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●The Memory Remains


 夜桜が感傷的な気持ちを呼び起こすのはグレン・アディール(ぐれん・あでぃーる)にとっても同じだ。
「…………」
 見上げた頭上に桜を見いだし、彼はようやく、空京大の敷地にいることを知った。
 あてもなく彷徨い歩いていたのだ。空大に来たのはまったくの偶然である。
 いつしか彼は賑やかな場所から離れ、少し前まで博季・アシュリングたちがいた木の下に座り込んでいた。
 無論、供えられた皿とコップはもう博季が持ち帰っているため何もない。
 自分のいる場所がわかったせいか、もう一度、グレンは自分の過去――出逢ってきたクランジたちのことを回想した。

 思い出すのは、似合っていない眼鏡と白衣姿の少年の様な少女の、綺麗な瞳と浴衣姿。
 ……クランジΦ(ファイ)、あるいは、ファイス・G・クルーン。
 
 思い出すのは、白い肌とは対照的に全身黒い格好をした少女の、心の痛みを叫び泣いていた顔。
 ……クランジΟ(オミクロン)。

 思い出すのは、ピンクに染めた髪と、蜘蛛型機械になる以前の姿を見た事がない少女から受けた傷の痛み。
 ……クランジΞ(クシー)。

 思い出すのは、本当の姿を見る事が叶わなかった少女の、自分の甘さを的確に突く厳しい言葉。
 ……クランジΚ(カッパ)。

 思い出すのは、二度目を生を受けた心は二人で身体は一つの少女の、決して見失ってはいけなかった後ろ姿。
 ……クランジΟΞ(オングロンクス)、あるいは大黒美空。

 そのいずれも死んでしまった。二度と逢うことは叶わないだろう。
 もう、自分の無力さに心を痛めることすら難しい。グレンの心は死んでしまったに等しい。
「ちっ、誰かいやがんぞ」
 グレンの耳を言葉が通り抜けていった。
 酔漢である。どこの学校の者でもなさそうだ。懇親会の只酒を目当てに紛れ込んだ連中と思われた。五六人はあるだろうか。二三人は女が混じっているようだが
 うち一人、とりわけ深く酔った男が、グレンにずかずかと近づいて来て声を荒げた。
「おいそこの兄ちゃん、ここで俺たちゃ飲み直すんだよ。どっかに失せな!」
 何が可笑しいのか、全員それにあわせてどっと笑った。
 グレンは彼らに眼を向けることもしなかった。
「おい聞いてんのか!」
 調子に乗ってお案じ男が、どんとグレンの肩を突いた。
 もう少し酒量が控えめならば、あるいはもう少し、男に注意深さがあったなら、こんなことはしなかっただろう。彼は配慮に欠けていた。欠け過ぎていた。
 元傭兵、それも、凄腕の元傭兵に生身で喧嘩を売るなど愚の骨頂である。
「ぎゃひぃ!」
 哀れっぽい鳴き声を上げて男は地面に組み伏せられていた。何が起こったかなど、男は理解すらできないだろう。
 瞬間、伸ばした腕を、骨が肉から飛び出すほどに折られ、
 軸足を蹴られて体勢が崩れたところを地面に押さえ込まれ、
 あげく、残った腕を締め上げられながら、後頭部にゴリッと拳銃を押し当てられていたのである。
 チッ、と音がした。
「弾を入れ忘れたいたな……」
 グレンが呟いたとき、じわりと地面に黒い染みが拡がっていった。血ではない。男が失禁したのだ。
 男の仲間たちは凍り付いたように動けない。女たちも、悲鳴を忘れた。
「グレン……!」
 突き刺さるような声にグレンは振り向いた。
「やめなさい! あなたは昔のあなたではないでしょう!」
 ソニア・アディール(そにあ・あでぃーる)だ。ほうぼう探し回って、ようやく彼を見つけたのだ。
 懐かしいという気持ちがないではない。反射的に殺人行動に出る――それはかつての、狼の眼をしていた頃のグレンその人であったから。けれど過去に戻るのは、正しいこととは思えない。
「ほら、放せよ!」
 李 ナタ(り なた)が駆けつけて、グレンをぐいと引き男を解放した。
「お前ら!」
 ナタは、逃げようとしていた集団に叫んだ。そうして連中の足を止めると、
「こいつ仲間なんだろう! 置いて逃げるのか、バカ野郎ども!」
 鼻血を流し痛い痛いと泣きわめく男を立たせた。
「この程度で死にゃしねぇ! ピーピー泣くな! それどころか、グレンが銃に弾を入れてなかったことは、てめぇの人生でも最大のラッキーだったんだぜ! すぐ治療すりゃ骨ならくっつく、だが命は無くすとそれきりだ、覚えとけ! ほら、とっとと病院に行きな!」
 ナタは骨が折れた男の背中を蹴るようにして、酔漢の仲間に引き渡すと、
「行くぞ」
 とその場を離れる。ソニアに引っ張られてグレンもとぼとぼと歩いた。
 人気のない場所まで移動し、足を止めた。
 レンカ・ブルーロータス(れんか・ぶるーろーたす)も同行しているが、一切言葉を発することができず、ただ、がくがくと震えていた。
(「グレンお兄ちゃん……前に落ち込んでいた時よりも酷い……レンカが元気付けてあげないとダメなのに……グレンお兄ちゃんを怖いって思っちゃう……そんな事思っちゃダメなのに……」)
 ソニアはグレンにつかつかと近づき、その両肩を持って顔を近づけた。
「急にいなくなったりして……私たちがどれだけ心配したと……!」
 ソニアは言葉に詰まった。グレンの気持ちは痛い程わかる。だけど、それで過去に戻るのだけはやめてほしい――そう言いたかったのだが、泣き崩れそうになったのだ。
「なっくん……」
 レンカはナタにしがみついている。ナタは、
「心配いらねぇ。もう大丈夫だ。大丈夫に、する」
 と、彼女の頭をなでると、つかつかとソニアに近づいた。
「よく頑張ったなソニア。俺が代わろう」
 グレンに向き直ると、ナタはゆっくりと言ったのだ。
「正直、俺もびびったよ。ソニアが言ってた、『昔のグレン』ってのを垣間見た気がする……本来なら一発殴ってでも軌道修正してやるんだが、今のお前に必要なのは拳じゃねぇ」
 ナタのヒプノシスが発動した。
「眠りだ」

