|
|
リアクション
●no place like home
地球。
東欧、ポーランドの都市ルブリンの郊外。
古びた建物はいずれも黒ずんでおり、まるで木炭を縦に置いて並べたもののようだ。
一帯は舗装されてはいるが、アスファルトはあちこち剥げ、石畳には縦横にひびが走っている。その割れ目に詰まった煤色の石の多さが、どれだけの間これが修復されず放置されているかを物語っていた。
白っぽい排気ガスを上げ、ボンネットに無数の引っかき傷をつけたタクシーが止まった。
シリウス・バイナリスタ(しりうす・ばいなりすた)はタクシーから降りる。降り際、何か一言二言運転手に話しかけて、料金のほかにチップを手渡している。
後部座席のドアを開け、リーブラ・オルタナティヴ(りーぶら・おるたなてぃぶ)も降り立って空を見上げた。あいにくと空は濃い灰色、そろそろ一雨くるかもしれない。
「ここが、可能性の高い場所ですわね」
振り向いて彼女は同行者に告げた。
「この風景に見覚えはありますか? カーネ?」
タクシーが走り去った。もうもうと上がった排気ガスと土埃の幕が消えると、そこに彼女……カーネリアン・パークス(かーねりあん・ぱーくす)が立っていた。
「……わからない」
カーネリアンは独り言のように告げると、シリウスとリーブラに歩み寄った。
「わからない。ここが自分の、故郷なのか、どうか」
最終決戦から二年が経過した。
二日前から、彼ら三人はポーランドに滞在している。
目的はシリウスの里帰り、それと……。
「カーネリアンのルーツを探せないか、やってみたいんだ」
百合園女学院で会った折、カーネリアンにそう切り出したのはシリウスだった。
「最初に会ったとき、言ってたよな、『本当の生まれは知らないが、一部ならポーランド語も理解する』って……。だったらカーネ、オレと一緒にポーランドまで来てみないか? 覚えている単語や方言から探して、わかる所を訪ねてみて、それで生まれ故郷を突き止められるかもしれない」
カーネリアンはそのとき、すぐに返事をしなかった。だが数日後、シリウスに電話してきた彼女は「行ってみよう」と短く答えた。
そうやって調べて、たどり着いたのがこの場所だったというわけだ。
「ここはな。オレの故郷でもあるんだ」
シリウスは、町の外を見るようにして言う。
「オレのいた孤児院はここのずっと先、あの緑の丘にある。いや、『あった』だな、もう取りつぶされちまったから」
「それ以前のことは知っているのか」
「いや」
とシリウスは視線を落として、
「そこから先はわかっていない。実の親のことはもちろん、どういう経緯で孤児院で暮らすようになったのかも。捨て子だったらしい、ってのがどうにかわかったくらいだ」
「そうか……すまない」
カーネリアンの口から謝罪が出るとは思ってもみなかったので、シリウスはいくらか意外な顔をして、
「いや、気にしないでくれ。少なくともオレには『出身地』ってやつがある、そう考えているから。年に一回も行けないけどさ、故郷の存在は、色んな意味でオレの支えになってくれてる」
それに、とシリウスは多少、くすぐったそうに付け加えた。
「できる限り調べたら、この近辺がカーネの記憶にある土地のイメージに近いとわかったんだ。もしかしたらオレたち、同じルブリンの生まれかもしれない。記憶にないほど昔に何度か、通りですれ違ったことがあるのかもしれないな。だとしたら……嬉しい」
「だとしたら、いいな」
――カーネは変わった。
シリウスは思う。
もちろん、彼女が突然感情豊かになったわけではない。喜怒哀楽の幅は非常に小さく、いつも無表情なのは相変わらずだが、どこか丸みというか、人間的になってきた気がする。少なくとも気遣いや感謝の念をよく口にするようになったとは言えよう。
それはカーネリアンが、アイドルグループ【Русалочка】に加わって芸能活動をはじめたせいもあるのかもしれない。
「皆といる今の場所が自分の家だ……とカーネは言うかもしれませんけど……わかるなら生まれを知るというのは、大事なことだと思いますわ」
リーブラが言った。
「わたくしたちと違って、人としての生まれがあるのでしたら、なおさら……」
「そうだな……」
カーネリアンはうなずいて足を進めた。
「少し、歩いてみたい。なにか思い出せるかもしれない」
一時間ほどが経過した。
三人はつれだって町のほうぼうを歩いた。
どこか引っかかるものがある、とカーネリアンは言った。しかし決定的なものはないとも言う。
「知っているようで、知らない。それが正直な感想だ」
思い出せないほど昔に観た映画のワンシーン、そんな印象なのだろうか。
「見たことがあるとは思う」
「…お節介、だったでしょうか?」
リーブラは悲しげにうなだれた。
「そんなことはない。記憶に近い土地に来ることができた。それだけで十分だ」
そんなカーネリアンに優しく言い聞かせるようにしてリーブラは答えた。
「せっかく来たのですし、あまり考えすぎず地球を楽しんでもらったほうがいいかもしれませんね。幸いというか、今はお金は十分ありますし」
と前置きしてリーブラが出したのは、三枚のチケットだった。
「ほら、シリウスが行きたがっていたクラクフ歌劇場のチケット、とれてますよ。明日は一緒にいきましょう?」
「そりゃいいや」
シリウスは弾むように笑った。
「ならポーランド見物を楽しんで帰ろう。クラクフは観光名所だし、ベーグルとかビールとかうまいしな! 割と昔の街並みが残ってて、ヴァイシャリーっぽいところもあるんだぜ?」
と言ってチケットを受け取ろうとしたとき、風が吹いて一枚、劇場のチケットが空中に踊った。チケットはひらりと足元に落ちる。これを屈んで拾い上げ、そのままシリウスは動きを止めていた。
「待てよ……」
シリウスは立ち上がらず、カーネリアンを見上げた。
「物心つくかつかないかの頃にここに暮らしていたのだとしたら……! カーネ、しゃがんでみてくれ」
「どういうことだ?」
怪訝な声とともにカーネは膝を屈した。
「その頃のカーネの視点は、このくらいの高さだったんじゃないか!?」
「…………!」
カーネが息を飲むのがはっきりとわかった。
「知っている。この光景なら、自分は知っている。見覚えがある……!」
カーネリアン・パークスは立ち上がれず、しゃがんだまま金縛りにあったように前方の通りを見つめていた。
四方を見回す。そのままの姿勢で歩いてもみる。
そのたびに、カーネの頬に紅が差すのがわかった。
「自分はきっとここの出身だ……! まだ言葉もしゃべれぬ頃、確かに、この町にいた……!」
カーネはいつしか、両手を石畳についていた。
その冷たい表面を、愛おしいように撫でる。
「ありがとう」
彼女は言った。
「本当に、ありがとう……!」
「いいってことさ。今はパラミタに住んでいるけれど、この街には確かに、カーネの家があったんだ。ここに住んでいたんだ。やっぱ家はいいよな」
ポーランド語でシリウスは言った。
「Wszedzie dobrze, ale w domu najlepiej.って言うしさ」
シンプルな格言だ
世界は素晴らしいが、自分の家が一番良い……という意味である。