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リアクション
●会合前(1)
御神楽 陽太(みかぐら・ようた)は妻、御神楽 環菜(みかぐら・かんな)の手を取ってエレベーターに入った。向かうは最上階。
二人とも正装だ。
といっても華やかな衣装ではない。国際会談といっていいこの場に及ぶため、シックなスーツに身を包んでいるのである。
「ネクタイ、見せてみて」
ほら曲がってる、といいながら、かいがいしく環菜は陽太のネクタイを直してくれる。彼女のつけている香水の、甘い芳(かおり)が陽太の頬をなでた。
「事件が待ち構えていると……ほぼわかっているのに出席するのも妙なものね」
「大丈夫です。俺がついてます」
決然と陽太は応えるのである。
「妻を守るのは夫の務めです! 俺はどんな時も、愛する環菜を絶対に守り抜きます!」
環菜は、陽太を見上げた。
「わかってるわ」
「環菜……」
視線が触れあい、溶けてひとつになる。
そういえば、と陽太は思い出す。
二年前の正月の話だ。エレベータ操作のホテルマンの目を盗んで環菜が、舌を絡める蕩けるようなキスを与えてくれたのは、たしかにこの空間ではなかったか。
喉が鳴った。
環菜はあのときと同じで美しい。いや、あのときよりずっと女として成熟して美しさを増したようにすら思う。吸い込まれそうだ。その目に。盗んでしまいたい、その甘い唇を。
「二人っきりじゃないぞー」
無粋は承知でエリシア・ボック(えりしあ・ぼっく)は声をかけた。
陽太は背中になにか冷たいものでも入れられたような顔をして環菜から離れた。環菜も、なんだか決まり悪そうにあらぬ方向に顔を向けた。
「あ、いやそんなつもりじゃ……キスするとか」
「本音がダダ漏れですわよ」
エリシアは深い溜息をつく。
それだけリラックスしてくれるというのは、望ましことではある。
けれど、とエリシアは厳しい表情に戻った。
過去、彼女は二度、誰かを守ることに失敗している。
ろくりんぴっくのとき……今はこうして蘇った環菜だが、かつてエリシアは力及ばず彼女を死なせてしまった。
大黒美空が撃たれたとき……目の前で友人が血の泡を吹き砕け散った光景を、忘れることは永遠にできないだろう。
今回は絶対にミスできない。
これ以上、あんな思いはしたくないし、誰かにもさせたくないから。
エリシアがこのエレベーターに乗るのは実はこれが今日初めてではない。事前に会談会場を調べてきたのだ。とりわけ、妙なタイミングで窓ガラスが交換されたということもあって、窓のチェックは念入りに行った。
たしかに窓ガラスは交換されていたが、防弾効果もある強化ガラスだった。
安心していい――はずなのにこの胸騒ぎはなんだろう。
エレベーターが着くと、すでにそこにはノーン・クリスタリア(のーん・くりすたりあ)と御神楽 舞花(みかぐら・まいか)が待機していた。
「ワタシたちの控え室は用意したよ。同じこのフロアにいて、舞花ちゃんの未来予知で何かがわかったらすぐ知らせるから」
ノーンは幸運のおまじないを発動させつつ請け負った。
舞花もぬかりはないという。
「予知の結果、何かわかりましたらすぐお知らせします。それと、事前に警備スタッフの責任者については面通ししておりますので信用してもらえるかと」
また、舞花は一羽のペンギンを連れていた。なんとも不格好で丸々としたペンギンではあるが、これなん的中率百%という謎の予言ペンギンなのである。といっても予言するときも内容も実に気まぐれなので、どこまで有用かは疑わしい。けれど、可能性があることなら少しでも……というのがこの日の舞花たちの心境なのである。
「今日はよろしく」
環菜がそう言ったのは、金 鋭峰(じん・るいふぉん)の姿を見かけたからである。
「ああ、よろしく恃む」
鋭峰は半月型の目でうなずいた。浮かない顔をしている。どうも、これから待つ会合というのが彼にとっては苦手な領域らしい。
さもあらん、とでも思ったか、環菜はいささかからかうような口調で、
「どうかして?」
と尋ねかけて、一瞬、息を止めた。
「異常、ありません」
横合いから出てきた初老の軍人が鋭峰に敬礼したのである。
軍人は針金のように細い身体だ。だがよく見ればその痩身は、ただ痩せているのではなく過度なまでに鍛え上げられた結果であることがわかるだろう。体脂肪率は限りなく低く、筋肉は若者のそれを上回るものと見えた。
背は高い。百九十に達すると思われる。
しかし環菜の肌が粟立ったのは彼が鋼のような肉体をしていたからでも、ましてや長身だったからでもない。
強烈な『気』が立ち昇っていたのだ。たとえるならば抜き身の刃を、ごろりとそこに投げ出したような。
彼の顔右半分は赤黒く焼けただれていた。火傷だ。相当昔のものらしく、すでに傷口とはいえまいが、それでも凄まじい爪跡を残していた。
火傷がもたらした残酷な副産物だろう、彼の口の端は斜め上に吊り上がった状態で固定されていた。まるで、異常な笑みを浮かべているかのように。
加えて彼の右の目は、絶望的なまでに黒い眼帯で覆われていた。
