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【四 カレーニナのエイコさん】

 ログインする際、この世界にすぐに馴染めるようにと、わざわざどてらに袴という衣装を指定したエヴァルトであったが、初代通天閣の頂きに立ち、裾を風になびかせているその様は、妙に威風堂々としており、意外と絵になっていた。
 だが、そんなことは今のエヴァルトには全くどうでも良い話である。
 彼はとにかく、カレーニナのエイコさんとの接触を求めて、初代通天閣の頂きに立ってみたのだが、まるで現れる気配が無く、当てが外れたことに少々機嫌を損ねていた。
(エイコさんとやらが、全体を見渡せる場所に立っていると踏んできてみたが……違ったのか)
 腕を組んだまま仏頂面で天空を眺めているエヴァルトだったが、不意に右手の方角から、地鳴りのような鈍い爆発音が響いてきた。
(あれは……)
 見ると、新世界から見て西側、堺筋と呼ばれる通りに面した阪堺電気軌道の駅から、黒煙が舞い上がっているではないか。
(くそっ……あっちか!)
 内心で舌打ちを漏らしながら、エヴァルトは鉄塔の頂きから垂直に舞い、鉄骨の段を軽やかに駆け下りた。

 カレーニナのエイコさんは、きっと鉄道の駅に居る。
 自身の推測に従い、新世界界隈からは最も近しい阪堺電気軌道の停留所へと足を運んでいたイランダであったが、いきなり戦闘に突入しようなどとは、さすがに思っても見なかった。
 しかし彼女を守る為に、北斗の巨躯が敵との間に仁王立ちになり、目の前の相手と対峙している。
「それにしても……名前から得られるイメージとは、随分異なる容姿ですね」
 北斗が思わずひとりごちたが、彼の意見にはイランダも大いに頷くところがある。
 カレーニナのエイコさん、という名称から、てっきり女性の姿をしているものだとばかり思っていたイランダは、黒煙の向こうに立つ全身金属製のドラゴニュートという容姿に、すっかり困惑していた。
 だが、あれがエイコさんであるのは間違いない。事実、ビリーさんもあの総金属製ドラゴニュートを見た瞬間に、大声でその名を呼んだのである。
「何だか、問答無用って感じじゃない?」
『あらもう、あきませんな……全然制御ルーチンが効いてまへんわ』
 イランダの小柄な体躯の隣で、ビリーさんがいつものにやけた笑みを消し、不気味な程に生真面目な表情で低く唸った。
 周囲では、爆音に驚いた群衆からの悲鳴や怒号が渦巻いている。
 いつもであれば、たかだかプログラムされただけに過ぎない人工的な人格が、何故こうもリアルに喚き散らすのかと冷静に分析出来たであろうイランダであったが、この時ばかりはそこまでの余裕が持てていない。
 相手がこちらの言い分も一切聞かずに襲いかかってくるのであれば、こちらとしても戦う以外に無かった。
 ところがそこに、群集の壁を押しのけるようにしてみっつの人影が横から割り込んできた。
「ちょっと待ってエイコさん!」
 ピンクに染まる長い滝のような髪が舞い、ピンクレンズマンあゆみが息せき切って飛び込んでくる。彼女に続いて、ヒルデガルトと武尊も黒煙渦巻く爆発現場へと駆けつけてきた。
「エイコさん! もしエイコさんが、本当の歴史で起きた戦争に怒りと悲しみを感じているなら、ここは大丈夫だよ! 確かに戦争は起きたけど、この世界ではそんなこと、このピンクレンズマンが絶対に阻止してみせるから!」
 あゆみは、エイコさんが初代通天閣の運命に憤ってバグを誘発させたと踏んでいた。同じくヒルデガルトも、
「エイコさん、あゆみさんの言っていることは事実です。どうか、信じてください」
と、声を励まして呼びかける。
 だが、総金属性ドラゴニュートの表情に、一切の変化は見られない。そもそも、感情を持っているのかどうかすら怪しく感じられた。
 戦争絡みで何らかの問題が起きたのでは、という発想は、実は武尊も同じであった。が、この場の雰囲気を見る限りでは、どうも違うように思えてきた。
「ふむ……日露戦争が関わっていると踏んできてみたが、いささか勝手が違う様子」
「うーん、あゆみ達も、何だか勘違いしてたかも」
 ピンクレンズマンが珍しく弱気になっていた。もし予測が外れていたというのであれば、では一体、何がエイコさんの身に起きているというのだろうか。
 しかし、悠長に考えている暇は無さそうであった。今度は別方向から一団の影が飛び込んできて、エイコさんに奇襲を仕掛けてきたのである。