 グレンを横たえて三人は樹の下に座った。
 この桜は咲き具合が遅いらしい。まだ蕾のものが多数ある。ゆえに人が来る恐れはないだろう。
「グレンお兄ちゃん……もう怖くないの……?」
「こいつは疲れてるんだよ。魍魎島の事件以来、ろくずっぽ寝てねぇようだったしな……もっと早く、こうなることを予期しとくべきだった」
 言いながらナタは、湯飲みに注いだ日本酒をぐいと空けた。胃が熱くなるほど強い酒だ。けれど今の気分にはぴったりである。
「グレンの出逢ってきたクランジは例外なく死んじまったからな……だが、Κとかいうやつは生死不明だって言うじゃねぇか……俺も一種の神だから変な気がするが、神がちゃんといるんなら、Κだけでもどうにかしてやってほしいぜ」
 苦々しく言いながら、ナタはまた湯飲みを満杯にした。
「グレンの心が……ここまで疲弊していただなんて……」
 ソニアはグレンの頭を膝に乗せ、その安らかな寝顔を見下ろしていた。
「……私、彼のことをわかっているつもりで、全然わかってなかった……」
 ソニアのつぶやきは中断された。
「呑めよ」
 と言ってナタが、ソニアに湯飲みを突きだしたからである。
「俺と同じ杯なのは悪りぃと思うが、あいにく湯飲みはこれしかねぇ。胸になんかつかえてるときは酒が一番だ」
「……いただきます」
 ソニアはためらわず受け取り、ほとんど一気に飲んでしまった。
 そして、酒がスイッチでもあったかのように、ぼろぼろと泣き始めたのである。
「……私、こんな……グレン……」
 しゃくり上げるソニアの口調は判然としない。
 彼女からそっと視線を外して、ナタはグレンの横顔を見た。
「……ソニア、泣けるときは泣いておきな。泣くのも一瞬の治療だ。こいつは今、それすらできねぇ……だから、グレンの分も泣いてると思っておけばいい」
「…………ナ、ナタク、さん……」
「何だ」
「……おかわり」
「……ほらよ」
 黙って杯を受け取り、ナタクはそこにまたなみなみと注いで渡した。
「折良くも花の席だ。いくらか湿っぽいがこのまま、花見といこうぜ」
「はい……ひっく……」
 泣き続けるソニア、無言のナタ、そしてグレンは眠り続けている。
 けれどこれは、今の自分たちに必要なものだとレンカは直感的に察していた。ナタのいう『治療』なのだと。
 だから信じたい。
(「次に起きるときにはいつもの優しいグレンお兄ちゃんに戻ってるよね……」)
 と。