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リアクション
しばし、肥満は足を止めて孤児院を振り返ったが、赤ん坊の合唱のような泣き声が収まったのを知って、再び少年に呼びかけた。
「坊主、どうした?」
肥満が呼びかけたのは、髪を短く切った少年だった。薄汚れた服を着て、子どもにしては鋭い眼で肥満を見上げている。
「……」
まだ小学校に上がったばかりくらいに見えるのだが、少年はふてぶてしい顔で肥満を見上げている。
「おっさん、誰?」
「人に名前を訊く場合は、自分から名乗るモンだぜ。そいつが人としての礼儀だ」
屈託のない笑顔を肥満は向けた。たとえ子どもでも一人前に扱うということだ。言われた少年もその考え方は気に入ったようで素直に従った。
「やづ……いや、から、烏丸。烏丸夜月(からすま・やつき)」
それが偽名なのか本名なのかは判らなかったが、肥満はとりたててそこを気にすることはなかった。
「『おっさん』は石原肥満ってんだ。これでも若者なんだぜ」
2022年の肥満とは随分印象が違う。少し痩せすぎなくらい痩せており、意志の強そうな眉をしている。伝法な口調もなんとも新鮮だと少年は思った。
「それで、おっさん……」
言いながら烏丸少年は肥満の体を見た。とりわけ胸のところを。
しまった、と少年――正しくは少年に変身した彼は思う――肥満と今の自分とでは身長差がありすぎる。『あれ』があるとしても腰のところに付けていると思っていた。首から下げているのでは、偶然を装って掴もうにも手が届かない。もちろんジャンプすれば可能だ。だがそれでは自然に確認するというのは無理ではないか。
「これが気になるか?」
すると石原は、黒いシャツの胸元から鎖を引っ張り、服の下に下げていた『お守り』を見せてくれた。
間違いない。勾玉だ。
「金銀や宝石じゃねえ。売っても二束三文よ。ただ、こいつをしているとゲンがいいもんでね」
「へぇ」
興味なさげに言ったものの、これで少年――夜月 鴉(やづき・からす)の確認作業は終わったのである。
未来を変える、などという許しがたい罪をインテグラルは成そうとしている。頭にくる話ではないか。これまで鴉が気づきあげてきたもの、善し悪しはあれどあらゆる経験、大切な記憶……奴らはそれをすべて帳消しにしようというのだ。
鴉が選んだのは、孤児として石原肥満をバックアップすることである。孤児の一人、桜井チヨという娘が新宿系暴力団に誘拐されたようだというのは事前情報として得ている。肥満を脅す材料にする気だろう。できるなら、チヨを救い出す手伝いがしたい。
孤児に化けるのは簡単だった。ちぎのたくらみで年齢は下げたが、それ以外の立ち居振る舞いはすべて自然体だ。なんら演じる必要はなかった。なぜなら鴉には、本当の孤児として経験があるから。
鴉は肥満を見上げて言った。
「おっさん、俺、おっさんが気に入ったよ。孤児なんだ。そこの孤児院、おっさんがやってるんだろ? 厄介になってやる」
生意気な口を聞いてみたが、案の定肥満は大笑いした。
「おう夜月、俺もお前が気に入ったよ。孤児院は俺が経営してるんじゃなくて手伝ってるだけだがな。頼んでお前を厄介させてもらうとしよう」
ほら行くぜ、と、肥満は手を出した。
「よせやい」
もうそんな歳じゃねえよと鴉は言って、孤児院に駈け込んでいった。