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リアクション
●蛍舞う川辺で
夕刻。
場所は雅羅と理沙たちのいた渓流を、ずっとさかのぼったあたりになろうか。
博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)とリンネ・アシュリング(りんね・あしゅりんぐ)は、揃って散策を楽しんでいた。
二人っきりだ。見ているのは山と川だけ。
手を握り合っている。指を絡める恋人握りで。
「それにしても、どこまでいっても澄んだ川だよね……」
リンネは魅せられたように言うのである。実際、これほどの場所はそうそうないだろう。
「ええ、川の水だけではなく、空気も。真夏とは思えないほど涼しいですし」
この日、二人はまだ陽があるうちに到着し、靴を脱いで水遊びに興じた。
本当に冷たく、気持ちのいい水だった。跳ね返る水飛沫が、水晶の一粒一粒のようだった。
深みには鮎が泳いだりもしていた。
日暮れ前にはトンボがたくさん飛んできて、くるくると周囲を旋回してからあわただしく去って行った。
それに蛙だ。
「おや、まだ付いてきてますね」
ふと博季が振り返ると、小さな緑色の蛙がぴょんと、飛んで近くの岩に止まった。
蛙は「見つかっちゃった」とでも言いたげに、喉の袋を膨らせませたり縮めたりしている。
「本当だ♪」
「……なんか僕、あの蛙さんに気に入られたみたいなんですけど」
この蛙、水遊びしている頃から近くにいて、やがて博季たちが水遊びをやめて歩き出しても、ひょこぴょこと付いてきていたのだ。
「ふふっ、女の子の蛙なのかな? 博季ちゃんがハンサムすぎて恋しちゃったのかも」
「からかわないでくださいよ。きっと、お弁当のご飯粒を、ちょっとあげたからです」
水遊びの途中で川原に腰掛け、ふたりでお弁当を食べたのである。
もちろん今日も、博季が気合いを入れて作ってきた弁当だった。ふたりは「あーん」なんて言って食べさせあって、蛙にも米粒を少し、分け与えたのであった。
「でももう遅いよ、お家にお帰り」
リンネがしゃがんでそう言うと、蛙はケロケロと小さく鳴いて、川にぽちゃんと飛び込んだ。
「バイバイ」
リンネが手を振ると、一瞬だけ蛙は頭を見せてまた水に潜った。
「さて、そろそろですね」
見晴らしの良い場所を確保して、博季は腰を下ろした。
「どうしたの?」
「素敵なものが見れますよ。ちょうど、山と谷と、この辺り一帯に」
リンネは不思議そうな顔をしていたが、すぐに博季の言葉を理解した。
ごく短い魔法の時間が訪れたのだ。
マジックアワー。それは太陽が沈んだ直後、光も影もない時間をさす。
光源としての太陽は消えているが、まだ光は空にたくわえられている。
すべての影は消え失せ、すべての色彩が、やわらかい黄金色に染まった。
いつの間にか博季は、妻に膝枕してもらっている。
そうして二人で、川面の変化を眺めていた。
「綺麗ですね。凄くロマンチック……」
「うん、うんっ」
リンネは言葉も失ったようで、ただこくこくとうなずくのだった。そうして、猫でも抱くようにして博季の髪をなでつけている。
「どうしていままで、川に来なかったんだろう? この現象はずっと知っていたのに……」
「いいよ。まだまだこれから、何度だって見にきたらいいんだもん。また来ようね♪」
やがて光が消えるころ、また別の魔法が、ふたりを覆った。
薄くグレーがかった紺色の、えもいわれぬ宵闇。
そこにちりばめられたのは地上の星、いや……
「蛍! 蛍の光だね!」
リンネは幼子のようにはしゃいでしまっている。
本当に、星が降ってきたような光景だった。たくさんの蛍が、ほのかに緑色を帯びた光を発しゆっくりと飛びかっているのだ。
「これは思わぬ……」
祝福ですね、と博季は言った。
川が山が、すべての自然が、二人を祝福してくれている。そんな気がした。
「すごーい!」
リンネは博季とともに立ち上がり、両手を広げてこれを迎える。
――リンネさん。
結婚して歳月は重ねたが、それでもまだ、博季はリンネに恋をしていた。
恋している自分を、自覚してもいた。
――蛍の淡い光に、リンネさんが染められて。その中で感動してるリンネさんが、一喜一憂してるリンネさんが、どうしようもなく美しくて。でも儚げで。愛おしくて……。
この光景を彼は、生涯忘れないだろう。
「……ねぇ、リンネさん『月が綺麗ですね』……なんて」
「え? 月はまだ出ていないよ」
「ふふ、だったらいいんです」
「なーんてね♪」
リンネは照れたように笑って、博季の頬に口づけた。
「知ってるよ。学校で習ったもん」
「……いまさら……ですかね」
やはり照れくさげに、それでも真面目に、博季は囁くのである。
「僕は馬鹿だから。……やっぱり、直接伝えちゃおう。
I love you.
リンネさん、愛しています」
お返しのキスを彼女の頬に、
そして彼女の唇に。
互いに目は閉じないで、互いの瞳を見つめ合ったまま、唇を重ねる。