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月下の無人茶寮

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月下の無人茶寮
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湯気の向こうに


 綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)アデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)のテーブルは、大きな窓の近くにあった。採光は抜群の席だ。中空にかかる月がよく見え、発掘された遺跡群の遥か向こうに望む荒野は、金粉を振りかけたような色に見えていた。燭台が中心とある店内の、明度の強すぎない灯りは外からの明るい月光とのあわいを失くし、まるで店内全体が月明かりに満たされているかにさえ見えるのだ。
 その、仄暗さを内包した灯りは、恋人同士の晩餐には悪くない。
 さゆみもアデリーヌも、口数は少なかったが何となくほっとした、くつろいだ気持でいた。
「なんか……静かで、いいよね」
「そうね」
 このところコクビャクなる反社会組織の事件を追って何だか忙しなかったりもしたが、それも先頃一段落した。また、晴れて2人は婚約したので、こんな風に気忙しさのない、ただ2人だけでのんびりといられる時間を持ちたいと思っていたところだった。
 研究者たちによるこの『無人茶寮』の開発の話と、試験運営、それに即しての招待の話を、そういうわけで渡りに船で受けた。
(何か美味しいものを食べて、貴女とゆっくり過ごしたい)

 話によると、「その人の思い出の味」の料理が出てくるらしいが。
 折角婚約したのだから、2人の思い出に繋がる味だったらいいなと、さゆみは考えていた。

 忽然と、テーブルには2人分の皿が現れていた。

「……これ」
 深めの皿を満たしているのはシチューだ。
「あ……!」




 7年前。
 雨が降っていた。いつになっても止む気配のない憂鬱な雨、灰色の空。
 14歳のさゆみは、中学からの帰り道、傘をさして公園を歩いていた。それが近道なのだった。
 さすがにこんな天気の日には、他に人影はない……と思っていたら、ベンチに誰かが座っていた。
 傘もささず、うなだれて雨に打たれて濡れるに任せている。その様子が何だか気になって、さゆみは足を止めた。

 今まで見たこともないような、美しい女性だった。
 世の中にこんな綺麗な人がいるのか、と思うような横顔だった。
 物憂げで、悲しみを湛えた横顔……
 その悲しみがどんなものなのか、雨に打たれて濡れそぼっていることも気にかけていないのは何故なのか。そんなことを詮索する気も起こらないほどに、さゆみはただ見惚れていた。
 叩きつける雨の音が消えたような気がした。時間が止まったのかもしれない。ずっと、いつまでも見ていたかったから……

 やがて、繊細な意匠の美しい置物のように身動ぎ一つしなかったその女性が、視線に気付いたのか、顔を上げ、緩慢な動きで首を巡らせた。
 眼と眼があった――


 雨に打たれて冷たい彫像のように固まった体で、唯一動くものはと言えば、その瞳の奥からとめどなく押し出される涙だけ。
 頬に伝い出す一瞬には熱い、それはしかしすぐに雨粒と混じり、熱を失って他の冷たい水と一緒になってしまう。
 ――このまま、涙と一緒に命が流れ出て尽きてしまうのだったら、冷たい水に命の熱を奪われて凍り付いてしまうのだったら、それでも構わなかった。

 愛する人を失ってから、アデリーヌは今まで数百年間もの間、何の道標もない虚無の世界を流離っているのも同然だった。
 その長すぎる年月、彼女が求めていたのは、自分の生を支える為の、失ったものに代わる「別の何か」ではなかった。ただひたすらに変わらぬ愛を紡ぐ、そしてもう決して戻ることのない「その人」でしかなかった。代替を求めることなど思いもしなかった。取り戻したいという以外の願望は存在しなかった。
 いっそ死にたかった。でも死ねずにいた。
 吸血鬼である彼女の無限の寿命は、却って自身を苦しめた。終わりのない彷徨に、自然に訪れる終止符はない。
 ゆえに彼女の、虚無の世界の流浪は終わることがなかった。

