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リアクション
●イルミンスール大図書館の冒険
突然だが事件発生!
「羽純くん、行こう!」
遠野 歌菜(とおの・かな)の顔からは血の気がひいていた。青ざめたとまではいかずとも、陶器のような肌がますます白い。
発端は、彼女が夫月崎 羽純(つきざき・はすみ)と買い物に出ていたことである。
家には息子の月崎明陽(あきはる)と月崎颯希(さつき)を留守番に残した。
ふたりとも十歳、もう自分のことは自分で面倒が見られる年頃だ――という安心感が、この事態を招いた。
「普通に訪れるだけなら問題ないけど……何だか胸騒ぎがします!」
母親の直感か、歌菜の胸には夕立前の黒雲のようなものが広がっている。
羽純は歌菜ほど不安を面にはしていないが、その実は今にも飛び出したいほどの焦燥感と戦っていた。
「ああ。あれをテーブルに置いておいたのがまずかったか……」
今さら悔やんでも仕方のないことだ。
買い物から戻ったらイルミンスールの大図書館へ返しに行くつもりで、彼らは一冊の黒い革表紙の魔道書を残していったのである。
帰宅したとき、家からは明陽・颯希の双子の兄妹と魔道書が消えていた。
そこから導き出される推論はたったひとつだ。
灰色の空の下、歌菜と羽純は大図書館に駆けつけた。
受付のカウンターで黒い呼び鈴を鳴らし、ローブ姿の司書を呼び事情を話す。
幸い、今日の担当者は結婚前から顔なじみの司書だった。双子とも馴染みである。
「えっ!? でも、ふたりとも本を返して帰りましたよ」
司書は首をひねった。たしかに兄妹だけで図書館に来るのは初めてだったが、取り立てて妙な様子はなかったという。
「もう帰った? 今は姿がない……」
歌菜は首を巡らせた。肌寒い日のせいか今日は来客が少ない。
入れ違いになった可能性はある。今ごろ兄妹は帰宅して、家でテレビでも観ている可能性がある。
「しかし、ふたりが帰ったようには思えないんだ……俺には」
「羽純くんもそう思う!?」
「単純な話のような気がしない……どこか危険な気配が……歌菜、待て! 今…二人の声が聞こえなかったか?」
羽純ははっと顔を上げた。それは歌菜も同じだった。
「うん、聞こえたよ! たしかに明陽と颯希の声が聞こえた……! 絶対にここにいるよ」
――助けて、そうはっきりと言った。
歌菜と羽純は顔を見合わせうなずき合う。
司書もただならぬものを読み取ったのだろう。カウンターをどけて書庫への道を開けた。
「私は人を呼んできます、お二人は先に中へ」
「ありがとうございます!」
歌菜は迷わず奥へ進んだ。羽純も駆け出す。
歌菜と羽純の直感は的中していた。
その日、留守番に退屈していた月崎明陽は、テーブルの上の本をしげしげと眺めて、
「颯希、この本、母さんが返し忘れてるやつだよな? イルミンンの大図書館に返しに行ってこようと思うんだけど」
と、なんの気なしに言ったのだった。
立ち上がった明陽の顔つきは、母親である歌菜によく似ている。
髪と目は羽純譲りだ。明るめの黒い髪、やはり光沢のある黒い目、いつも笑っているような雰囲気の少年だった。
「付き合うよ。私も行く」
ソファに寝転んでいた颯希が身を起こす。中性的な顔立ちだが、柔和な青い目と栗色の髪が歌菜によく似ている。落ち着いた口調は妹ゆえか、それとも父の羽純に似たのか。
――明陽だけじゃちょっと心配だから。
と颯希は思っているのだが、それは言わないでおく。
対称的な、太陽と月のような双子だった。お人好しで正義漢の明陽はしばしば抜けているが友達が多く、クールで理知的、それでいてときに芸術家的に奔放な一面を見せる颯希はリーダーに推されることが多くて、同性の女子にやたらとモテた。
このようにに性格的には逆の方向性だというのに、性格的には補いあっているというのか、なんとも仲の良い。だから今日も、ふたり連れだって大図書館に向かったのである。
顔なじみの司書に本を返し、図書館の両開きの扉を出たところで突然、明陽は足を止めた。
「なぁ、颯希。なんか今、呼ばれた気がしなかったか?」
「そうね。助けを求めているような……うん、明陽も聞いたんなら聞き違いじゃない」
「やっぱりそうだよな! 気になるし、ちょっと行ってみようぜ」
「そうね、助けを求めてる人がいるなら、助けなきゃ!」
司書は用事に戻ったらしく受付は無人だった。
「人を呼んだほうがいいんじゃない?」
ところがこのときにはもう、明陽はカウンターを乗り越えて走り出している。
「だーいじょうぶだって! 奥まで行かなきゃ大丈夫!」
