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炭鉱のビッグベア

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炭鉱のビッグベア

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序章 英雄と過去

 タッ、タッ、タッ――
 リズムよく階段をおりて、角を曲がってすぐの扉を開くと、陽光が美しく照りつける外の世界に出る。
「よっ……と」
 両手に抱えた、大量の汚れた衣服が入ったカゴを持ち直して、橘 美咲(たちばな・みさき)は宿屋の玄関からそう距離が離れていない裏手の森の中に向かった。
 こんなに天気が良い日は、きっと洗濯物もよく乾く。
 契約者の仕事はその能力に応じたものがほとんどであるため、基本的には過酷な冒険が多いが、そんな冒険の赴く時には、せめて陽の光をたっぷり浴びた心地よい服を身に着けて欲しい。美咲はそんなことを密かに願っていた。
 しかも今回はビッグベア――あの凶暴なモンスターが相手なのだ。当然、各地からは契約者以外にも多くの冒険者が集まっている。
 危険を求める者。報酬を得ようとする者。有名になりたいと願う者。理由は様々だが、結果的にそれが、炭鉱に住み着いてしまったビッグベアに悩まされる炭鉱夫たちや麓の村の人々を救うことになるということだけは間違いなかった。
(そのお手伝いだけは、したいからね)
 森の中にぽっかり空間の空いた場所があり、美咲はそこで洗濯物を干す。宿屋の主人がいつも使っている場所だそうで、今回はその役割を美咲が買って出ているというわけだった。
 宿に泊まっている冒険者の数は満室になるほどで、たかが洗濯物といえども、衣類の数は半端なものではない。むろん、美咲の労働力もそれ相応のものが要求される。
 ようやく干し終わる頃には、ハイカラな大正女学生服の袖を腕まくりして、額に輝く汗をにじませるようになっていた。だが、それは心地よい汗だ。誰かの役に立つということが実感できる労働の汗は、美咲にとって幸せなことだった。
 すっかり軽くなったカゴを持ち上げて、宿に戻ろうとする。
「…………?」
 カチャ――という、金属が打ち鳴らされるような音が聞こえたのはその時だった。
 静かな森の中で一人でいたことが、その音を美咲の耳に届けたのだろう。彼女は、普段なら気づかないようなそんなかすかな音が気になって、音の聞こえた方角に足を運んだ。
 がさっ、と茂みを抜ける――
「誰……!?」
「ひっ」
 刹那、目の前に迫った金属の輝き。
 思わずうわずった声をあげた美咲の視界には、燃えるような赤い髪があった。その下で、皓々とした光を瞳に灯す少女。彼女の頭部からちょこんと飛び出ているのは、犬か、狼か……とにかく獣らしき耳である。
「リ、リーズさん……っ」
「……なんだ、美咲か」
 そこにいたのは、ビッグベア退治の依頼を受けた獣人の娘であった。


