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リアクション
●近世ヨーロッパ 1
『五月葉探偵事務所』
人1人分の幅しかない、細い階段を上った先。一番手前のドアに付けられたフックから下がった黒板の文字を、秋月 葵(あきづき・あおい)はまじまじと眺めた。
白いチョークで手書きされている。
ドアから一歩離れ、周囲を見渡す。古ぼけて黒ずんだ壁に一定間隔で並んだ安っぽいドアはどれも全く同じで無個性。あかりはあるが十分とはいえず、奥まるにつれて暗さを増して最奥などぼんやりドアの形が見えるだけだ。それは、建物に入る前に見上げた外観と全く同じ印象を葵に与えた。
とても仕事で成功した者が事務所をかまえる場所ではない。
かといって、この区画はこの街の最貧民通りというわけでもなかった。夜はともかく昼間は治安が悪いというわけではないし、たしかにどれもこれもかなり年代のいっていそうな建物ばかり並んでいて街灯などもへこんでいたりするが、清潔だ。
とにかくドアをノックしようと手を持ち上げたとき。先を奪うように、ドアが中から引き開けられた。
「あの、うちにご用ですか?」
ドアの隙間からひょこっと二十歳そこそこの、まだ少女と言ってもおかしくない女性の顔が覗く。一瞬ぎょっとなったが、すぐにすりガラスに自分の影が映っていたのだと気付けた。
「あ、はい」
葵の肯定に、見るからに笑顔が強まった。
「さあ、どうぞ入ってください。外は寒いでしょう――と言っても、暖房はまだ設置していないので使えませんが、外よりは暖かいと思いますよ」
うながされるままドアをくぐる。中はワンフロアで、所々に布の張られた衝立が置かれてそれが壁の役割をしているようだった。
好奇心から覗いた衝立の向こう側には、口の開いたダンボールが積み重なっている。
「散らかっていてすみません。ここに越してきて間がないものですから。
申し遅れました、私が当探偵社の社長をしています、五月葉 終夏(さつきば・おりが)です」
にこやかにそう告げると、葵を招き入れた女性は手を差し出してきた。
「秋月……葵です」
葵は握手の間じゅう、注意深く終夏を観察した。どうやらほかに人はいないらしい。個人事務所だ。しかも経営しているのは女性…。
はたしてこの女性に依頼していいものか、逡巡する。しかしそれも数分で、薦められた椅子にかけたときには腹は決まっていた。
もとより、大手の探偵事務所に頼める内容ではない。ほかを探している時間もツテもない以上、選択肢は限られていた。
今は急を要する。
「それで、どういったご用件でしょうか」
「実は……いなくなった妻を見つけてほしいのです」
葵はひざにひじを立て、指を組むと、低い声で話し始めた。
数時間後、葵は探偵事務所を出て、路上に立っていた。太陽はほぼ中天に達しており、空気はぬくもってそこそこ暖かくなっている。だが葵の中は一片の光も見出せず、寒々として、心臓のある位置にはぽっかりと暗い穴が開いているように思えてならなかった。
『奥さんが家を出たいきさつは? 原因に心当たりは? 何かおかしな言動はありましたか? 日常に不満を感じているような様子は見受けられましたか?』
終夏からの質問に、葵は何ひとつ満足に答えられなかった。
『いえ』『さあ』『特には』『分かりません』『気付きませんでした』
葵の返答に終夏はにこやかな態度を崩さずにいたが、それはただの仮面で、内心は相当あきれているようだった。
いや、そう見えたのは、あるいは自分がそう思っているからか。
昨日までの自分なら、自信を持って『ない』と答えられただろう。自分たちは結婚生活に満足していると。
葵はそうだった。だからエレンディラもそうだとばかり思っていた。葵を見つめる目は愛情に輝き、向けられた笑顔は幸せにあふれていると、信じていた。
でも今ではその笑顔、愛情すらも、信じられなくなっている。
あれは本当に愛情だったのだろうか? あれは幸せの笑顔だったのだろうか?
