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64


 ひと気のない場所で、四谷 大助(しや・だいすけ)は依り代の人形を睨みつけていた。
 時刻は既に二十時を回っている。
 このままでは、会えないのではないか。
 グリムゲーテ・ブラックワンス(ぐりむげーて・ぶらっくわんす)の父、オルディーン・ブラックワンスに。
「どうしたのでしょうか……」
 さすがに、グリムゲーテが焦ったような顔をした。なぜなら、ナラカの門が閉まるのは二十一時頃だと噂で聞いた。お盆祭りの花火が上がりきり、精霊船が流れるまでがリミットなのだと。
 噂なので本当かどうか定かではないが、無視することもできない。なので、迫り来る時間に、焦燥感。
 それでも一向にオルディーンは現れなかった。人形は、ただの人形として地面に転がったままだ。
 時計を見る。
 二十時五十分。
「くそっ……」
 駄目なのか。
 会うことは叶わないのか。
 オルディーンに、言ってやりたいことがあるのに。
 歯噛みしていると、ブラックブランドが光った。
「な……?」
 突然の出来事。何が起きたかわからず、発光を抑えようと手のひらを添える。が、それでも光り続ける。
 不意に、閃いた。
 瀬戸際のタイミング。異常現象。
 もしや黒印家の家紋の入ったこの篭手が、ナラカの門の代わりに媒介となっているのでは、と。
 そんなことがありえるのだろうか。
 普段なら決してありえないだろう。
 けれど今日は、普段ではない。異常だ。異質だ。
 何があっても驚くまい。
 人形に手を伸ばす。触れた瞬間、人形は粘土のようにぐにゃりと歪み、姿を変えた。
 現れたのは、獅子のような金の髪と口髭を蓄えた初老の男。
 貫禄のある大柄な身体に纏うのは純白のマントと豪奢な鎧。
 王。
 そんな言葉が頭を過ぎった。
 それもそのはず、彼がオルディーンであるならば、金獅子の二つ名を持つ黒印家十三代当主だ。
 理知的で、賢主として領土を治めてきたという、かの。
「あんたがグリムの父親か……」
 気圧されそうなオーラに退きかけた身体を叱咤し、問い詰める。
「いかにも」
 重く、深みのある声。地が響いたようだった。威圧される。
「オレはお前が気に食わない」
 けれど大助は一歩も引かない。噛み付くように言葉を続けた。
「こ、こら大助! お父様になんて口の利き方するのよ! 土下座しなさい、土下座!!」
 グリムゲーテがうろたえ、大助の腕を引く。が、彼女の言葉は無視してオルディーンを睨み続けた。
「……グリムゲーテ・ブラックワンス」
 呼吸数回分の間黙っていたオルディーンが口を開く。
 何を言われるのかと、グリムゲーテが緊張して身体を強張らせたのが、引かれた腕ごしに伝わってきた。
 はい、と掠れながらも意思のある声で頷く彼女に、
「十三代当主オルディーンの名の下に、おまえの第十四代黒印家当主と認める。以上だ」
 オルディーンが言ったのは、ひどく事務的なものだった。
 会えて嬉しいという再会の言葉でもなく。
 元気にやっているかという心配の言葉でもなく。
 まして、親子の対面に相応しい愛情もなく。
「……え?」
 グリムゲーテが、引きつった声を上げる。
 無理もない。
 大助がグリムゲーテから聞いた話に依れば、オルディーンは一週間分の執務を三日で終わらせてまで娘の誕生日パーティを開くほどの子煩悩な父。
 それが、そんな相手が、こんなにもつめたい態度を取ったとあらば、言葉を失ってしまうだろう。
 問いたかったであろうことも、全て吹き飛んでしまっているのかもしれない。
 沈黙が、流れる。
 時間がもったいなかった。もうすぐナラカの門は閉じる。
 だから大助は代わりに言った。
「お前がグリムの父親だろうが何だろうが、関係ない。
 自分の娘を問答無用で封印して、無関係のオレに押し付けて、悲しませて……」
 大助。
 グリムゲーテが、言葉を止めるように目で訴えかけてきた。再び無視する。
「オルディーン。お前は父親として失格だ。……何が誇りある黒印だ。ふざけるな……!」
 こうまで言っても、オルディーンは眉ひとつ動かさなかった。冷めた目で、じっと大助のことを見下ろしている。
「何よりオレは、そのスカした面が気に入らない……!」
 構えを取った。
「力を貸せ、ブラックブランド!」
 発動。
 甲にあった家紋が光り、輝きを放つ。
「来るがいい、小僧」
 淡々と、オルディーンが誘った。
「貴様が魔拳に相応しいとは到底思えん。ここで後顧の憂いを断つ!
 我が魂に応えよ、聖剣!」
 聖剣が――バゼラスが、オルディーンの手に渡った。
 余裕のある態度。こちらのことをなんとも思っていないような目。
 ああ、気に入らない。
 何もかも、気に入らない!
 だから、勝敗がわかりきっていても。
 相手の方が、格上だと確信していても。
 大助は、がむしゃらに突っ込んだ。
 数度の手合わせ。オルディーンは、子供と戯れるように大助の一撃一撃をいなし、かわす。
 駄目か。
 諦めが一度、頭を過ぎった。
 コンマ一秒で弱音を追い出し、追撃を繰り出すと、
「ぐっ……!」
 当たった。
 手を抜かれたわけでもないのに、当たった。
「お父様!」
 地面に膝を付いたオルディーンに、グリムゲーテが駆け寄った。心配そうにオルディーンを見つめる。
 そんな彼女の顔を見て、オルディーンがふっと笑いかけた。
 ――え?
 肩で息をしながら、ようやく見せた『父』としての顔に、グリムゲーテよりも大助の方が戸惑う。
「すまんな、グリムゲーテ。……最期だというのに、愛娘のために首飾りのひとつも用意できなかった」
「そんな……そんなものは要りません。お父様と過ごすこの時さえあれば……!」
「本当にすまない。私に出来ることは、彼を見定めることくらいだった」
 大助を見て、オルディーンが言う。
「どういうことだ……?」
 わからずに問うと、彼は優しい目をしたまま答えた。
「これからの危機に立ち向かえるよう、私の剣技を伝えたかった。……それが、私からの最期の贈り物だ。
 ……これで、未練無くマルグレーテに……妻に、会いに行ける」
「お父様……」
 グリムゲーテが、オルディーンの手を握り締めた。行かないで。消えないで。そう願うように。
「若き『黒印の拳』よ……君に、娘を頼む」
 大助への言葉を最期に、オルディーンの姿が掻き消えていく。
 消え行くオルディーンに頷いてみせると、安心したように彼は目を閉じた。
「心配ありませんわ、お父様。彼は、大助は立派な私の従者ですもの!」
 力強くグリムゲーテが言う。
 言葉は届いただろうか?
 そこにもう、オルディーンの姿はない。時計は二十一時を告げていた。
 立ち上がり、グリムゲーテが空を仰ぐ。
 月が輝く夜空へと、
「お父様……誇り高き黒印は、私が継ぎます。どうか、見守っていて……」
 静かな誓いを。