ませたかったら、もう少し考えてから言葉にするべきでしょうね」 「飾り立てるのは嫌いじゃろう?」 「そこだけは評価してあげましょう」 話しているものの現在ラムズの視界には、手記は『幼子』……いや『化物』の幼体としてしか映っていない。手記とてそのことは察知している。しているが、言葉にはしない。 ラムズは手記に手を伸ばした。 どうしようというのか――その意思は結局、明らかにはならなかった。 しらじらと空が明るむ中、彼は意識を失ってその場に倒れ伏したからだ。 「……のう、ラムズ。それを選んだのは他ならぬ主なのじゃぞ。もう何度も忘れているじゃろうが、その生き様を選んだのならば、後悔なぞするでない」 手記は呟いた。もう、大声を上げ鐘や太鼓を鳴らしても、彼には届かないだろう。 「じゃが……もし、もう今休みたいと言うのならばそうしよう。せっかくの聖祭日じゃ、主がそう望むのならば、我がしかと刻みつけよう」 手記は目を閉じた。 つづく言葉を口にするのには、さすがの手記もわずかに躊躇した。 手記はこう言ったのである。 「……その最期の生き様を、な」 と。 クリスマスの早朝。 まだ空は暗く、聞こえる音といっても雀のさえずりくらいだ。 初日の出を拝む習慣はあっても、クリスマスの日の出をありがたがる人もないだろう。案の定、イルミンスールのクリスマスツリーの周辺に人の姿はゼロだった。 何かの間違いかと思った。こんな時間に匿名 某(とくな・なにがし)は、結崎 綾耶(ゆうざき・あや)に呼び出されたのである。 ――まあ、行けばわかるか。 眠気の残る目をこすり、某は綾耶の姿を探した。 誰かが人工雪でも降らせたのだろう。ツリーとその周辺には雪が積もっている。積雪を靴で踏んでみると、コチコチに硬く凍っていた。 「こんな朝早くにすいません。でも、某さんにどうしても見て欲しいものがありまして」 綾耶はすぐに見つかった。彼女はずっと待っていた様相である。彼が来なければ、それこそ明日の朝まで待っていたのではないだろうか、そんな風に思えた。 「いいさ。よっぽどのことなんだろう? ……それに、クリスマスの朝っぱらに用事なんてないしな」 どことなく緊張気味の綾耶をほぐすように、某はふわりと笑った。 ぺこりと頭を下げて彼女は言った。 「私、これから光の翼を出してみようと思います」 その声が弾んでいる。聞いている某も、つられて嬉しくなってしまうほどに。 「今までは出せなかったけど、今なら出せると思うんです。だから見ててください。変わることができた、私の姿……!」 「……わかった。しっかり見届けるよ」 もし事実なら、これほど嬉しいことはなかった。 では、と言って彼女は両腕を広げた。広げたまま、左右共に斜めに下げる。 綾耶は目を閉じた。 背中に起こる変化を待って。 すぐに変化は訪れない。五秒……十秒…………まだ。 ――頼むから出てきてくれよ。 某は唇を噛み、祈るように待った。 これまでの記憶が蘇る。綾耶にまつわる記憶だ。 ――造り変えられたせいで守護天使の意義を果たせないって泣いて、変わろうと決意してからの痛みに苦しんで、偽物の幸せから絶望して、それでも綾耶は乗り越えてきたんだ。 二十秒ほど経過した。 拳を握りしめ、声が漏れそうになるのをこらえ、某は念じる。 ――もう、報われたっていいだろ? ――綾耶が持つはずだったモノを取り戻すには十分な代価だっただろ? 「だから……出てこい!」 こらえきれず口からこぼれた彼の言葉が、まるで封印を解く最後の呪文であったかのよう。 生まれたのだ。 光の翼が。 物理法則を無視した精神の輝きが! 「出た……出ました! 某さん、翼が出ました! やったぁ!」 「あぁ……しっかり見てたよ。綾耶、やったな!」 「でも、ちょっとツンツンしてて可愛くないでしょうか……」 自分の背を振り返って彼女はおずおずと言う。 「大丈夫。その翼だって十分綺麗だから卑下する事はないさ」 色は薄いピンク。柔らかく曲線的なのが一般的な翼とは反対に、全体的に鋭角さを感じさせる……そんな形状だった。 「それに、どんな形であれ、これはこの世で唯一つ、綾耶だけが持つ翼だ。それにどうこう言える奴はどこにもいないよ」 眩しい――某は思った。 翼の光そのものは、ほの明るいにすぎない。しかしそこには、生まれたての生命を見るようなまばゆさがあった。 思わず彼は駆け寄っていた。 距離がぐっと縮まった彼の目を見つめながら、照れくさそうに綾耶は言う。 「それで……ちょっと一緒に飛びませんか? 某さんと一緒に空を飛ぶ……これが、変わろうって決意したときからの夢だったんです」 「お安い御用だよ。それじゃ、綾耶の夢実現のために俺も頑張るか!」 レビデートを発動して某は浮き上がった。 ぷるっと光の翼が震えてはためいた。綾耶の姿も、空にあった。 「今日はクリスマスだから、これはきっと贈り物なんだろう……。サンタや神様からじゃなく、今まで頑張ってきた綾耶自身からの、な」 最高のプレゼントだ。本当に、これ以上何が望めよう。 伸ばした某の手を、綾耶の手がしっかりとつかんだ。 「そろそろ朝日が昇りそうだ。ついでだから一緒に見ようか」 群青色から薄紫へ、さらに薄らいで白、そして蒼へ……変わりゆく空の色を味わうように彼は言った。 「新たな出発になった日に朝日をみる。それはそれでロマンチックだと思わないか?」 ぐんぐんと高度を上げる。 白と緑のクリスマスの木も、もう二人のはるか下だ。