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【ニルヴァーナへの道】奈落の底の底(後編)

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【ニルヴァーナへの道】奈落の底の底(後編)
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第23章 眠れる龍

 谷のような崖の間を降下していく。
 やがて下方から光が溢れ出した。
 谷底にあったのは底ではなく、彼等は、青白い光の海に出る。
 ナラカの底に到達したのだ。
「ついでに、ちょっと寄り道してもいい?」
と、小鳥遊美羽が頼んで、テオフィロスは好きにしろ、と言い、鬼院尋人のコンテナに乗ったハルカの代わりに、ハルカが持っていた名刺を美羽とコハク・ソーロッドが受け取って、先頭を飛ぶ。
 テオフィロスは殿だ。



 とある大きな、山のような丘の上空で、名刺の矢印が真下を向いた。
「ここ?」
 深く美しい森だったが、人の気配は感じられない。
 ただ、テオフィロスの龍だけが落ち着かず、下に降りようとしないでいる。
 特に危険はなさそうだと判断して着陸すると、矢印はくるくる回って消えた。

 コンテナからハルカ達も降りて、周囲を見渡す。
「綺麗な場所なんだがな?」
「誰も居ませんね……」
「おーい! 誰かいないかあ!?」
 その時、ぎし、と足元が揺れて、樹月刀真達ははっと警戒した。
『我が背の上で騒ぐのは誰ぞ』
 声は、頭の中に響いた。
「背の上!?」
『……ああ、そうか、しばし待て』
 声の後、彼等の前にふっと姿を現した者があった。
 子供だ。
 5歳くらいの少年である。
『……何じゃこの姿は。
 お前達の中に、よほど純粋な者がおるのか』
 少年は、自分の姿に不満そうに言って、ハルカ達を見渡し、成程、と呟いた。
『生きた聖域のような者がおるのじゃの。腑に落ちたわ』
「何を言っちょるのかさっぱり解らんのじゃが」
 光臣翔一朗が言う。
 少年は周囲を見渡した。
『ふむ、暫く昼寝をしている間に、我が体はこのようになっておったのじゃな。
 これではお前達に認識もされまい』
 少年は上を見上げ、旋回しているテオフィロスの龍を見る。
『構わぬよ、降りてくるがいい』

「あなたが、名刺の人なのです?」
 ハルカの問いに、少年は、
『名刺?』
と訊き返した。
「オリヴィエ博士に預かったの」
と、美羽が名刺を見せる。
『……こんな物に名を刻んだ憶えはないのじゃがな……?
 ふむ、オリヴィエ……? ああ、あの死に損ないの。
 我が鱗でも持ち帰っていて、それに貼り付けたか?
 ふむ、お前達も、パラミタの者じゃな』
 記憶を掘り起こすように考え込み、独り言を交えながら、それでも納得したように頷く。
「私達、この子の、死んでしまったパートナーを探しに来たの。
 あなたに会えば、会えるってこと?」
『死者に会うことなど、できぬよ』
 少年はあっさりと言った。
「え?」
 美羽達は訊き返す。
「だけど、博士がここに行けっつったんだぜ!?」
 雪国ベアが抗議する。
「というか……そもそも、あなたは誰なんです?」
 呀雷號が訊ねた。
『誰? ふむ、さてな、どう名乗ろうか。
 いや、名など無いのだがな。このナラカにおいては。
 わしはただの、老ドラゴンじゃよ。
 知識の探求にも財宝集めにも飽いて、ここで昼寝をしておる』
「エンシェントドラゴン……」
 テオフィロスが呟いた。
『そう呼ぶ者もおるな。
 ふむ、クロノスの子供達、などと称されたこともある。
 好きに呼ぶがよいよ』
「この森は、あなたの本体ですか?」
 コハクが訊ねる。
『殆どナラカに埋まっておるのう。
 今は背の先が地表に出ておるか。
 動くのも面倒じゃし、この姿でも構うまい?』

