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リアクション
●近世ヨーロッパ 4
(どうしてこうなってしまったんだろう?)
あお向けになってぼんやりと天井を見ながら、コハク・ソーロッド(こはく・そーろっど)は考えた。
大学からの帰り道。はじめはただ、通りの向こうで質の悪い連中にからまれている少女がいると思っただけだった。
はっきり言えば、少女の側に落ち度が全くないわけではない。こんなストリートを夕暮れ近くに女性が1人で歩くなど、あまりに不用心で軽率だとの思いがよぎったのもたしかだ。が、見てしまった以上は見過ごせない。
「コハク?」
「ごめん。先に行ってて」
友人たちにことわって、道を渡った。
「ねえ、そこで何をしてるの? 僕もまぜてくれるかな?」
無邪気さを装って――でも視線にそれなりの力を入れて――少女をうす暗い路地奥へ引っ張り込もうとしている男たちに声をかける。
「うるせえ。いいから向こうへ行って――」
振り返った男たちはまずぎょっとし、ついではっと何かに気付いた表情になって威嚇をやめると少女の腕から手を放した。
気まずそうな顔で視線で語り合った男たちは、チッと舌打ちをする。
「とんだ水入りだ」
「おい、行こうぜ」
ほかにも何かぶつぶつつぶやきながら、男たちはコハクが身をずらして開けた横をすり抜け、表通りに消えて行った。
彼らがコハクの身分を知っていたのは幸運だった。この街で、しかも明るい日中に貴族に手を出すような無謀なやつらはそうそういない。
「きみ、大丈夫?」
両手を胸に引き寄せ、すっかりすくみ上ってその場から動けずにいる少女に声をかけて、初めて彼女が噂の留学生であることに気付いた。
東洋から語学留学してくる者はめずらしい。しかもそれが少女とあってはなおさらで、小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)の名前は、彼女が留学してくる大分前から大学では知らぬ者がないほど有名だった。そして留学してきてからは、まるで小鳥のようなかわいらしい少女だと評判になっていた。
コハクはそんなうわついた噂に興味はなかった。マーチモント伯である父から譲られることになっているスティール子爵という爵位、それに付随する責任の重圧、学業との両立、そして何かにつけ母に急き立てられる結婚のことなど、それでなくても頭を悩ませることがいろいろあって、それどころじゃなかったのだ。
「大丈夫かい? 何もされなかった?」
相手が言葉に不慣れなことを察して、今度は発音に心掛け、ゆっくりとしゃべった。そして近付こうと一歩踏み出したところで、びくっと美羽の体が跳ねる。
(しまった)
美羽はおびえていた。それはそうだろう、彼女にとって、あの男たちがコハクに変わっただけだ。
「僕はコハク・ソーロッド。ウエストエンドにある白い屋敷を知っているかい? あそこに住んでいて、きみと同じ大学に通っている者だよ。ほら、学生証」
ポケットから出して、開いて見せた。
「わたし…………美羽・小鳥遊…」
小さく、ようやく聞き取れる声で美羽がつぶやく。少し身じろぎをして、初めて彼女のジャケットと下のシャツが胸元で裂けていることに気付いた。
おびえて縮こまっているだけでなく、ああやって胸元を隠していたのだ。
それを見て、コハクの目が細く締まる。彼はおもむろにジャケットを脱ぎ始めた。
「あ、警戒しなくていいよ。何もしない。ここから一歩も動かないから。ただ…」と、脱いだジャケットを放る。「それを脱いで、こっちをはおるといい。きっと胸元まで隠れると思う」
美羽は受け取ったジャケットとコハクを交互に見てためらうような間を開けたものの、ほかに手だてはないと悟ったのか、彼に背中を向けて自分のジャケットをするりと脱ぎ落とした。
白シャツを透けて見えた彼女のほっそりとした体の線に一瞬目を奪われかけたが、急いで紳士らしく顔をそむける。すると視界に散らばった彼女の物らしき教科書が入ったのでそれを拾っていると、彼女の方から近付いてくるのが分かった。
「あの……これ……ありがとう、ございます…」
たたんだ自分のジャケットを手に、美羽ははにかむような笑顔をコハクに向けた。
それから2人の付き合いは始まった。
付き合いといっても、学友としての節度ある付き合いだった。
彼女は見知らぬ街でたった1人で、孤独で、自分の助けとなってくれる友人を必要としているのが痛いほど分かったから、少しでもその手伝いができればと思ったのだ。