「警備責任者のユージン・リュシュトマ少佐だ」
鋭峰は彼を環菜に紹介して、
「ご苦労」と下がらせた。
リュシュトマは世辞の一つも言わず、ただ敬礼して立ち去った。
彼の背が見えるまでは、リュシュトマ補佐官として董 蓮華(ただす・れんげ)、スティンガー・ホーク(すてぃんがー・ほーく)を連れていたことにすら環菜は気がつかなかった。
スティンガーはすぐに振り返ったものの、蓮華は鋭峰のほうを、なんだか名残惜しそうに見ていた。迷ったが、口早に一言だけ言った。
「会合の成功をお祈りしております」
言葉は短いが瞳には、私も持ち場で全力を尽します――との決意を込めた。
環菜を含む全員に告げたという体裁、けれど蓮華が見ていたのはただ一人、金鋭峰だ。
熱意が届いたのか、それとも偶然かもしれないが鋭峰の視線が蓮華の視線をとららえた。鋭峰の目は帝王の目、猛禽類のように鋭い眼光がある。
普通の人間であれば立ちすくむような状況だが、蓮華にとってはまるで逆。
鋭峰が見てくれた。その認識だけで空に舞い上がりそうになる。
だから彼女はにっこりと微笑した。本当に短い、わずか一瞬の微笑だったけれど。
――団長のためにも頑張る私なのですから……。
その意志を実現するには粉骨砕身すべきだろう。名残は惜しいがすぐに蓮華はスティンガーたちの背を追ったのだった。
環菜は、なんとなく気が楽になったように笑みを浮かべると、
「じゃあ会合で」
鋭峰に言い残して陽太とともに控え室へ向かった。悠然とした動作も忘れない。
けれど環菜の内心には、いまだ寒々しいものがあった。
どうも……あのリュシュトマという少佐は苦手だ。味方としては頼もしいのだが。
公衆の面前なのでとてもできない相談だが、陽太に抱きしめてもらって、頭を撫でてもらいたかった。
「団長!」
溌剌とした声に、鋭峰は愁眉を上げた。
おお……と言いかけて、それはあまり威厳のある言い方ではないと思ったのか空咳して呼ばわった。
「大儀」
「はっ! 本日はこれ以後、団長のボディガードを務めさせていただきます!」
カッ、とブーツの踵をぶつけ、ルカルカ・ルー(るかるか・るー)は美しく整った姿勢で敬礼した。まっすぐである。腕も、背筋も、視線も。
ルカルカだけではない。彼女から一歩下がった位置では、ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)、カルキノス・シュトロエンデ(かるきのす・しゅとろえんで)、夏侯 淵(かこう・えん)の三人が、まったく同じ姿勢で立っている。
鋭峰は、ふっと頬を緩めた。リュシュトマに寄せるのとはまた違う、信頼に満ちた眼差しだった。
「まずは少佐任官を言祝ぐとしよう。今後も励むといい」
ルカルカの全身を電気が貫いた。
まさか団長より、そのような言葉をかけてもらえるとは!
昇進そのものも嬉しい。長年の貢献が認められたのだと感じる。昇進自体は目的ではなかったとはいえ、泥臭い任務であろうと果敢に挑んだことが評価されたのだから、先日の決定には素直に喜んだものだ。
だがルカにとって、少佐任官はこの瞬間ようやく完成したように思う。やっと実感されたというべきか。
そうだ。
ルカは知っていた。本当に自分が認めてほしかったのは……団長だ。
団長に認められてはじめて、自分は少佐になることができたのだ――そう思った。
「はいっ! 励みます!」
あまりにストレートなその物言いに、ぷっと夏侯淵が吹きだすのが聞こえた。
「おい、笑ったら駄目だろ」
カルキノスが小声でたしなめている。
「とはいえ、あの言いようはな」
「馬鹿っ、そういうのをお前らの時代では豎子というんだろう。真面目な場面くらい神妙にしていろ」
「二人とも、聞こえているぞ」
ダリルが嘆息混じりに言うと、夏侯淵もカルキノスもぎょっとしたように口を閉ざした。
しかしこれでリラックスしたのか、ルカは表情を崩していた。
「……ええ、まあこんな一同ですが、今後ともよろしく頼みます」
「それでいい。肩に力を入れすぎないように」
鋭峰も心得たもので、その当たりは柔軟に対応した。
「ふふ……それにしても金団長、本日は居心地悪そうですね」
「言うな」
わかっているだろうに、と言わんばかりの調子で言うが、次の瞬間もう、鋭峰は団長の顔に戻っていた。
「少佐は私に随身せよ。ダリル・ガイザック以下三名はリュシュトマの指示を仰ぐこと」
「はっ!」
ダリルたち三人が去ると、わかっていると思うが……と鋭峰はルカに言った。
「先任、という言葉がある。将校として対等になったとはいえ、リュシュトマにはなお上官同様の敬意を払うように。それにあれは……」
「それに、なんですか?」
「私にとって最古参の部下の一人だ。忘れるな、そのことを」
年齢からしてリュシュトマは、おそらく鋭峰団長の幼少期から仕えているに違いない。
ひょっとしたら、生まれたときからそばにいたのかもしれない。
それをなんとなく、ルカは羨ましく思った。
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