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第1章 それぞれの恋愛事情と怒りの狼 9

「ベルったら、私を置いてどこに行っちゃったの……」
 途方にくれる娘がいた。
 一見すればはかなげで大人っぽさをかもし出しているが、表情はどこか子供っぽさを残す娘だ。緩やかに腰まで落ちる黒髪の艶っぽさは、東洋特有の美でもある。まして、体のラインを見事に浮き立たせる青薔薇で染めたワンピースは、見る者の目を引いてならなかった。
「うう……こっちに来てから一人になるってほとんどなかったけど……結構さびしいのね」
 師王 アスカ(しおう・あすか)にとって、パラミタは異国のような地であるにも拘らず、ある意味で不安とは別離にあるところでもあった。なぜなら、パラミタに来る地球人は、いずれもパートナーというかけがえのない存在を得るからである。その関係性は個々特有のものだろうが、少なくともアスカにとってそれは、常に傍にいる誰かであった。
「やば……泣きそう」
 よりべない思いを抱くと、胸の奥から切なさが襲ってきた。
 自分でも気づかなかったが、どうやら思っていた以上に心は弱く、脆いものらしい。普段は明るく天真爛漫に振舞う彼女であっても、一人で喧騒に包まれるパーティ会場に残されるというのは、耐え難い不安に見舞われるものだった。
 どうしたらいいだろうか? これからのことを思案するアスカ。すると、そんな彼女に、一人の男性が近づいてきた。

 蒼灯 鴉(そうひ・からす)は焦っていた。苛立ちと混ざる切迫感が、彼を駆り立てる。
「くそ、あの悪魔! あいつもどこに行きやがった……」
 鴉は舌打ちをしてキョロキョロを辺りを見回し、会場にくまなく視線を巡らせた。細く、鋭い青色の瞳が、一人の女を探して必死になる。まして原因が原因だけに、苛立ちは募るばかりだった。
「…………いたっ!」
 ようやく、視界が目的の娘――師王アスカを捉えた。だが、目的を達成したはずの鴉の表情は、喜びからすぐに血相を変えた。
「何で男と……あいつ、泣いてるのか!?」
 その瞬間、鴉は自分でも気づかぬうちに駆け出していた。
 涙を浮かべるアスカに、なにやら詰め寄るようにして声をかけている男。もはや、その状況に弁論はいらぬ。鴉の顔は怒りに歪み、彼の姿にアスカが気づくよりも早く、脚撃が男の頭を叩き飛ばしていた。
「こいつに触るなっ、腐れ外道!」
「鴉!?」
 男は喘ぎながらもなんとか起き上がり、何か言い返そうと口を開いたが、鴉の殺気に満ちた目がそれを遮った。身震いするほどの刃物の瞳に、男は逃げるように退散した。
「ど、どうして……」
「バカかてめぇは! あんな男に声かけられてっ!」
「なっ、怒鳴らないでよ〜」
 怒りに任せて怒鳴り散らす鴉に、アスカは面倒臭そうな顔をしていたが、その後の彼の言葉はまずかった。
「ジェイダスといい、さっきのやつといい、てめえの男の趣味はずいぶん悪いようだな!」
「は…? 何ですって……」
 血管の切れるような音とともに、アスカの顔が歪んだ。まずい……鴉が己の言葉を悔やんだときには、既に遅かった。
「ジェイダス様を……馬鹿にするな〜!!」
 怒りの黒き波動がアスカを包み込むと、体の内に秘められた鬼の力が目覚める。頭からは四本の角を生やし、身長を170センチ近くまで伸ばして、アスカは鴉を睨みつけた。
「鴉の馬鹿! 鬼! のっぽ! ツンデレ!」
「んだとぉっ……このチビ、絵オタク! ていうか、鬼はてめぇのほうだろうがっ!」
「チビとか絵オタクは余計よ〜!」
 鬼神力を発揮したのは恐ろしいものの、馬鹿らしい二人の応酬は続いた。とかく、悪口とぼかすか叩き合う子供の喧嘩のようなもの。次第にそれは、お互いに恋愛にまで首を突っ込む始末だった。
「大体、人にケチをつけるなら鴉はどうなのよ!」
「ぐ……」
 弱い所を突かれたのか、鴉は言葉を詰まらせた。
「どうせいたとしても告白なんてする勇気もない人が、偉そうに言わないでよ!」
 アスカは言い返せない鴉に追い討ちをかけるべく言い放った。
 だが、それにはさすがに鴉も我慢の限界である。なにせ、自分が言い返せない理由が目の前にあるのだ。それを知らないくせにそこまで言うとは……。頭の中で、彼の堪忍袋の尾が切れた。
「いいぜ……教えてやるよ。その代わり……てめえも逃げんなよ?」
「は? なに言って――ぎゃっ! 何する……っ!?」
 言うが早いか、鴉はアスカの見た目より華奢な体を引き寄せた。そしてふいに――彼女の唇を奪った。
「ん……!」
 決して優しくない、無理やりなキス。それでも、強く、甘く、鴉は彼女のとろけるような唇を味わった。目を瞑っているため、お互いの表情は窺えない。
 やがて、抵抗を無視して続けたキスが終わったとき、アスカは真っ赤に染まった顔で羞恥と酸欠と胸の奥の激しい鼓動と……色々なものが入り混じったどうしようもない感情に翻弄され、そして――
「きゅうううぅぅ」
 見事に、倒れた。

