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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

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●春は始まりの季節だから

 場面転じて……ここは海京、極東新大陸研究所の分所内の一室である。
 この場所にも春が来ている。いくぶん、慌ただしい春が。
「テキスト取って。違う、そっちじゃなくてその分厚いほう。その横の分冊も。……あ、それからさっきのテキストもやっぱり持ってきてもらえる? ごめん、黄色い表紙のほうね」
 イーリャ・アカーシ(いーりゃ・あかーし)は大量の資料と取っ組み合いの最中だ。といっても文字通り暴れているのではなく、机の上にどしゃっと広げた資料類をめくっては戻しめくっては戻しして、自分のパソコンに表示させた画面といちいち見比べチェックしているのである。
「……これでいいの?」
 ずしんと辞書のようなテキストを積み上げ、ジヴァ・アカーシ(じう゛ぁ・あかーし)はうんざりしたように言った。
「まったく、あたしはあんたの助手でも召使いでもないっての。だいたい、そんな資料整理みたいなことは天御柱学院(あっち)に行ってからやればいいじゃない!」
 せっかく梱包した荷物まで解いて、とジヴァは眉間にしわを寄せた。『本』と書かれたシンプルな段ボールが二箱も開けられてしまっている。
「そういうわけにもいかないの。天御柱に着いたら着いたで、住民登録だのなんだの、雑用がいっぱいあるんだから……テキストのミスが気になったのならなっているうちに確認しておかないと、うっかり手直しできないまま配布ってことにもなりかねないじゃない」
 そうなのだ。この春からイーリャは、天御柱学院普通科にて講師をすることになっているのだ。
 学科は、非契約者向けのイコン工学理論となる。
 理論中心の授業になるとはいえ、やはり準備は大変だ。テキストもみずから作成したものを使う予定だった。
(「教員教育の通り、一通りカリキュラム作成はしたけど、やっぱり緊張するわね……自分が発表以外で教壇に立つ機会が来るなんて思ってもみなかったわ」)
 楽しみな反面、不安もあった。その緊張が、引っ越し荷物の梱包が終わってからも急に、彼女をテキスト内容のチェックに走らせたのだろうか。
「間際までドタバタして……あたしの迷惑も考えてほしいわ」
 と不平をずっと口にしているが、なんだかんだいってジヴァはずっとイーリャを手伝ってくれていた。荷造りもかなりの部分がジヴァの手によるものだ。
 けれどこうして、忙しくしていたほうがいいかもしれない。
 下手に時間が空くと、その隙間に寂しさが忍び込んでくるかもしれないから。
 これまでイーリャは、ジヴァとともに極東新大陸研究所海京分所にほぼ住み込みの状態だった。しかしその生活ももう終わりということになる。学校のそばに転居するのだ。いよいよ転居間際になってやっと決まった天御柱学院そばの部屋は、一人分の居住スペースしかなかった。
 少々うるさいくらい賑やかだった二人の共同生活も、もう終わりである。
 けれどイーリャは、むしろ良かったのだと考えることにしている。
(「……本来の目的のためにも、ジヴァのためにも、私も変わっていかなきゃね」)
 きゅっと胸が締め付けられる気がしたが、これは自分たちの意思であると思って心を鎮めた。
 いつまでも、いつもジヴァと一緒……というわけにはいかないのだ。
「よし、チェック完了。誤りはなかったわ」
 言うとイーリャは段ボール箱に本を戻しテーピングしなおした。
「後はこれを学院の方に運んでおかないとね。もうすぐオリエンテーリングも始まるんだから」
 重い箱の数々や衣装ケースを、どすんどすんと台車に置く。
「さ、ちょっと手伝ってジヴァ。一緒にいられる時間は減るけど……別にいい?」
 その言葉を耳にするや、ジヴァはむっとしたように腕組みした。
「っとに……何よ急に。一緒にいられる時間? あんた、自分が海京分所に出向してきた理由覚えてる?」
 頭から湯気を立てるようにしながら、ジヴァも台車に荷物を積んだ。
 女性一人分の荷である。イーリャのさっぱりした性格を表すように、運搬すべきものは少ない。家具のたぐいは引っ越し先に備え付けがあるので必要なかった。
「ま、あたしはいいわよ? 煩いのがいなくなってせいせいするわ」
 と言い切ったが、大急ぎで付け加えるようにジヴァは言葉を足した。
「……べ、別に寂しいとか思ってないし! それにあたしは一方的にあんた呼びつけるくらい簡単にできるんだからね!?」
 確かに、二人の間にはテレパシーという交信手段もあるのだ。
 ふん、と鼻を鳴らしてジヴァは締めくくる。
「だからやりたいことがあるなら好きにやればってのよ」
 台車は外まで運び出せば、あとは引っ越し業者が運んでくれることになっている。これを確認すると、シジヴァは今度は、イーリャが担いでいたボストンバッグをもぎ取るようにして奪った。
「荷物貸しなさいよ、もってやるわ。あんた虚弱なんだから、無茶して倒れるんじゃないわよ。こっちが大迷惑なんだから!」
 悪態つきながらも、ジヴァの目には哀しげな色があった。
 それを見ぬように……最初からなかったかのように、目を逸らしてイーリャは空を見上げた。
「もう……でも、何かあったらすぐ呼ぶのよ。同じ学院にいるんだから。頑張ってね、あなたも」
「言われなくたって……!」
 ここでジヴァは言葉に詰まった。
 うっかり、こらえていた感情を溢れさせそうになったから。