――「……」
 気配を感じ、顔を上げて首を巡らせ、アデリーヌは初めてそこで、立ち尽くして彼女を見ていたさゆみの姿を目にした。
「……! あぁ……」
 目に映ったのは、もう二度と会うことがないはずの、最愛の人の姿だった。
 何故、死んだはずの恋人がそこにいるのか。そんな疑問を抱く余裕はなかった。ここに来てくれた、再び自分の目の前に現れてくれた。心の中を占めたのはそれだけだった。よろよろと立ちあがった――長い時間座ったままで冷たい雨に打たれたために、体は強張って熱を失い、思ったように動かなくなっていた。だが、そんなことは構わなかった。予想外の動きを見て驚いたさゆみの表情も気に留める余裕はなかった。
「……逢いたかった……もう、わたくしを一人にしないで……」
 ほとんど倒れ掛かるように少女に取り縋ると、後は言葉にならず、涙が溢れて止まらなかった。

 『美しい人』は痛々しく、そして儚げだった。

 詳しい話を聞くのは取り敢えず後にして、さゆみはアデリーヌを家に連れ帰った。このままにしてはおけなかった。
 体を温めるためにと勧められた風呂の中で、アデリーヌはようやく少し理性を取り戻した。
 理性では分かっている、あの人がもう存在しないことは。
 しかし、あの少女には、かの人の面影があまりに強く現れていた。
 本当に、戻ってきてくれたのだと思った。
 でも、違う人なのだ――
「あの、着替え、ここに置いとくから――まだ、あなたの服乾いてなくて」
 浴室の外から声がして、ハッとする。振り返るとすりガラスと立ち込めた湯気の向こうに、彼女の姿が見えた。
 その戸を開いて、もう一度その姿を見たくて、湯槽から身を浮かそうとしたが、何故か、途中でやめた。
 焦る気持ちに自分でブレーキをかけたのは何故か、分からなかった。

 言われるままに用意された着替えを着て脱衣所から出てきたアデリーヌを見て、さゆみは何か言いたげな顔を一瞬浮かべた。
 やはり、あの人の面影があまりにありありと浮かぶ。そう思いながらアデリーヌもさゆみを見ていた。
 と、さゆみはさっと脱衣所に入るとバスタオルを持って出てきて。
「あの、まだ濡れてるから。ちゃんと拭かないと。風邪ひいちゃうよ」
 アデリーヌの頭にそれをかぶせてわしゃわしゃと拭いた。
 正直、想いが乱れて濡れた髪をしっかり拭くことにまで注意が回らなかった。頭を拭かれながら、アデリーヌは名を知らぬ少女を間近に感じた。
 しっかり水気を拭き取って櫛を入れてくれた後、少女はアデリーヌをキッチンに案内した。

「これ、食べて……温めたから」
 彼女をテーブルに着かせ、シチューの皿を差し出してさゆみは勧めた。
 昨夜の残りの皿だが、あってよかったと思った。取り敢えず、温かいものを食べてほしかったから。
 勧められて、アデリーヌはおずおずとスプーンを手にする。
 なんだか、奇妙な心地に戸惑う。つい先程までと、自分の置かれている場所があまりに違いすぎる気がして。
 匙をシチューに入れて掬うと、ほわっと湯気が立った。
 口に運ぶと、温かさが口に広がった。
 いつしか向かい合ってさゆみが座っていた。口に合うだろうか、とじっと見ている彼女に、何か言わなければいけない、ということに気付いて、
「あ、……美味しい、ですわ」
 言おうとして、ふと喉に言葉が詰まった。
 ぽろぽろと涙がこぼれた。
 どうしてか分からない。でも、さっきまでの涙とは違う、それだけは分かった。
 ただ、シチューの円かな味が、温かさが胸に沁みて……
 涙はさっきとは違って、温かく、真珠のように煌めきながらぽろぽろと頬を転がっていった。


 それが、2人の馴れ初め。
 2人にとっての、新たな日々の始まりだった……




 あぁ、そうだった。これは、自分たちの「始まり」の味だ。
 あの時のように、スプーンを入れて掬うと、そこからほわっと優しく湯気が立つ。
 その湯気が薄らいで消える向こうで、アデリーヌが涙を堪えているのが見えた。
「……あの時と同じ……味……」
 温かい、円かな味。
 その温かさが、虚無の世界をさすらうあてどない冷たい彷徨から、自分を救い上げてくれた。

 さゆみも、胸に温かいものが迫るのを感じながら、震える目頭に指を添えるアデリーヌを見つめていた。
 変わらず美しい、あの時は見知らぬ人だった恋人は、涙を堪えてはいても今はもう痛々しくはない。
 これから2人が手を取り合って紡ぎだす日々は、このシチューのように、優しくくるむような温かさに満ちたものであると確信しているから。