「あ、待って」
もう明陽を止めることはできず、仕方なく颯希も彼を追った。
異変に気がついたのは颯希のほうだった。肌に触れる空気に瘴気のような濃くまとわりつくようなものを感じる。
「明陽ヘンだわ。周囲の音が聞こえない。まるで森に分け入ったような……まだそれほど奥には進んでいないはずよ」
「え……?」
明陽は足を止め周囲の本棚を見回した。
棚に並んでいる本が異様に少ない。ついさっきまで、周囲の棚にはぎっしりと本が詰まっていたはずなのに。
しかもその少ない本が、いずれも背表紙から、燐光のような青白い光を放ちはじめたのだ。
「颯希、俺から離れるなよ!」
妹を背にかばうようにして明陽は声を上げる。
「颯希は兄ちゃんが絶対守ってやるからな!」
だがその身を押しのけるようにして颯希も本棚の前に立った。
「なに言ってるのよ! 明陽だけ戦わせない……私も戦える! 二人で力を合わせたら、きっとなんとかなるわよ」
数分後。
「あった! ここ、空間の歪がある!」
最終決戦から数年が経つが、歌菜の戦闘者としての感覚は鈍ってはいない。たちまち異空間への入口を書庫内に見つけ、召喚した日輪の槍を突き入れてこれをこじ開けた。
阿吽の呼吸で羽純は、黒い口に飛び込んでいた。
「続け!」
と言ったときにはもう、羽純の手には聖槍ジャガーナートが光っている。
「こいつ!」
聖槍の穂先は、青白く光る本の表紙を貫いていた。叩き落とすと同時に羽純は槍を巡らせ、後方から迫ってきた魔の本を斬り下げる。それは剣の舞、羽純はまさに踊るようにして、魔界の存在となった本を次々と撃破していく。
彼を援護するのは歌菜だ。歌い上げる、力もつ唄『エクスプレス・ザ・ワールド』を。その歌唱がが具現化した無数の槍は、羽純が撃破した魔導書の周囲に柵の如く次々と突き立つと、ぐっと変形してこれらを閉じ込める檻を形成した。
「無事か!」
羽純は双子を発見していた。明陽と颯希はかばい合うようにして身を守っていたのである。
「明陽と颯希には、これ以上手出しはさせませんよ!」
言いながら歌菜は手早くふたりの身を調べ、怪我がないことに安堵の息を漏らした。
「古くなりすぎた魔導書が力を持ったものか、それとも元々、こういう呪いを帯びた本だったのか……いずれにせよ」
ぱっと槍を高飛びの棒のごとく使って羽純は黒い世界で跳躍すると、
「害をなすものであれば、容赦はしない!」
両腕で槍を振り上げる。このとき歌菜のもたらした無数の槍も彼を追った。
羽純は槍を先にして重力に身を任せ落下した。
目指すは空になった本箱……いやしかし、違う!
本棚そのものが、巨大な魔道書に変化したのである。これが正体だったのだ。
羽純は初撃を魔道書に沈めるや槍を抜き、あとは目にもとまらぬ速度で乱撃を繰り出した。ぴたりと息を合わせるように歌菜のもたらした槍も次々と突き刺さる。そのたび赤い閃光が散った。それはまるで、薔薇の花弁が舞い踊るよう。
時間にして三秒もなかっただろうか。羽純が着地すると同時に巨大魔道書は四分五裂し、塵になって消滅した。
それとともに、異空間も嘘のようにかき消えたのである。
「うう……」
と、なすすべなくこれを見ていた颯希だったが、ごしごしと目元を拭うと、
「黙って来てしまって、ごめんなさい」
と父母に頭を下げた。ぺたんと座り込んだまま明陽も言う。
「父さんと母さんはやっぱり凄いや……」
「ふたりとも、怪我はなくて良かったけど……」
歌菜はあえて、眉を怒らせて言った。
「どうして二人だけで図書室に来たの? 助けが来なかったら、どうなってたか…分かるよね?」
悄然とする明陽と颯希に羽純も言った。
「歌菜の言う通りだ。お前たちには、まだここは早い。だが」
と、彼は父親として、左右の手を子どもたちに置いたのだった。
「……焦らなくても、いつかお前たちだけで来れる日はきっと来る。だから、今は無茶をしないようにな」
「うん」
「はい」
よろしい、とふたりに手を貸すと歌菜は言ったのである。
「まずは司書さんにこのことを報告ね。一応倒したけれど、魔道書の残骸は対処してもらわなくっちゃ。それがすんだらせっかくだし、大浴場で湯に浸かってから、
学食で何か美味しいものを食べて帰ろうかっ♪」
羽純も腕組みして賛成するのだった。
「そうだな、一風呂浴びて、美味しいものを皆で食べようか」
父母に手を引かれながら、颯希は明陽にそっと告げた。
「父さんと母さんの背中に、いつか追い付こうね、明陽」
「ああ」
明陽も言葉を返した。
「俺も、もっと強くなりたい」
颯希の視線の先には、
明陽の視線の先には、
歌菜と羽純の背中がある。