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68


 飛鳥 桜(あすか・さくら)飛鳥 菊(あすか・きく)が物心ついた時、既に母はもう居なかった。
 パイロットの父に尋ねると、母さんは病気で亡くなったんだと悲しそうに微笑んで。
 その後、父も「すぐ帰ってくるからな」と言って仕事に出向き、……そのまま永遠に帰ってくることはなかった。
 写真でしか見たことのないお母さん。
 突然の別れに、涙を流すこともできなかったお父さん。
 今日、二人に逢えると思うと緊張して、上手く息が出来なかった。
「……姉ちゃん、僕、どきどきしてきた……」
「うるせえ、黙ってろ」
 菊に弱音を吐こうとしたが、乱暴な言葉で一蹴された。
 なんだよー、と文句の一つも言ってやろうと思ったけれど、菊の顔が青ざめていたから、桜は何も言えなくなった。


 桜に構っている余裕なんて、菊にはなかった。
 ――父さんと母さんに、会える。
 それはとても喜ばしいことだ。嬉しいことだ。
 今まで一緒に居られなかった時間を過ごせると思うと、それだけで涙腺が緩んでしまうほど。
 だけど、同時にひどく恐れていた。両親に会うことを、だ。
 自分自身を、誰かを守れるくらい強くなりたい一心で、菊はマフィアとなった。
 言ってしまえば、まっとうな道に背を向けたのだ。
 ――そんな俺を、父さんは、母さんは、どう思うんだ?
 良い顔なんて、してもらえるはずないだろう。
 どうしようもない馬鹿娘だと、罵られるかもしれない。
 それならいい。
 それだけならいいんだ。
 ――だからお願い、見捨てないで……。
 目をぎゅっと閉じた時、
「桜ちゃん?」
 知らない女性の声が聞こえた。
 え、と素っ頓狂な声を桜が上げ、声のした方に顔を向けた。菊もそれに倣う。
 そこに居たのは、ゆるくウェーブのかかった薄茶色の髪に花の飾りを付けた二十代半ばほどの女性。目の色は金で、桜や菊に似た面立ちである。
 女性は桜の方へ近付いて、
「私のこと、覚えてる……? 死んだ時の姿だから、分かんないかな……?」
 おずおずと、だけど期待に弾んだ声で話しかける。
「もしかして……お母さん……?」
 桜が、恐る恐る尋ねた。女性が大きく頷く。
「うん、お母さん、だよ……!」
 写真で見るよりずっと愛らしい顔立ちの彼女が、泣きそうな笑顔になりながら桜を抱き締めた。それから菊の方を見る。思わず菊は目を背けた。真っ直ぐ見ていられなかったからだ。
「貴方、菊、ちゃん……? 菊ちゃんなの?」
「…………」
 問いにも答えられない。
「そうだよ、姉ちゃんだよ!」
 代わりに桜が答えた。「やっぱり!」と母が――撫子が嬉しそうな声を上げる。だけど菊は俯いて、撫子が傍に寄って抱き締めてくれても動くことができなかった。
「良かった……!」
 開口一番に撫子が言う。何が、と僅かに顔を上げた。
「お父さんに、貴方が行方不明になったって聞いたから……本当に良かった、無事で……!」
「……っ」
 心から嬉しそうにしてくれる母に、胸を締め付けられるような気持ちになる。
「桜……? 桜じゃないか!」
 ふとして、聞き覚えのある声。父、颯の声だ。
「お前……でかくなったなぁ!」
「お父さんは何にもかわってないねっ」
 颯の言葉に桜が返す。返す言葉と同時に、桜の目からぽろりと涙が零れた。
「あ、あれ……泣かないように気をつけてたのにな。か、感極まっちゃったみたいっ。ちょっと僕のことはほっといていいからさっ、姉ちゃんと話しててよ!」
 ごしごしと目をこすりながら、桜が菊を指差す。ので、颯の視線が菊に向いた。
「お前……菊か?」
 大股で菊の傍まで歩み寄り。
「良かった……!!」
 菊を抱き締める撫子ごと、菊をぎゅっと抱き締めた。
「お前、無事だったんだな……! 良かったぁ……ずっと行方不明だったから……」
 今にも泣き出しそうな颯の声。こんな声を聞くのは初めてだった。だって家ではいつも笑っていたし、大雑把で豪放で豪快で、正義感が強くて熱血漢で、豪放磊落な人で。
 ……その人が、こんな風に抱き締めてくれている。
「俺、ナラカに逝った時も捜しまわったんだよ。居ませんように、居ませんようにって願いながらさ。……良かった、本当に良かった。ここに居てくれて、本当に……っ」
「っ……父さん……」
 これ以上ないほどの愛情を感じ、これほどまでに愛してくれている人達に隠しごとをしている自分が恥ずかしくなって。
 菊は、二人を引きはがす。
「俺……っ、俺、二人に言わなきゃいけないことがあるんだ……っ!」
 やっとのことで、それだけ言った。
 撫子の、颯の目が、菊を見る。
「…………っ」
 『マフィアになった』。
 それだけでいいはずなのに、言葉が出てこない。言おうとしては、ひゅぅっと細く空気の音に変わるだけだ。
 なんで躊躇ってるんだよ、と心の中で自分を怒鳴りつけた。
 今言わないと、もう会えないかもしれないのに。
 言わなきゃいけないことなのに。
「大丈夫だ」
 言葉に詰まっていると、颯の大きな手が菊の頭を撫でた。
「お前が何であろうと、俺たちはお前を信じてる。お前は俺たちの娘だからな」
 な、と颯が撫子を見た。柔らかな笑みを浮かべたままで、撫子が頷く。
「でも、無茶だけはしないで。貴方はひとりじゃないの。私たち家族、皆が居るわ。どんなことになっても、信じているわ」
 再びぎゅっと抱き締められて、頭の中が真っ白になった。
「何で……言わせてくれないんだよ……」
 分かってるようなこと言って。
 大丈夫だとか、信じてるとか、そんな言葉だけで。
 ――なのになんで、こんな優しい気持ちで一杯なんだよ……。
 ぽろり、涙が零れる。乱暴に拭おうとする前に、
「あれ? 姉ちゃん、何で泣いてるの?」
 桜に見られた。
「っ泣いてねーよ! 泣いてねーからな!」
 はいはい、と笑って桜が菊の傍に寄る。
「……姉ちゃん。隠しごと、僕ならいつでも聞けるよ。だっていつでも姉ちゃんの傍にいるからさ」
「……ばーか。お前みたいな馬鹿妹に軽々しく言えるかよ」
「うわっひっどいなー。僕たち姉妹じゃない」
「ふん。……まあ、お前が話すに値するような馬鹿じゃない奴になったら、話すよ」
 ――だって、家族だから、な。
 心の中でだけそう言った。桜が、うん、と頷く。
「じゃ! お祭り行こうか!」
 それから提案をひとつ。
「祭りぃ?」
「うん、お盆祭りだよ。えへへ〜、家族みんなで行くの、ずっと夢だったんだ!」
 撫子と颯の手を取って、桜が無邪気に笑った。
「だから、今日は凄く嬉しいんだぞっ!」
「おー? じゃあ久々に射的で勝負すっか、桜! 負けねえぞー!」
「勝負だな!? ははっ、ヒーローに負けはない! だぞっ☆」