「……死者には会えない、と、言われたが」
 ライオルド・ディオンが、一番最初に話を戻した。
 それが、彼の、最も知りたいことだ。
「ナラカは、死者の国なのでしょう。
 それともこの、ナラカの底は、また別の世界なのか?」
『……お前達の認識は、微妙に間違っておるようじゃな。
 厳密には、此処は、違う。
 お前達がナラカと呼んでいる、上の世界は、ただの薄い表皮のようなもの。
 此処こそがナラカ。
 そして世界そのもの』
「死者の国ではない、と?」
『それも一部ではあろうな。
 生と死。始まりと終わり。有と無。真理。世界。全て。アカシックレコード。
 好きなように』
「なら、知りたいことが全て知れてもいいよね?
 なのに、死者には会えないのかい?」
 黒崎天音の問いに、少年はくつくつと笑った。
『そうじゃよ。
 それが地上……パラミタの上に生きる者の真実じゃ。
 死を軽く見てはならぬ。
 死は、決してやり直すことの出来ぬ、永遠の離別じゃ。
 どんなに後悔しようとも取り返しのつかない、
 残される者の心に、抜けることの無く刺さり続ける杭』

「……ですが!」
 ソア・ウェンボリスが言った。
「ですが、ハルカさんは……生き返ったのです。
 ハルカさんのパートナーは、“核”となって、ハルカさんが生き返る為の礎となりました。
 もしかしたら、アナテースさんは、その時からずっと、ハルカさんと共にあるのではないですか?
 オリヴィエ博士は、ドラゴンさんなら、二人を会わせてあげられると思って、ここに導いてくれたのではないでしょうか」
『まあ、そうじゃろうの』
 少年は、あっさり頷いた。
「え?」
「おいっ」
 ぽかんとするソアの横で、ベアが突っ込む。
「できるんか?」
 訊ねたのは翔一朗だ。
『既に殆ど同化しておるが、まあ、ここはナラカじゃしの。
 少しの間くらいなら可能じゃろう』
「なら、頼むわ。
 出来ることなら、何でもするけえ」
 少年は、肩を竦めてハルカを手招く。
『別に何もいらんよ。
 聖域の娘、此処に来るがいい』
「……できないこと、じゃなかったの?」
 ハルカの為には喜ばしいことと思うも、あまりに簡単に言うことが変わっているので、尋人は首を傾げた。
 何か裏があるのではとは、考えたくはないが。
『わしは、あるべき真理を語ったに過ぎんよ。
 危険を冒して地上から、折角此処まで来たのじゃ。
 会えるものなら会って行けばよいじゃろ』
「……ハルカは、アナさんに会っても、いいのです?」
 不安げに訊ねたハルカに、少年はふと笑う。
 その額を、とんと突ついた。

 ふわっ、と、ハルカの体から、分離するように現れた人影。
 半ば空気に薄れているその姿は、20歳を少し過ぎたくらいの、長い金髪の娘だった。
 アナテースは、優しく微笑んで、ハルカの頬に手をやる。
「……アナさん」
 アナテースの唇が、何かの言葉を紡いだ。
 そして、すうっ、と、その姿が消える。
 ハルカの中に、吸い込まれるように。
 ほんの、数瞬のことだった。

「……笑っていましたね。とても、幸せそうに」
 ソアが、立ち竦むハルカに、そっと寄り添う。
「……はいなのです」
 呆けたように、暫くアナテースの消えた先を見つめていたハルカは、頷き、微笑んだ。
 そして、誰もが気付いていた。
 アナテースの言葉、彼女は、ハルカの名を呼んだのだ。
 その一言に、全ての思いを込めて。


