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65


 誰かに呼ばれた気がした。
 気のせいか? いや、そんな温いものではない。
 もっと、切に、自分を――季 甘霖を必要とする声だった、気がする。
 当てもなく歩いていたら、ふっと視界が拓けた。
 そして目の前には、相変わらず自分そっくりの顔をした紫煙 葛葉(しえん・くずは)と、ひどく驚いた顔をした天 黒龍(てぃえん・へいろん)が居て。
 ああここはパラミタなのか、と理解する。死んだはずの自分がまたここに戻って来られるとは思ってもいなかった。
「……やはり亡くなられていたんですね」
 懐かしいなと景色を見ていたところ、黒龍がぽつりと言葉を零した。視線は、甘霖の持つ黒表紙の本に向けられている。
 黒龍の許から失踪する前に、彼へと遺したこの本が手元に戻ってきたのは去年のこと。
 もう必要なくなったのか、大丈夫になったのか。そう思っていたのだけれど。
「どうした、黒龍?」
 無理矢理作った笑顔を向ける黒龍に話しかける。
「泣いてるぞ、お前」
 泣き顔を見せないようにしているのだろうけど、そんなことしなくてもばればれだ。
「……先生。私はまた失いました」
 沈んだ声で、されど淡々と黒龍が述べる。
「幼かった頃は、何もわからないまま先生を助けられず。……今度は、どれほど努力しても……彼を助けられませんでした」
 彼、が誰を指すのか。
 どれほど想っていたのか、甘霖には計り知れないけれど。
「……私は、求めてはいけないのですか。
 ……私は、望んではいけないのですか」
 黒龍の辛さは、絞り出される声から読み取れた。
「私が望むものは、皆この手から零れ落ちるばかりで……!」
 ぎゅ、と零したものを掴もうとするように、拳を握る。
 けれど、落ちてしまったものはもうその手に戻ってこないのだ。
「おいで、黒龍」
 優しい声で名前を呼んで、昔のように軽く頭を撫でてやる。
 しばらくそうしていると、いくらか黒龍の様子も落ち着いてきた。
「大事なものを失くして、辛かったな」
 撫でたまま言うと、こくり、黒龍が頷く。
「でも昔の二の舞にならないように、今度は努力したんだろう?」
 再び、頭が動かされた。
「努力しても駄目なら、もっと自分が変わればいい。
 求めてはいけないのですか、だって? 反対だ。もっと求めろ。貪欲にな」
 潤んだ瞳が、甘霖を見上げた。なぜ、と問いかけるように。
「求め続ければ、それを手にする為に成長できるからだ」
 わかったな?
 目で問いかけると、また素直に頷いた。
 うん、とこちらも頷いて、葛葉に向き直る。
 『時間』が迫っていることが、わかる。こちらへ来た時同様、何かに呼ばれている気がするのだ。
 葛葉の傍に近付いて、黒龍には聞こえないよう声を落とし、耳元で囁く。
「ところで葛葉。お前……俺が何で死んだか、黒龍に教えてないな?
 俺は、俺や黒龍に対する罪滅ぼしじゃなくて、お前自身の意志で真の意味で彼のパートナーになって欲しい。
 お前が俺にした事は……罪だとは思ってないから。
 現にお前のお陰で、彼は辛い思いをしながらもこうしてパラミタで生きてこれたんだからな。
 お前の『主』、『季甘霖』としての最後の願いだ」
 葛葉は黙ったまま甘霖を見上げていた。
 けれど僅かに表情が変わったように思えたので、きっと言葉は伝わってくれただろう。
 ああ。
 もう、時間だ。
「先生?」
 黒龍からの呼びかけに応えようと振り返ったけれど。
 そこにはもう彼らの姿はなく、見慣れてしまったナラカだった。