 祭り会場で。
 射的を楽しみがてら、
「で、お前パートナーはどんな奴らなんだよ」
「んー? 僕のパートナー? 九人居るから長くなっちゃうよ」
「え゛っ」
 他愛もない話をして、驚きのあまり颯が一発当て損ねたり。
「ところで菊ちゃん、もう好きな人は出来た?」
「んぐっ!!?」
 撫子の不意打ちな問いに、菊が食べていたかき氷のスプーンを喉に突き刺して盛大に噎せたり。
「あら、その反応。居るのね? どんな方かしら?」
「……あー、う。……うん、鈍感で釣り馬鹿だけど……優しいんだ、あいつ」
「いいなぁ、恋。素敵なひとなんだろうね。外人さん?」
「や、守護天使ってやつで……」
「え、天使なの!? 御伽噺みたい……!」
「ちょ、母さん? 守護天使ってのはパラミタに居るひとつの種族であって、別に母さんが思い描いてるような少女漫画的展開はないと思うぞ?」
「あると信じてるから♪」
「変なところで期待しないでくれよ!」
 こうして、家族団欒の時を過ごしていると。
 ひゅるるる、と音が空に昇り、火の花が咲いた。
「花火……もう、時間みたいね」
 呟いて、撫子が立ち上がる。
「悪いな、二人とも! 俺たちそろそろ帰らねーといけないみたいだ」
 颯も同じく、だ。
「え……もう帰っちゃうのかい? 嫌だー! 買えるなんて許さないんだぞ!」
 駄々をこねたのは桜である。撫子に、颯にしがみついていやいやと首を横に振る。
「も、もう行くのか……!?」
 菊だって平静ではいられなかった。思わず声を荒げている。
「嫌だよ……帰らないでくれよ! やっと逢えたんじゃないか……っ!」
 我慢できずに桜が泣いた。
「泣くな馬鹿妹っ」
 菊が叱責する。菊の目にも涙が浮かんでいた。
「あらあら……涙は駄目よ? 女の子は笑顔が一番なんだから!」
 二人の頭を撫子が撫でる。それからぎゅっと抱き締めた。
「……私もね、別れるのが寂しくて悲しい。私は病気で早く死んじゃったから……二人とあまり思い出が無い。
 だから……今日のこと、絶対に忘れない」
「俺な。今日は生きてきた中で一番幸せな日だった!」
 そんなこと。
 そんなこと言われたら、泣くなと言う方が無理じゃないか。
「……じゃあ、皆で写真撮ろうよ。ちゃんと残るか、わかんないけど……」
 ぐしぐしと涙を擦りながら、桜が提案する。
「……お前にしては中々な提案じゃねーか」
 同じく、涙を擦りながら菊。
「写真家ぁ……いいわね、やってみよ? 映らなかったら、ごめんだけど」
「はっはっは! 映ったら心霊写真だなこれ! テレビに投稿できるぞー」
「しないよ、お父さんの馬鹿! あ、すみませーん! 写真撮影お願いしたいんですけどー!」
 道行く人を呼び止めて、はいチーズで写真をぱしゃり。
「……きっと、また逢えるよね?」
 カメラを手に、桜が言った。
「おう。いつかまた逢える。きっとだ! だから、また逢おう!」
 颯が大きく頷き、桜の背をばしっと叩いた。
「菊ちゃん、桜ちゃんを守ってあげてね? 桜ちゃん、菊ちゃんを支えてあげてね?
 愛してるわ、二人とも……」
 撫子は、最後まで二人を抱き締めて囁いて。
「それじゃあ、またね」
「Non vedere l’ora di」
 桜が、菊が、それぞれまたねと。
 去りゆく両親の背に、いつまでも手を振った。