「あのー、すみません、ここに長い黒髪の女性は……うわっ!」
 鴉と同じくアスカを探して会場を歩いていたルーツ・アトマイス(るーつ・あとまいす)は、声をかけた赤髪の娘がギロリと自分を睨み、まして突然拳をたたき出してきたことに驚きの声をあげた。
「な、何を……」
 かろうじて避けた彼に、娘は苛立ったように呟いた。
「あんたもナンパ? どいつもこいつも、ったく男って懲りないのかしら……!」
「は? ナンパ?? ちっ、違う! だから手を下ろしてくれ!!」
 必死で説明するルーツが信じてもらえたのは、ひとえに彼の優しげな顔立ちと真摯かつ誠実な態度の賜物だろう。それでも娘がどこか不審げな顔を崩さないのは、きっと彼女になにかあったからに違いない。
 名を聞くところによると、彼女はリーズ・クオルヴェルというらしい。ルーツはどこかで聞いたような名前だと思い返しつつ、これまでの彼女の事情を聞いた。
「な、ナンパばかりされてたんですか……? 大変でしたね」
「これだから恋愛とか男って嫌いよ。父さんはそれでも私に恋を勧めてくるけどね」
「そうなのか……? う〜ん、我も恋というものは分からないが、仲間が言うには素敵なものらしい。でも、リーズは親に愛されているんだな……うらやましいよ」
 うすく柔らかく微笑んだルーツを、リーズは驚いたような顔で見つめていた。
「どうした?」
「いや……愛されてて羨ましい、か。そんな風に考えたことなかったな」
 リーズは甘く微笑んだ。それは、それまでの勝気な彼女とは違った女性らしい微笑みだった。
「そうだ、良かったら我と一緒にアスカを探してくれないか?」
「別に……構わないけど。一応うちの集落のパーティだからね。危険な目にあってても困るし」
「我と一緒ならリーズはナンパされない、我はアスカを探せる、一石二鳥だ」
 嬉しそうな笑顔で、ルーツは彼女の手を握った。それは純真な彼にとって当たり前の行動だったが、リーズは思わず顔を赤くした。
「ん? リーズは剣を嗜んでいるんだな、握ってみるとよく分かる。大切な人を護る手、綺麗な手だ。……リーズ、顔、赤いぞ?」
「し、知らないわよっ! なにいつまで握ってるのっ」
 急に怒り出して、赤髪の獣人はルーツの手を振り払った。その怒っている理由がルーツにはよく分からなかった。

 オルベール・ルシフェリア(おるべーる・るしふぇりあ)は、一部始終を見ていた。
「何やってるのあの子、しかも何でバカラスがここに!?」
 そもそも、アスカを一人っきりにしたのは彼女であるが、鴉が来ているとは予想外であった。考えられる原因はただ一つ……ルーツが彼を連れてきたということ。
「まったく、ルーツちゃんも余計なことを……お説教喰らう前に退散〜……って、え?」
 ため息をつくベルは、ルーツたちに見つかる前にその場を立ち去ろうとした。しかし、その足は驚きの光景を目の当たりにしてはたと止まる。アスカに声をかけていたナンパな男を退けた鴉は、アスカとの口論のあとに彼女の唇を奪ったのだ。
「あ、あの馬鹿鬼……意外に上手いわね。あ、それに赤くなったアスカも可愛いわ〜」
 ばたんと倒れたアスカを抱いて、ベンチで座る二人。
 ここまで見てしまったら、もはや自棄である。ベルは結果まで見届けようと、物陰からそっと二人を見守った。
 やがて、もぞっと起き出したアスカ。彼女は先ほどのキスを思い出して再び顔を真っ赤にすると、その場を離れようとする。だが、彼女の腕を掴んで、鴉がそれを引き止めた。
「さっきのこと……冗談じゃねぇぞ」
「…………」
 粗暴な物言いではあるが普段の彼とは違った真摯な響きに、アスカも立ち止まって彼を見つめた。だが、彼女はどうしていいか分からないといった顔だった。鴉の真剣な思いも分かったのか、どこか、苦痛に痛むような顔になって俯く。
 鴉はため息をついて、アスカに同調するように言った。
「今はま……答え出すの難しいよな。お前の気が向いたときにでも、教えてくれよ」
「鴉……」
 優しく微笑んだ鴉に、アスカも同じように微笑を浮かべた。
「ありがとう、鴉……」
「悪いがここまでしたんだ。全力で落とすつもりだから覚悟しろよ?」
 アスカを抱きしめて、鴉は不敵にささやいた。それに、自然とアスカはくすっと声をこぼした。聞こえるか聞こえないかの声で、そっと彼女のつぶやいた言葉は――きっと、誰にも届かないもので、自分の中にだけ、それだけで十分なものだったに違いない。
「うーん、まさかこんな展開になるとは……それにしてもアスカってば、意外とバカラスとお似合い……?」
「まったく、あなたにも困ったものだな」
 ビクゥっ! と、震え上がったベルがそっと振り返った。そこには、呆れた顔で自分を見下ろすルーツ・アトマイスが立っていた。
「あ、あら〜、ルーツちゃん。ご、ご機嫌いかが?」
「機嫌ならとても好調だ。まったく、毎度のことながら面倒ごとばかりを起こして……どうやら鴉と合流したようだから良かったものを、一人だと何が起こってたかわかったものじゃないぞ。あれでも女性なのだから」
「だ、大丈夫よ〜、アスカちゃんってとっても強いし……」
「……そっちも心配も含めてだ」
 ため息をつくルーツに、誤魔化そうとする笑みを浮かべるベル。
 色々と言いたいことはたくさんあるが、今回はある意味で結果オーライのようだ。ルーツは鴉とアスカの様子を眺めてそう思った。
 そういえば……ベルを見つけたときに早々に別れを告げて去ったリーズはどこに行ったのだろうか? 鴉に抱かれるアスカではないが、いつか彼女にもそんな人物が出来たら良いと、ルーツは静かに願った。