リアクション
1 夕方に指しかかろうという頃合いである。 「ふんふん〜♪ ふん〜♪」 きゅっきゅっ、きゅっきゅっ。 と。 メイシュロットのとある部屋のなかで、土御門 雲雀(つちみかど・ひばり)がブロンズ像を綺麗に磨いていた。 「うん、綺麗になった」 まるで鏡のように見事に磨かれたブロンズ像を前にして、雲雀は満足そうにうなずいた。 これは、ここしばらくの彼女の日課でもあった。昼間の間は、こうしてブロンズ像を磨いたり、それから部屋の掃除などに精を出す。 バルバトスの言いなりになっているようで、あまり良い気分ではないが、それもこの部屋に囚われている南カナン領主の妹――エンヘドゥ・ニヌア(えんへどぅ・にぬあ)のためだと思えば、多少はマシになるというものだった。 (そうです。自分はバルバトスのためではなく、エンヘドゥさんのために働いてるんです!) そう自分に言い聞かせて、彼女は床をモップできゅっきゅと磨いた。 そのうち、太陽の陽の光はないものの、宵闇が顔をのぞかせる時間になった。 すると。 背後からまばゆい光が瞬きはじめて、雲雀は振り返った。 そこにあったのは先程のブロンズ像。光はブロンズ像から発せられているようだった。まるでブロンズ像のなかの生命がそのまま光へと転じたような。そんな溢れんばかりの力強さを感じさせて、ブロンズ像はやがて光のもと――ひとりの女性へと姿を変えた。 「エンヘドゥさん……」 「……こんばんは、雲雀さん」 いつものように、彼女は雲雀に微笑んで挨拶をした。 「はい、こんばんは」 そしてまたいつものように、雲雀も彼女に挨拶を返した。 バルバトスに囚えられてから――いや、アムトーシスでアムドゥスキアスに囚えられていたその頃から、ずっとこうして、雲雀とエンヘドゥは一日を過ごしていた。すでに、長年連れ添った姫と付き人のように、二人の間には数多い言葉など必要はなかった。 「いつものことですが……起きたら夜のままというのは不思議な気分ですね」 「そうですね。でも、ザナドゥは太陽はないですから、昼間も夜も大して変わらないかもしれません」 「ふふ、そうかもしれませんね」 大したことのない会話。しかし、そんな会話が、いまのエンヘドゥにはかけがえのないものだった。 (人の上に立つ立場のある人は皆、そうだ。ほんとの感情を表に出せない) 雲雀は知っている。エンヘドゥの心もまた、悲しみや苦しみをしまい込んで、気丈に振る舞うことで戦っているのだと。 (団長も…………そう、だったな……) シャンバラ教導団団長のことを思い出し、雲雀は静かに物思いにふけた。 (絶対に……帰ろう。……皆で) と、カチャ――という音を立てて、紅茶のカップが目の前のテーブルに置かれた。 「え……?」 「お疲れでしょう? 飲んでください」 「そ、そんな、悪いですよ! 自分は、エンヘドゥさんの世話係で……っ!」 「わたくしも、自分のものは用意しましたので」 そう言って、エンヘドゥは有無を言わさず雲雀を席に座らせた。 茶葉はバルバトスが用意していたものだが、淹れたのはエンンヘドゥ自身の技術だ。 暖かな紅茶を口にして、雲雀は目を見開いた。 「美味しい……」 そうしてつぶやいた彼女に、嬉しそうな笑みを浮かべてエンへドゥは口を開いた。 「わたくしもあなたも、同じですよ。雲雀さん」 「え……?」 「泣きたいときは、泣きましょう。笑いたいときは、笑いましょう。お互いに……ね?」 母親のような微笑で、彼女は首を軽くかしげるように言った。 「そして一緒に……帰りましょう」 その言葉は、まるで自分のことを包み込んでくれるようで、雲雀はしばらく彼女の瞳に引きこまれそうになっていた。 「…………はい」 紅茶の優しい味を噛み締めながら、雲雀はエンヘドゥと約束を交わした。 2 静かで、そして冷たい部屋だった。 決して寒い季節ではないというのに、なぜかその部屋だけは、氷のように冷たい空気が張り詰めていた。 そして、そんな部屋の奥で、魔神 バルバトス(まじん・ばるばとす)は玉座に腰を下ろしていた。 と――彼女の視界で赤い魔方陣が生まれたのはその時だった。 血のように赤い魔方陣だった。その魔方陣が複雑な文様が描き切ると、突如、その中心で激しい稲光とともに雷が降り注いだ。雷光だけではなく、大地を揺るがすような轟音さえも具現化した雷。 それが円の中心を叩いたその瞬間、そこで片膝をついていたのはひとりの女だった。 「カグラ……何か用なの〜……?」 気だるそうな声をあげて、バルバトスは女の名を呼んだ。 エンヘドゥの世話係をしている雲雀と契約を結んでいる魔導書、はぐれ魔導書 『不滅の雷』(はぐれまどうしょ・ふめつのいかずち)。バルバトスに魂を捧げた彼女は、別名カグラと呼ばれていた。 「お忙しいところを失礼致します。実は、バルバトス様にぜひともお願いしたいことがございまして」 「な〜に〜」 「ナナ様の件ですわ」 カグラがその名を口にした瞬間、一瞬のことだが、わずかにバルバトスの眉は吊り上がった。 「ナナ様はエンヘドゥにご執心なご様子。それにあちらにはアムドゥスキアス様もおられますわ。疑いを持つわけではないですけど…………様子を見に行ってもかまいませんでしょうか?」 「…………」 バルバトスの視線が、鋭い刃物のようにカグラを射ぬいた。 彼女自身、様々な可能性を考慮している。カグラの言わんとすることに気づいていないわけはない。だが、その可能性を考えることは、彼女の絶対的な自信やプライドが許さなかった。 そしてカグラは、それを理解した上で自分に進言してきている。 「……いいわよ〜。その代わり……ちゃ〜んと、始末はつけるのよ〜」 「分かりましたわ」 カグラは恭しく頭を下げると、再び降り注いだ雷に打たれて、その姿を消した。すでに、魔方陣も消え去っている。自分が魂を奪ったおかげで与えた魔力とはいえ、そんなカグラの姿を見ると、バルバトスはどこかぞくりとするものがあった。 (魔族……ね) バルバトスは冷たい部屋のなかで瞼を閉じた。 まるで来るべきその時まで眠りにつくように――彼女は瞑想に落ちたのだった。 |
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