鎌首をもたげるヘビのごとき疑いはきりがなく葵をさいなみ続け、もはやそれがどんなものだったかさえあやふやにしてしまう。
このままでは、この2年間の結婚生活そのものが砕け散ってしまいそうだった。
知るのが怖い。だが知らずにすませられることではない。
「……一刻も早く彼女に会って、真相を聞き出さなくては…」
疑心暗鬼が葵を押しつぶし、粉々にしてしまう前に。
葵は震える手をぎゅっとこぶしにしてコートのポケットに突っ込むと、向かい風のなかを歩き出した。
午前はこれでつぶれた。秘書に言ってクライアントとの面会は後日に振り替えてもらったが、午後は裁判が控えている。遅刻しては依頼人や裁判官の心証を悪くするだけだ。
仕事に集中しよう――それが今は唯一正気を失わないですむ最善の手段だ。
数日後。
「さーて。懐も温かくなったことだし。今夜はちょっと贅沢な夕食がとれそう」
終夏は笑顔でふくらんだ財布をポケットに突っ込んだ。
人捜しは結構楽な仕事だった。
依頼人は社会的地位があり、醜聞になるのをきらったため――でなかったらもっと大手の探偵事務所に依頼していただろう――夫人の交友関係をあたる際にはそれと気付かれないよう少々骨が折れたが、案の定そちらからの収穫はなかったので、終夏も深追いはしなかった。
敏腕弁護士の妻がそんな近場に身を隠すはずがない。よほどのばかでない限り、デメリットの方が大きいことに気付く。そしてあの置き手紙。
『今までありがとうございました。わたしのことは忘れて、幸せになってください。どうか捜さないで』
夫に愛想をつかした妻の書く内容ではない。だからおそらく、葵の言っていた『自分たちは申し分のない結婚生活を送っていた』という証言は間違いないだろう。
申し分のない生活を送っていた妻が、夫に不利な状況を作るとは考えにくい。実際、夫人の友人たちは彼女が不在であることすら気付いていないようだった。
だから終夏は彼女がもうこの街を出ているのではないかと推測してみた。
いいとこの夫人が乗合馬車を用いるとは考えにくい。人目にもつく。家出には不向きだ。だから馬車屋へあたり、長距離馬車の貸し出しを求めた女性はいなかったかと訊くと、簡単に行先が掴めた。
そして実際にその村へ行き、聞き込みをしたところ、最近若い女性が一軒家を借りたことが分かった。念のため役場で確認も取った。その女性はエレンディラ・ノイマン(えれんでぃら・のいまん)で間違いなし。
終夏は街へ戻ると葵に報告し、彼女が住む家を教えた。
そこから先は夫婦間のことで、探偵が首を突っ込む話ではない。夫人は1人で家を借りていて、周囲に男の影は一切なし。だから、多分、話し合いで解決するだろう。
「ありがとう」
終夏の報告を聞いて、葵の固い表情はほんの少しこわばりを解いたように見えた。
経費込みで調査代金を受け取り、馬車に乗り込んだ葵を見送る。――任務完了。
そして今、終夏はほくほくしながら夕方の街を歩いて、夕食の算段をしているわけだった。
あれやこれや、いろんな店の、どれも甲乙つけがたい料理が頭のなかに浮かぶ。すでに繁華街にさしかかり、おいしそうなにおいもしてくるなか、終夏はふと耳にした呼び込み口上に気をとられて足を止めた。
それは、通りの向かい側にある劇場からしていた。
「お? 終夏くんやないか。ひさしーなあ」
話の途中、言葉を切って振り返ったのは日下部 社(くさかべ・やしろ)――この劇場でもぎりをしている1人である。
「よく分かったね。こんなに人がいるのに」
ぐるっと周囲を見渡す動作をする。
あと30分もしないで夜の部が始まるためか、劇場の前はかなりの人でごった返していた。
「そりゃあこの仕事、耳がよーないとな。忍び足で俺らの目欺いてズルしようとするやつもなかにはおるから」
「私は違うよ」
「そらよー分かっとるわ。終夏くんは探偵さんっ。困っとる庶民の味方やもんなー ♪ ――あ、いらっしゃい。おおきに」