「そういえばリーズさんのお爺様は『英雄』と呼ばれている人なんですよね? どういった方なんです?」
「お祖父ちゃん?」
 二人はせっかくなのでお話でもしようと、切り株に隣同士で座りながら他愛のない話をしていた。その途中、祖父について話しかけてきたのは美咲からである。
「英雄と呼ばれているくらいなんですから、きっと凄いことを成し遂げた人なんでしょうね」
「そうね…………凄い人だったよ」
 はるか過去の思い出に心を馳せながら、リーズは背中に背負った大剣を横目でそっと見やった。それはつまり、その祖父の想いというものが詰まった業物なのだろう。そしておそらくは、それを使うことはいまだためらわれることでもあるのだ。
「お爺様は…………リーズさんの憧れなんですね」
 リーズの思いの丈が剣に込められていることを悟り、美咲は空を見上げた。
 憧れは誰しも持つものがある。自分のそれは、彼女のそれと似ているだろうか?
「私も『英雄』じゃないんですけど、憧れている人がいます」
「美咲も?」
「――もう随分前に死んでしまったんですけどね」
 リーズはハッとなって美咲を見たが、彼女の表情はまるで空にある愛おしき人を見ているかのように淡い笑みだった。
「……もしいつか輪廻の先で出逢うことがあれば、その人に褒めてもらえるような人に私はなりたいです」
 その笑みは溢れんばかりの光に満ちているようで、思わずリーズは彼女を見つめ続けてしまった。
 それが自分の言葉のせいだと気づいた美咲は、慌てて手を振った。
「あ、えと……ゴメンなさい! 馬鹿みたいな話をして……」
 恥ずかしそうに顔を背ける彼女だったが、リーズは決して彼女の話を?馬鹿みたいな?ものだとは思わない。むしろ彼女にとっては――優しい話だった。
「ううん……別に。そんなことないよ。むしろ美咲のことが知れて、ちょっと嬉しい」
「リーズさん……」
 笑みをかわし合った二人の少女。
 考えてみれば、美咲の実家はヤクザ家業で、なおかつ一人娘。そしてリーズは集落の一人娘だ。違う場所で生きていても、どこか似ているような……。そんな感覚が、いまの二人にはあった。
「お嬢ー! お嬢ー!! どこにいらっしゃるんですかー!」
 森の中から高々とあげる声がしたのは、そのときだった。
「あ、こっちよー! 源三郎!」
「ああ、そんなところにいらしたのですか」
 ガサガサッと茂みから姿を現したのは、アフロ髪が非常に特徴的な青年だった。
 美咲のパートナー、工藤 源三郎(くどう・げんざぶろう)である。これでも一応は一介の学生らしいのだが、その事がなんとも信じがたい印象を受ける青年だった。
 なにせ、サングラスとアフロときざみのりのように生えたヒゲである。そこにあるのは凄然さとコミカルが混じり合ったユーモラスな雰囲気だけで、およそ学生らしさというものがすべて打ち消されている。そもそも30代そこそこの美咲付きの護衛なのだから、学生というのも無理があるのは致し方ないのだが――それにしてもアフロは自己主張が激しかった。
「宿屋の主人がそろそろ炊き出しの材料を準備するそうで。出来ればお嬢にも手伝っていただきたいと……」
「あら、もうそんな時間?」
「手伝いなら俺がするって言ったんですがね。料理をなめんなって怒られちまいまして。お手数ですけど、お嬢、お願いできますか?」
「もっちろん。最初っからそのつもりよ。それじゃあ、リーズさん。私、行きますね!」
 気合い十分といったようにうなずいて、美咲は勢いよく切り株から腰をあげた。そのまま、二人に手を振って茂みへと飛び込んでいく。その後ろ姿を見送って、アフロ――もとい源三郎は感傷に浸る声を洩らした。
「お嬢は…………やっぱりまだあの人のことを忘れられないんですなぁ」
「なんだ、聞いてたの? わざとらしく呼び声なんてあげちゃって」
「いや、まあ、聞くつもりはなかったんですけどね。近くまで来たらつい耳に入っちゃいまして。盗み聞きと思われちゃあなんなんで……」
 少しばかり後ろめたい気持ちがあって、源三郎はごまかすように言葉を濁した。
「それで? 随分とその『憧れの人』ってのを知ってるっぽい言いぐさだけど?」
「いやね。その御仁――昔、近所に住んでいた刑事さんなんですよ」
「へー……刑事ね……」
 最近ではシャンバラでも見かけるようになってきたが、いわゆる教導団のようなものだ。もっとも、アレほど軍人めいた職業ではないらしいが、村の自警団のようなものかとリーズは理解していた。
「御嬢の実家の家業を考えれば表向きの付き合いなんて出来やしないんですがね。その御仁は家のことと個人は別だと、子供の頃の御嬢の面倒をよく見てくれました。懐かしい思い出です」
「それで? ……事故にでもあったの?」
 いくぶんか声のトーンが落ちたのは、リーズなりに気を使ってのことだった。しかしその心配は杞憂だったようで、源三郎はさほど気にするふうもなく落ち着いた口ぶりで答えた。
「……殺されたんですよ。でも、遺体は見つかっちゃいないんで、あんなことを言いつつも御嬢は何処かで期待しているんでしょう――その人が生きていることを」
 親の死が受け入れられないような思春期のそれとは違う、希望的観測に基づく望み――それが美咲の思う感情であると知っても、やはり源三郎の声は哀しみを帯びていた。サングラスの奥の見えない瞳が、わずかに伏せられたように感じる。
「つまんねえ話でしたね。申し訳ないです」
「気にしないで。私もたぶん…………似たようなものだから」
 それはどちらに似ているということだろうか?
 源三郎はしばらく紫煙をくゆらせていたが、煙草を吸い終えるとそれを地面に捨てようとして――背後からの視線を感じ、改めて携帯灰皿を使ってもみ消した。そのまま、携帯灰皿の中に吸い殻を収納すると、リーズに無言で別れを告げてその場を立ち去る。
 そう、似てるのよね――
 リーズは膝を持ち上げて抱き寄せると空を見上げた。背中の大剣の重みが、ずっと自分の肩にのし掛かったままだった。