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ザンスカールのザッハトルテ



「なんだ……。歌菜、何か音が……。歌菜?」
 深夜に何やら物音がするのに気づいて、月崎 羽純(つきざき・はすみ)が、隣で寝ているはずの遠野 歌菜(とおの・かな)に声をかけました。
 ところが、ベッドはもぬけの殻です。
「いったい……」
 用心して、月崎羽純が、物音を立てないようにして、するりとベッドを抜け出しました。
 誰かが、キッチンにいるようです。
 そっと様子をうかがいますと、キッチンにいたのは他ならぬ遠野歌菜でした。
「えっと、次は……きゃっ!」
 ガッシャーンと、ボウルを落っことして、あわてて周囲を見回します。見つからないようにと、月崎羽純が姿を隠しました。
「起こしちゃったかな、大丈夫よね?」
 気をとりなおして、遠野歌菜がケーキ作りを再開しました。
 どうやら、バレンタイン用にケーキを作っているようです。それを確認すると、月崎羽純はベッドへと戻りました。サプライズは、ちゃんと驚いてあげなければいけません。
 一方の遠野歌菜の方は、クライマックスです。いや、最初からですが。
 なにしろ、ザッハトルテに、チョコレートムースに、トリュフという、かなり気合いを入れた高いハードルに挑戦しています。
 ザッハトルテは、愛情を込めてとろとろの口溶けに。チョコレートムースには、甘酸っぱいフルーツをトッピング。トリュフは、一口に可愛らしく。
 なんとか完成させますと、綺麗にラッピングしてフィニッシュです。
 後は、キッチンを片づけて痕跡を消すと、月崎羽純に気づかれないようにベッドに戻ります。もうじき朝です。少しでも眠らないと……。
「おはよう」
 いつの間に眠ってしまったのでしょうか。月崎羽純の声で、遠野歌菜は目覚めました。でも、まだ全然寝たりません。
「おはよー。すぐに、朝御飯作るね」
 そう答えると、遠野歌菜は再びキッチンへとむかいました。ほとんど、ベッドに戻ったことが意味を成していません。
「御飯食べたら、デートだよね。それから、後で渡したい物があるんだ」
 とろんとした目をして、遠野歌菜が言いました。
「どうした? 眠そうだな」
「そ、そんなことないよ」
 月崎羽純に聞かれて、あわててごまかしますが、結構限界に来ています。なんとか御飯を食べ終えるも、こっくりこっくりと遠野歌菜が舟をこぎ始めます。
「やれやれ」
 ほどなくテーブルに突っ伏して寝てしまった遠野歌菜を、月崎羽純がお姫様だっこしてベッドへと運びました。そのまま、寝かしつけてしまいます。
「おっと、これをおいとかなくちゃな」
 そうつぶやくと、月崎羽純は遠野歌菜の枕元に小箱をおきました。中には、ピンクダイヤのネックレスが入っています。ちょっと早すぎますが、バレンタインのお返しです。
「さて、じゃあ、チョコレートをいただくとするか……。いや、やっぱり、歌菜が起きてから、目の前で食べた方がいいか……。うーん……」
 でも食べたいと、月崎羽純は変な葛藤に頭を悩ませるのでした。