後ろの終夏と話しながらも、手と目はせわしなく動いて、客の差し出すチケットから半券をちぎり、愛想よくあいさつをかわす。
「それに、きっと来ると思うてたんや。なんたって今日から新作オペラやし」
「あ!」
終夏は急いで看板を見上げた。
(そういえばそうだった。でもそれを知ったときは引っ越したばかりで金欠だから、縁がなかったと思って泣く泣くあきらめたんだっけ…)
思い出したらやっぱり観たい。今日は懐だってあったかいし。
「……席に空きはあるかな…」
終夏がうずうずしているのを見てとって、社はにっかり笑った。
「そろそろ来るんやないか思うてさっき確認しといたわ。まだ3階席あると思うで。窓口行ってみぃや」
「ありがとう! 行ってみる!」
「……終夏くんはほんま、えー笑顔持っとるなあ」
少し離れた場所のチケット窓口まで走って行く終夏に社は息をつく。だが次の瞬間差し出されたチケットに、そちらへ向き直った。
「いらっしゃいませ。――あ、これはスティール子爵」
「招待をありがとうございます。さっそく来させていただきました」
礼服姿のコハク・ソーロッド(こはく・そーろっど)が笑顔で立っていた。先日結婚の発表とともに父のマーチモント伯爵から爵位の1つを譲り受けたこの年若い子爵は、貴族でありながら気さくな性質で、社たち平民にも人気のある貴族の1人だった。
大学に通い、文学を好むスティール子爵は劇場の出資者の1人でもあり、その特権として特別待遇を有している。いつでも、どの公演でも、常に特別席が用意されているのだ。
「これは彼女の分です」
コハクは少し身をずらし、自分の腕に手をかけた女性を紹介した。銀の髪飾りをつけた黒いショートヘアと赤い瞳のやわらかな眼差しが印象的な女性だ。
「彼女は紫桜 遥遠(しざくら・ようえん)。紫桜家のご令嬢で、僕の婚約者です」
「今日はとても楽しみにして参りました。よろしくお願いします」
軽く会釈をする。
「これはこれは。まさしく東洋の花、気高き百合のようなお嬢さんですね。いや、うらやましい限りです」
とかなんとか。
もちろん社交辞令なのだろうが、きれいな女性を手放しで褒めている社を遠目に見て、終夏はふっとため息をつく。そして次の瞬間、ため息をついた自分にはっとなって、ぱたぱたと手で払ってため息を散らした。
「べ、べつに、あの人とはそんなんじゃないんだからっ」
ただ、いつも笑顔なのがちょっといいな、と思っていただけで……あの屈託なく接してくれるとことか……今もチケットが余ってること教えてくれたり、優しいとことか……。
「第一、私には探偵社があるでしょ?」
ようやく持てた自分の探偵事務所なのだ。今は仕事が軌道に乗ることに集中しないと!
うんうんと1人うなずいている終夏の耳に『怪盗キルフェ』との名が飛び込んできたのはそのときだった。
数時間後、終夏はひと気のなくなったストリートで白い息を吐き出しながら、はす向かいにある屋敷を眺めていた。
立ち話をしている人から『怪盗キルフェ』が今夜あの屋敷に盗みの予告状を出していたとの情報を得た終夏は、観劇を断念してここでの張り込みについたのだ。
あいにくと貴族の屋敷で開催されているパーティー会場に入り、内部で警戒するにはまだまだツテも実績も足りない身ではこうするしかない。
『怪盗キルフェ』とは、今この街でホットな話題の1つだった。貴族を専門に盗みを働き、専門は貴金属だ。狙うのは決まって黒い噂のある貴族で、しかも予告状を出すという大胆不敵さ。そのため、わりと庶民には人気がある。
だがいくら人気があっても盗賊は盗賊。やっていることは他人の財産のかすめ取りだ。許すわけにはいかない。
あの屋敷から『アフロディテクォーツ』を盗むと予告した時間はそろそろだと、かじかむ指先に息を吐きかけて温めていたとき。
にわかに屋敷の方が騒がしくなった。
「きた!」
絶対捕まえて、五月葉探偵事務所の名を挙げて実績を積むんだ!