「ついでに訊くけど、聖域の娘、って何だい?」
 天音が訊ねた。
『何じゃ、知らずに連れておるのか?
 生まれつきかのう、それともその純真さのせいか?
 想像力を漏らさない精神構造をしているようじゃの。
 思うものを手当たり次第に形にするこのナラカで、悪しきものを出現させず、害ある“具現物”は打ち消す力を持っている。
 その娘には、悪しきものは近付くまい。
 そして周りにはいつも、良きものが集っておろう』
 ソアや美羽達は顔を見合わせた。
 亀裂の中に落ちてからの、色々な心当たりを思い出す。
 刀真だけは、その言葉に、僅かに顔を曇らせた。
「……それは……少し、違っているような、気がします」
 ハルカの周りにいる自分はだが、「良きもの」ではない、と、刀真は思う。
 少年は、その呟きを耳聡く聞きとって笑った。
『己が真実を知るのは己のみじゃろうの。
 だが評価するのは他の者よ。
 お前のその姿を好み、必要とする者がおるということよな。
 さあ、そろそろ行くがいい。
 お前達の仲間達が、この、真実の世界に到達しようとしておるわ』
 刀真達は上を見上げる。
 いよいよ、巨大良雄が地表を割ったか。
 既にあれから、1時間を遥かに過ぎているような気がするが。

「――ね、ドージェを知ってる?」
 美羽が訊ねた。少年は頷く。
『ああ、前にパラミタから落ちて来た者達じゃな。
 暫く騒々しかったのう』
「何処にいるのです?」
 ライオルドが訊ねると、少年はふむ、とテオフィロスの龍を見た。
『そうじゃの、ここからお前の龍で2日と半日ほど行ったところじゃろうか。向こうじゃな』
 少年が指差した方角を、ライオルドが確認する。――南西。

「君は、彼に何も訊かなくていいのかい?」
 天音が、ずっと黙ったまま、会話に加わらず、ただ話を聞いていたテオフィロスに囁いた。
 知りたいことがある、と言って、彼はこの探索に加わったという話だが。
 だが、テオフィロスは首を横に振って目を伏せた。
「それを訊ねてはならないのだと知った」
 何らかの形で決着させ、思いを晴らしてはならない。
 この後悔は、生涯抱えて行くべきものなのだ――
「なら、僕が訊くけど」
 天音は少年に、もうひとつ訊ねていいかな、と言った。
「結局死んだ人の魂って何処に行くのかな?
 地球からナラカを経てパラミタに転生して、パラミタで死んだらまた地球に行くのかい?」
『うむ、それも真実じゃな』
「微妙に答えになってないような。つまり別の道もあるのかい?」
『うむ、そういうこともまた、あろうよ』
「はっきりしろよ……」
 尋人が呆れる。
 ふふ、と少年は笑った。
『それに関しては、わしは答えぬ。
 あらゆる真実は、求めればいつか得られるもの。
 しかし死後のことは、死後の楽しみとせよ。
 なに、そう遠い未来のことではなかろう』
「ちぇっ、ケチ」
『死ぬ時の楽しみを、ひとつくらい残しておくのじゃな。
 全てを知り得ても、つまらぬだけよ』

「……ならば、別の真実を欲したい」
 テオフィロスが口を開いた。
「この世界は、我々の世界を、滅亡から救うことはできるだろうか」
 少年は、笑みを深めた。
『……成程、パラミタは今、ナラカに沈み、根源の世界に還ろうとしておるのじゃな。
 確かにナラカを上手く使えば、パラミタを救うことはできるじゃろう。
 しかし、この世界を扱える者などおるまいよ。
 お前達は、既にパラミタを救う術を模索していて、目指すべきものも心得ている。
 その道を、過たず、進むがいい』
「……ニルヴァーナ、か……」
『パラミタは良い世界じゃ。
 昼寝に飽いたら、その内訪ねてみたいものよな』
 静かに笑って、少年の姿が消える。
 足元が僅かに揺らめいて、それっきり、周囲は元の、静かな森に戻った。

「――ほいじゃあ、いぬろうや」
 翔一朗が、ほっと息を吐く。
 テオフィロスが、連絡の為の携帯を取り出した。