    ★    ★    ★

「バレンタインデーって、やっぱり華やかなんだなあ」
 テーブルの上の花瓶に生けられた、こんもりという言葉が似合う薔薇の花に、ココ・カンパーニュ(ここ・かんぱーにゅ)がちょっと見とれて言いました。
「ちょっと多すぎたかなあ」
 なぜか、風森 巽(かぜもり・たつみ)が照れくさそうにします。
 おやっと思って、ココ・カンパーニュが宿り樹に果実の店内を見回してみますと、薔薇の花が飾ってあるテーブルはここだけです。ということは、これを用意したのは風森巽なのでしょう。
「欧米だと男性から女性へってのも一般的だって聞いたから、てのは建前で……。あー、うん、たんに我がココさんに贈りたかっただけっていうか、ね」
「んー、まあ、バレンタインデーにチョコレートを贈るってのは、日本とかの風習なんだろ。普通に、恋人たちがプレゼントする日だって思ってたからなあ。っていうか、よくフランス式のバレンタインの贈り物を知ってたよね」
 にこにこしながら、ココ・カンパーニュが薔薇の花を見つめていました。ちなみに、フランスでは、男性から女性に薔薇の花束を贈るようです。
「えっ、はははは、も、もちろん」
 なんだか、風森巽が、ちょっと引きつったように照れ笑いをしました。
「あれは、絶対知らなかったと思いますわあ」
「間違いなく」
「そうなのか?」
 ちょっと離れたデーブルから、二人の様子をうかがっていたチャイ・セイロン(ちゃい・せいろん)ペコ・フラワリー(ぺこ・ふらわりー)ジャワ・ディンブラ(じゃわ・でぃんぶら)が、顔を寄せ合って囁きあいました。
「もちろん、巽がそんなことを知っているわけないでしょう。きっと適当に選んだか、誰かから入れ知恵されたに決まってるもん」
 なぜか、一緒のテーブルにいるティア・ユースティ(てぃあ・ゆーすてぃ)が、突き放すように言いました。
「な、なんていいかげんな。やっぱりここで息の根を……」
「まあまあ、落ち着いて」
 ティア・ユースティーの言葉を聞いて思わず立ちあがろうとするアルディミアク・ミトゥナ(あるでぃみあく・みとぅな)を、アラザルク・ミトゥナが素早く押さえました。
「だって……」
「心配するのはいいが、いいかげん大人しく見守ってやってもいいんじゃないかな」
 ちょっと、諭すように、アラザルク・ミトゥナがアルディミアク・ミトゥナに言いました。
「それはダメだよ。ココおねーちゃんの将来がかかっているんだから、ちゃんと見極めなきゃ」
 すかさず、ティア・ユースティーが、火に油を注ぐような発言をしました。
「あまり、人のことは気にしないし、邪魔もしない」
「ぶー」
 アラザルク・ミトゥナに言われて、珍しくアルディミアク・ミトゥナが頬をふくらませました。
「こば、こばー」
 なぜか、一緒のテーブルにいた小ババ様が、アルディミアク・ミトゥナをちっちゃな手でなでなでして慰めます。
 一方の風森巽とココ・カンパーニュの方は、順調に会話がはずんでいるようです。
「愛してるよ、ココさん」
「ははは、よせやーあ。照れるぜ!」
 唐突に愛を告白して照れる風森巽に、ココ・カンパーニュが照れ隠しのパンチをいつものように浴びせかけました。けれども、いつもは吹っ飛ぶはずが、今回は不壊不動でみごとに受けとめて見せます。
「おっ、レベルアップしてる!?」
 ココ・カンパーニュが、ちょっと驚きます。
「いや、うん、恥かしいのは恥かしいんだけど……ちゃんと伝えられるときに伝えなきゃ、後で悔やんじゃうから」
 微妙に会話がかみ合っていませんが、気にしないことにしましょう。
「お待たせしました」
 そこへ、ミリア・フォレスト(みりあ・ふぉれすと)が、チョコレートケーキを持ってきます。
「できあいで悪いんだけどさあ、ちょっと失敗しちゃって、完成品は、また来年な」
 ココ・カンパーニュが少し照れながら言います。
「いや、そんな……。いえ、来年に大期待します!」
 こちらも真っ赤になりながら、風森巽が言いました。
「では、ココさんがくれたケーキの最初の一口目を……」
「どうぞ召し上がれ」
 長い間がありました。
「最初の一口目を……」
「どうぞ……」
「一口……」
「まったく、しょうがないなあ」
 暗に要求されて、ココ・カンパーニュがケーキをフォークで一口分削り取りました。
「はい、あーん」
「あーん……」
「こばー、ぱくっ!」
 ココ・カンパーニュが差し出したケーキが風森巽の口に到達する前に、突然横から飛んできた小ババ様がパクンとケーキにかぶりつきました。
「あっ!?」
 さすがに、唖然とした風森巽とココ・カンパーニュが固まります。
「ふっ、危ないところでしたわ。もう少しで、ラブコメ病という不治の病に……」
 とっさに小ババ様を投げつけたティア・ユースティーが、ホッとしたように言いました。
「ナイスよ!」
 思わず、それにエールを送ってしまうアルディミアク・ミトゥナでした。