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あなたが綴る物語

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●近世ヨーロッパ 8

 クラブへ向かったとき、コハクはしばらく冷却期間をとるつもりだった。何もかも短期間で起きて目まぐるしすぎた。時間をあけ、少し冷静になって自分を見つめ直してみようと。
 けれど、クラブを出たときには美羽に会うことしか考えられなかった。
 馬車を走らせ、美羽のアパートへと向かう。そうしてよかったと、コハクはのちに何度も口にすることになる。美羽は荷造りをすませて出て行く寸前だったからだ。
「コハク!?」
 現れたコハクを見て、美羽は本気で驚いていた。
「どうして驚くの? あとで来るって言ったじゃない」
「う、うん……でも…」
 こないとばかり思っていた。コハクだってここを出て行くとき、そのつもりだったはずだ。美羽はそう確信していた。
 半ば混乱している間にコハクはどんどん距離を詰めてきて、もう横をすり抜けてドアまで行く隙すらなかった。
「どこか旅行? 何かあったの?」
「……日本に、帰ろうと思って…」
「そんなのだめだよ美羽!」
「だって! ……だって、コハク、もうじき結婚するんでしょ…? そうしたら赤ちゃんかわいそう…」
「えっ!?」
 コハクは驚いて、パッと掴んでいた美羽の手を放した。まじまじと美羽のおなかに見入ってしまう。
「あ、赤ちゃんって…………もう分かるの?」
「ううん。でも、きっとそうなる。だって私、コハクのこと、拒めないもん」
 コハクが去ったあと、1人部屋でずっと美羽はそんなことを考えていた。コハクがいない人生と、コハクの愛人となって生きる人生。
 美羽の国でもそういう人は普通にいた。妾といって、きちんと世間一般的に認められている第二夫人だ。
「私は愛人でもいい。コハクを失うくらいなら……我慢できる、多分。でも、赤ちゃんは…」
「我慢することない。そんなこと、我慢することなんかないんだ!」
 叫び、コハクは胸に美羽を掻き抱いた。
「コハク…」
「美羽、好きだよ。初めて会ったときから、ずっと好きだった。もしきみがどうしても日本へ帰るっていうんなら、僕は日本へだって追って行くよ! きみのためなら何を捨てても惜しくない! 爵位だって、国だって捨ててみせる!」
「コハク! だめだよ、そんな!!」
 美羽はあわててコハクの胸を引きはがした。間近で見上げたコハクの目はこわいくらい真剣で、思いつめている。
「私なんかのために捨てちゃだめ! この国にはコハクのお父さんやお母さん、お姉さんがいるんだよ! 家族はとても大切なものなの! 捨てるなんて軽々しく口にしちゃだめ!」
 それ以上言わせまいとするように押し当てられた手の指1本1本にキスをして、コハクはそっと、今度は包み込むように美羽を腕のなかへ戻した。
「分かった。じゃあ、いつか許してもらえるように、お願いしよう。手紙を出そう」
「……私も、お願いする……たくさん…」
「うん」
「いつか、コハクが戻ってこれるように……お願いするから…」
「うん。そのときは美羽も、赤ちゃんたちも一緒だよ」
 約束と耳元でささやかれた言葉に、美羽は泣いた。泣いて、泣いて、コハクにすがりつく手の力を強めた。
 本当は心細くて仕方なかったのだ。でも海をへだてるぐらいしないと、きっと戻ってきてしまうと思ったから……だから…。



 翌日、2人は馬車でまず紫桜家へ向かった。このまま出奔するにしても、婚約者の遥遠にだけはきちんと話をつけておかないといけないと美羽が言い張ったのだ。
 コハクの話を遥遠は終始笑顔で受け止めた。突然の婚約破棄に驚いてはいたものの、ショックを受けている様子はなかった。むしろどこかほっとしてうれしそうに見えたのは、その方が罪悪感が薄れて気持ちが楽になるからだろうかと、コハクは内心いぶかしんでいた。
「あなたを醜聞に巻き込んでしまうけれど…」
「ああ、それはお気になさらないでください。ヨウエンは平気です。それよりも日本までは船で何カ月もかかるとか。道中、つつがないようお祈りしています」
 遥遠は気持ちのこもった声でそう言うと、頭を下げた。
「ありがとうございます。それでは」
 コハクが乗り込んだ馬車が視界から消えるまで待って、ドアを閉める。
 コハクは少し疑っていたようだけれど、遥遠は本当に、はれやかな気持ちだった。こう、少し傾いていた世界が再び均衡を取り戻して、少し色あせていた風景が元の色彩を取り戻したような…。
「メアリー、馬車を出してちょうだい。公園へ散歩に行きたいの」
「分かりました。遥遠さま」
 ちょこんとおじぎをして、メアリーは裏口へと向かう。
 外出着に着替えるため階段を上がりながら、遥遠はこのことをどんなふうに遙遠に話そうかと考えていた。
 そのとき彼が見せてくれるかもしれない反応がどんなものか。今からとてもとても楽しみだった。