勢い込んで道を渡ろうと路地を飛び出しかけた終夏の上に、街灯の光をさえぎる影が落ちた。それとほぼ同時に、質量のある何かがすぐ目の前に降ってくる。
「きゃあ!」
驚き、バランスを崩して横に倒れたが、何かが彼女の手を掴んで壁に頭が当たるのを阻止してくれた。
その何か――だれかは、終夏を見て驚きの声をあげる。
「悪い――って、終夏くん!? どうしてここに!? 観劇してるはずじゃ…」
「え? どうして私のこと――はっ! おまえ、怪盗キルフェ!」
社は終夏と間近で向き合っていることにあわてたが、彼女の口にした名前に今の自分の姿を思い出した。
顔は上半分を黒のマスクが覆っている。しかもこの暗さ。キルフェの正体が社だと、終夏に分かるわけはない。
同時に、社の耳には背後から追ってくる者たちの足音が聞こえていた。かなり近い。
「終夏くん、すまない!」
とっさに終夏を引っ張り上げ、壁についた腕のなかに囲い込む。終夏に感じ取れたのは有無を言わさない強引な力と密着する男の体、そして唇を介して伝わる彼のぬくもりだった。
「……終夏くん、力抜いて、俺を受け入れて」
力が抜けて開いた歯の隙間から舌が侵入し、キスはさらに深いものになる。同時にキルフェのもう片方の手が、終夏の情熱を掻きたてようとするように体を這い、胸を包む。
終夏はすっかり思考停止状態に陥って何が何だか分からないままだったが、キルフェは違った。
「くそ! どこ行った!?」
「もう俺たちだけじゃ無理だ。警察が来るのを待とう!」
「キルフェの野郎め!」
ペッとつばを吐いた男たちが周囲を見渡し、また元の屋敷へ戻っていく気配を背中で感じ取り、十分距離ができたところでキスをやめた。
「協力ごくろーさん。おかげで助かった。男女の濡れ場というのは、大抵のやつはマジマジと見たりしないからなあ」
言うなりあっさり終夏から身を離す。
そうなってようやく終夏は自分が利用されていたことに気付いて、壁から身を引きはがした。
「きさま! よ、よくも…!」
「盗まれてからやっと警察か。ちッ、予告状もろとるくせに、後ろ暗いやつらはこれやからしょうもない。
さーて。うるさいやつらが到着する前に、俺も消えるとするか」
屋敷の方の様子をうかがっていた社は再び向き直って、そこで今さらながらようやく終夏が真っ赤な顔で震えているのに気がついた。
「……あれ? もしかして終夏くん、初めてだったとか?」
「あ、あたりまえだろうが! わた、私がだれとでもこんなことするように見えるのか!」
「かわえーなあ」
ニヤニヤ笑って、格好を崩す。
「……ほんまは、社のときこういうことしたかったんやけど」
「え? 何? おまえ今何か言った――」
影がおおいかぶさってきて、またも終夏を情熱が翻弄した。
「今度は、謝らんで?」
大きく見開いた目を至近距離で覗き込みながら、キルフェは宣言する。そして去って行った男たちと反対方向の路地奥へ消えて行った。
「キルフェ! 待て! 待…」
追おうとしたものの手足に力が入らず、終夏は壁に背をつけたまま、その場にずるずる座り込んでしまう。黒ずくめのキルフェの姿はもう街灯の届かない闇へ溶けて、かすかに遠ざかる足音が聞こえるのみだ。
「なんなんだ、一体。……もう」
まだ感触の残る唇に、そっと指を這わせる。と、まるで名残を惜しんでいるような自分に気付いた瞬間、終夏は頭の先まで真っ赤に染まった。
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