そして知り合ってから分かったのだが、かなり講座で重なっているものが多く、図書カードも借り出し書物の欄の大半が同じ本の名前が埋まっていた。
「ふーん。コハクは外国に興味があるんだね」
図書カードに書かれた彼の、少し癖のある文字を指でなぞりながら、美羽が言う。
「少しね。いつかは行ってみたいと思ってるけど……どうかな」
おそらく無理だろう。大学へ入った当初はそういう夢も持っていたけれど、今では無理だと分かっていた。あと数年猶予がほしかったが、相手の女性をそんなに待たせるわけにはいかないという母の言い分も分かる。それに、とうとうスティール子爵の爵位を受け取ってしまった今、子爵家の領地だって放りだすことはできない。
(公式発表する前に、1度管理人に会いに行かないとな…)
そんなことを考えつつ、図書館司書の差し出してきたノートにぼんやりサインをしていると、窓に張りついていた美羽が驚きの声を上げた。
「コハク! 雨降ってきたよ!」
「え? うわ!」
大事な本を濡らさないようジャケットでくるんで、大慌てで走った。だが雨足は激しくなるばかりだ。
「うーっ、こんなときに限って馬車が見当たらない」
雨宿りに入った店の軒下できょろきょろ辺りをうかがっていたら、美羽がためらいがちに切り出した。
「ここからならうちが近いけど……来る? 狭いし、あんまりきれいじゃないけど…」
美羽の下宿先は知っていた。何度か前まで送ったことがある。
ぽかぽかしていた昼とうって変わって空はどんよりと曇っていて、雨はやみそうにない。11月の気温はしゃれにならないほど寒く、濡れた格好で外に突っ立っているのは風邪どころか肺炎を引き起こしてしまうだろう。
「………………うん…」
何度か口を閉じたり開いたりしたのち。コハクはかすれた声でのどの奥から言葉を押し出した。
いつかはこうなると、あのときから予感はあったのだ。
あのはにかむような無垢な笑顔を見てしまったときから、その存在に気付いていた。多分美羽も。2人とも、気付かないフリをして目をそむけていただけだ。
でも2人きりになってしまえば、もう抑えきれない。
部屋のドアをくぐり、テーブルの上のあかりをつけようと歩き出した彼女が何かにつまずいて揺れたのを支えた瞬間、それは頂点に達した。
肌に貼りついた濡れたシャツごしに互いを確かめあった。ひんやりと冷たかった肌がだんだんとぬくもりを取り戻していく。
はあっと息を吐き出して、唇が離れた直後。
「コハクの唇、冷たいね」
ふふっと美羽が笑ったのを覚えている。その声も、唇をなぞるように触れた指先も、どうしようもなく震えていた。
そこから先はほとんど記憶にない。
ただひたすらに。ただただ夢中で。がむしゃらだった。
そして今は?
「………っ!」
目を覆った腕が、怒りに震えた。
ばかなことをした。衝動にかられ、情熱に飲まれた。おろかで浅はかな自分に無性に腹が立ち、それを許した美羽にも腹が立った。
婚約者がいる身で。与えられるものが何ひとつない身で。
(こんなの、ただ彼女を利用しただけじゃないか…!)
そう思うと、同じベッドにいることすら耐えられなかった。
彼女がこちらに背を向けて眠っていることを幸いに、極力音をたてないようベッドを抜けて服をまとう。しめった冷たい服は不快だったが、今は一刻も早くここを立ち去りたくてたまらなかった。
部屋の中はすっかり暗くなっていたものの、窓から覗く空はそんなに闇色が強いわけでもない。あれから何時間も経ったように思えたが、実際は1〜2時間というところか。雨はやんでいるようだ。
置き手紙を残すべきか? 一度はペンを取ったが、何も言葉が浮かばずに最後はあきらめた。何を書いて残したところで、今は言い訳にしかならないだろう。あとだ。また出直してきて……そうすれば、きっと何か思い浮かぶに違いない。とにかく今は動揺しきった自分をなんとか立て直さないと――――
「行くの?」
突然、眠っているとばかり思っていた美羽が言葉を発して、コハクはドアにかけていた手をとめた。
「……うん。クラブで……みんなと、待ち合わせて、るんだ…」
「そう」
「終わったら、戻ってくるよ。あの……遅かったら、明日、また…」
「うん。分かった」
横の壁に貼られた姿見が、ベッドに横になったままの美羽の姿を映している。
「コハク、心配しないで。何もかも、ちゃんと分かってるから。また……明日、ね」
気丈な声と裏腹に震えていた肩が、コハクの心を粉々に砕いた。
美羽はいつから知っていた? 知っていて、受け入れたというのか?