「今のそいつは、話が通用する相手ではありません!」
 シズルであった。更に彼女を追うようにして、つかさとクドが飛び込んでくる。
「あぁっ、シズル様! そんな、危のうございますっ!」
「おぉっと、これはこれは皆さんお揃いでぇ」
 この三人の突入が合図になったかのように、エイコさんが再び戦闘行為に打って出てきた。最初の狙いは、北斗である。
「おいでになりますかっ!」
 北斗が腰を低く落として構えると、その左右にクドと武尊が走り込んできた。
「相手の力量が、まぁだ分かんないからねぇ。お兄さんが手ぇ貸すよぉ」
「右に同じく」
 ところが、北斗を中心とする三人の壁に到達する直前で、エイコさんの巨躯が急に弾けるように後退した。まるで何か見えない力に押し戻されたような格好である。
 いや、実際に見えない力が作用していたらしい。
 やや遅れて群集の間から飛び出してきた孝明と椿が、エイコさんが北斗達に達する前に、思念の力を叩きつけていたのである。
「相手の攻撃力も分からないのに、いきなり肉弾戦は拙いでしょ」
「……っていっても、あたし達の力もそんなには効いてないみたいじゃん」
 その時、遥か南の方角から、けたたましい笛の音が響いてきた。誰もがまさか、とは思ったが、どうやらそれは紛れも無く、官憲隊の接近を知らせる警告に相違なかった。
 如何に電脳過去世界、人工の空間といえど、権力ある相手に立ち向かうのは得策ではない。
 すると、この場の誰よりも早く、総金属製のドラゴニュートが高々と跳躍して、黒煙の向こうへと姿をくらましてしまったではないか。
 残されたのは、いずれもこの世界にとっては異邦人たるコントラクターばかりである。全員が拙い、と思い始めたところを、新世界に続く路地から救いの手が差し伸べられた。
「そこで愚図愚図してると、怖いおじさん達に捕まっちゃいますわよぉ」
「早く! こっちへ!」
 見ると、洋風ドレスに身を包んだレティシアとミスティが、エイコさんという敵を失って窮地に立たされようとしていたコントラクター達を、路地の隙間から手招きしているではないか。
 渡りに舟とはまさにこのことをいうのであろう。
 官憲隊などに捕らえられては、たまったものではない。コントラクター達はレティシアとミスティの案内を受けて、群衆の間に飛び込み、脱兎の如く新世界の路地裏へと消えていった。

     * * *

 天王寺公園近くの茶臼山付近。
 この近辺の路地を歩いていた泰輔は、これまで約一時間程、フランツと一緒に電脳過去世界を散策していたのだが、どうにも表現し難い、奇妙な感覚に囚われていた。
(何っちゅうか……随分と人間臭いよなぁ。誰も彼も……)
 泰輔は思う。
 この電脳過去世界は、実際にはマーヴェラス・デベロップメント社が仮想空間に創り出した人工世界に過ぎない。であるにも関わらず、街中で見かける人々の多彩な表情や言動の数々を見る限り、彼らが本当にただのプログラムされた偽りの人格であるようには思えなかったのである。
 最早リアルなどという表現では生ぬるい程の、実に活き活きとした生活感が、恐ろしいぐらいの生々しさで伝わってきていた。
 そして今ふたりは、外国人医師と日本人の薬箱持ちという姿に扮して、人気のまばらな上町筋近辺を歩いていた。
「泰輔、どうしたんだい?」
 ブラウンを基調としたブリティッシュ・スーツに身を包んだフランツが、怪訝な顔で泰輔の面を覗き込んできた。だが問いかけてきたフランツも、どこか訝しげな面持ちを浮かべている。
 彼もまた、泰輔と同様の違和感を抱き始めていたのである。
「いやぁ、別にそない大したことでも……」
 いいかけた泰輔だが、そこで口をつぐんだ。その視線が、道路に面したとある金物屋の看板に、じっと釘付けとなっている。
(あれは……)
 思わず、泰輔は息を呑んだ。
 かつて祖父から、この界隈に知り合いの金物屋があると聞いていたのだが、まさにその店舗が、今目の前に存在していたのである。
 泰輔の頬を、緊張の汗が伝い落ちた。
(……ひとつ確かめてみよか)
 矢張り同じく、祖父から聞いていたある情報を、泰輔は咄嗟に思い出していた。
「なぁ、フランツ。僕な、ちょっと確かめたいことがあんねん」
「確かめたいこと? いや、別に構わないけど……」
 泰輔の決意めいた表情を受けて、フランツはいささか気圧されたようだが、今の泰輔にはそこまで気に留める余裕が無い。
 ただとにかく、今からやろうとしていることだけに全神経を集中させて、泰輔は足を踏み出した。
 目指すは、あの金物屋である。
(もし……もしもやで、僕の予想が当たってたら……これは、えらいこっちゃで)
 泰輔はごくり、と唾を飲み込んだ。