そうだ、知らないはずがない。美羽は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもないんだから。新聞、雑誌、忠告する人々――いくらだって、知る手段も機会もある。
(最低だ。僕は最低の男だ。しかもあんなことを言いながら、本当は、あの部屋へ戻る勇気もないんだ)
ただ早くあの部屋を出たくて、その場しのぎの言葉を口にしただけ。
屋敷へ戻る間じゅう、コハクはひたすら壁か何かを殴りたくてたまらない衝動にかられていた。だが見たいのは壊れた壁ではないことも分かっていた。流れる血と痛み。このくさりきった魂ごと、何もかも掻き出してしまいたい…!
「あらコハク。今帰ったんですか?」
2階の自室へ向かう階段の途中、足音を聞きつけた姉のベアトリーチェ・アイブリンガー(べあとりーちぇ・あいぶりんがー)が部屋から出てきて彼を出迎えた。
「姉さん……来てたの」
「ええ。あなたや母さんたちの顔でも見ようかと思ったんです。泊まる予定はなかったんですけれど、雨があまりにすごかったものですから。
それにしても、今日はずい分遅かったんですね」
返しようのない問いだった。いつから雨がやんでいたのか、コハクは知らない。
濡れた服と、乾いた髪と。見比べられている気がして、気まずさに背を向けた。
「今はやんでるよ。義兄さんもさびしがってるんじゃない? なんなら送って行ってあげようか? 僕もクラブへ行く予定があるんだ。下のホールで待ってて」
そう言って部屋へ入る。しかし閉じる前にドアは引き開けられ、ベアトリーチェが入ってきた。
「姉さん?」
「本当は、あなたに会いに来たんです。コハク、あなた最近東洋から来られたお嬢さんと親しくされているとか」
いかにも貴婦人らしい、含みをもたせた言い方に、カッとコハクの顔が上気する。
「だれに聞いたの? 母さん? それともうわさ好きの姉さんのおしゃべり相手?」
適当に取り出した着替えを、乱暴にベッドの上に放り出した。
「いいから出て行ってくれないかな? これから着替えるんだ。すぐに出ないと遅刻してしまう」
「コハク」
「心配しなくていいよ、姉さん。ちゃんと分かってる。僕はただ、彼女が東洋から来たっていうのでちょっと話が聞きたかったんだ。僕が外国に関心を持っているのは姉さんも知ってるよね? 大体、そんなの……失礼じゃないか。遥遠さんにも、美羽にも…」
そうだ。その最低のことを、僕はしてしまったんだ。
「コハク。あなたを咎めようというわけではありません。殿方は愛人を囲うものだと知っています。これはあなたとその女性の問題で、わたしが口をはさむことではないということも。けれど、今は時期を考えなさい。あなたは結婚を間近に控えている身。社交界は遊びには寛容ですが、スキャンダルには容赦がありません。隠せないのであれば、少しの間離れてはどうでしょうか」
――遊び?
「美羽は……そんなんじゃないよ…。彼女は、愛人とかじゃなくて……もっと大切にされていい人なんだ…」
脳裏に美羽の姿が浮かんだ瞬間、息もできないほど胸を押しつぶす、圧倒的な感情の波に揺さぶられて、コハクはぎゅっと目をつぶる。
抑えきれず小刻みに震えているこぶしを見て、ベアトリーチェは目を伏せた。
「その生真面目さはだれに似たのかしら」
「えっ?」
「正しい道を選ぼうと思いつめるあまりひとつのことしか見えなくなる、それはあなたのいいところでもあり、困ったところでもありますね。行き付く先が無数にあるように、たどり着く道もまた同じ数だけあるというのをあなたはすぐに忘れてしまう…。
欲しいものがあるなら欲しいだけ取る、それも道でしょう。でも、どちらかを手放すのも道です。そして、そのどちらかというのは必ずしも決まっているとは限らないのですよ」
「姉さん! でも、それは――」
「ねえ、コハク。あなたが私や父さん、母さんを思うように、私たちも常にあなたのことを気にかけているのです。あなたの身を案じ、あなたが幸せになることを祈っています。あなたが私たちを案じてくれるように」
音も立てず歩み寄ったベアトリーチェの手が、いたわるようにコハクのほおを包む。
「そんなあなただからこそ、私たちはあなたの選択を尊重するの……それがどのようなものであっても」
「姉さん…」
コハクのほおに、そっと唇が触れるか触れないかのキスをしたベアトリーチェは、ずっと変わらぬ微笑で背を向けた。
「やはり、送ってください。私もなんだかあの人の顔が見たくなってきました」