リアクション
* * * 案内された控室で、如月 正悟(きさらぎ・しょうご)は鏡に映った自分をまじまじと見つめた。 何もかも決めたのは自分のはずなのに、どこか他人事のような気がする。ここにいるのは本当に自分なんだろうか? タキシードなんか、もう何年も着ることのない生活をしてきた。そのせいもあると思う。いや、多分そのせいだ。だからじわじわ首が締まっているような感じがするんだと、首とシャツの間に指を入れてネクタイを引っ張る。しかしそれならこの背後をとられたような落ち着かなさは何なんだろう? 崖の上にでも追い詰められて退路を断たれたような……そんなことを考えていると、後ろのドアが開いた。 いち早くウェディングドレスに着替え終えたオルベール・ルシフェリア(おるべーる・るしふぇりあ)が入ってくる。 「なぁに? そんな青い顔して。逃げ出したくなった?」 オルベールは正悟の心情などお見通しだというように、ふふっと笑った。 「逃げたりするわけないだろ。ちゃんとこうして着替えてもいるじゃないか。ただちょっとなんだか落ち着かないだけで――って、それよりおまえ、ここにいていいのか?」 「少しならね」 鏡に映ったオルベールに向け、きまり悪げに肩をすくめて見せる正悟の元へ歩み寄る。床でドレスの裾が擦れる音がかすかにした。 「実は正悟ちゃんのことだから、直前で姿をくらますんじゃないかな? なんて思ってたんだけど。例えば、仲間から連絡が入って急きょシリアへ飛ばなくちゃいけなくなった、とか」 そんなことしない、とは口にできなかった。この数カ月、着々と進んでいく式に向けての準備に正悟自身その可能性を考えたのは1度や2度じゃない。今朝家を出るときは心底おびえて、このまま自動車事故でも起こせば教会へ行かなくてすむんじゃないかとまで思った。 だけどそんなことをすればオルベールとの仲は完全に終わりだ。彼女が待っている、その一心で教会へ向かった。 「とてもそんな心配をしていたように見えないな」 しげしげとオルベールを見下ろす。彼女はとても落ち着いていて、何事にも動じないように見えた。ウェディングドレスを着ていなければ、式の主役というより友達の式に参加しにきた友人のようだ。 「んん? 心配はしてないわよ?」 「だけど俺が来ないかもしれないと思ってたんだろ?」 違うのか? と小首を傾げる正悟の耳に、くすくすと快い笑い声が入る。 「違うわ。来なくても驚かないって思ったの。 あのね、もし逃げたいなら今からだって逃げてもいいのよ」 「えっ? でもそんな……いいのか?」 「うん。ベルは正悟さんと出会ったときに、とっくに覚悟決めてるから。正悟さんの行く所へ行くだけ。すぐ追いかけていくからね」 その驚くべき返答に、正悟はあらためてオルベールを見た。 自分の足にドレスがかぶさるぐらいの距離で止まったオルベールはオフショルダーのドレスを着ていて、彼女の豊満な胸をまさに熟した果実のようなみずみずしさで見せつけている。今はかぶっていないベールと揃いの緻密なレースの装飾がほどこされたコルセットがさらに彼女の細いウエストを強調していて、正悟は口元を緩ませずにはいられなかった。 彼女が教会を歩けば、きっと嫉妬と称賛の視線が集中するに違いない、と。 そして、ふうと息を吐く。 「逃げないよ」 「あら? そうなの?」 それはちょっと残念かも、と意地悪くつぶやいてますます笑いを強めると、腕のなかへ倒れ込むように身を寄せた。 やわらかな体。ふわりと百合のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「……なに? 正悟さん」 「ん? いや、つくづく不思議だなと思って。ずっと女なんかどれも同じだと思ってた。ただ時間つぶしの相手だって。失って惜しい相手なんかいなかった」 SEXなんてスポーツと同じだ。テニスやバスケと同じで、2人の人間が汗を流して、心地よい疲労感でスカッとしたあとはあとくされなく別れる。相性が良くてゲームが楽しければ、またすることもあるだろう。ただそれだけの行為にすぎなくて、特定の相手に執着したり、ルールがどうのと面倒くさいことにこだわる意味が理解できなかった。 相手がうだうだうるさいことを言い出したら、肩をすくめて去ればいいと思ってやってきたのに。 「なんで今回ばかりはそれができなかったのかなぁ」 「んっふっふ。それはね、ベルが完全に正悟さんのこと理解してるからよ」 例えば、本当は女神のようにあがめている女性がほかにいることとかね。 オルベールは視線にも声にもかけらも出さず、心のなかでつぶやいた。 相手がだれかも彼女は知っている。アスカ――正悟の義理の妹だ。彼女を紹介されたとき、オルベールはすぐにそれと悟ることができた。正悟の心の奥底にはだれか、決して消すことのできない、もはや彼の一部と化した女性がいることには気づいていたから…。 そして正悟の結婚話に息を詰め、驚いたアスカの方もまた、正悟に複雑な感情を持っていることが分かった。 帰りの車のなかで2人は昔、ほんのわずかな期間、恋人同士だったことを聞き出した。けれど両親の再婚で彼女の母親と正悟の父親の関係が分かったとき、2人は悩み抜いた末、別れることを決意したのだという。 (多分、それが悪かったのね) お互い相手を嫌ったり、恋愛感情が消えて別れたわけじゃなかった。そして相手もそうだということを知っていた。しかも、どうやら肉体関係もあったらしい。 そういうのはたやすく永遠に変わりやすい。美しい永遠の思い出。時を経るごとにそれは洗練されていき、誇張され、ただ恋愛の頂点で引き離されたという悲劇性だけが未練となって残る。最悪の別れ方だ。 オルベールが出会ったとき、もうすでに『アスカ』は正悟のなかで神格化されていた。永遠に溶けない氷で包まれた美しい幻影。生身の女性に勝てるはずもない。それを打ち壊そうと無駄な戦いを挑み、疲れ、敗れていった女性の幻まで見えるような気がした。 オルベールはただ、『アスカ』ごと彼を愛しただけだ。 手に入らないものを願って何になる? そんなないものねだりをするよりも、こうして手に入るもので満足すべきなのだ。その方がよっぽど建設的ですらある。 (それに、ずっとそばにいたらいつか彼が幻影であることに気付いて、運命の相手がベルだって気付く可能性がないわけじゃないもの) 未来は無限だ。可能性はいつだってある。最後に笑っている者が勝者だ。 オルベールはそれが自分であることを半ば確信していた。 ぎゅうっと正悟にしがみつく。 「落ち着いた?」 「……ん? ああ」 問われてはじめて気づいたように正悟はまばたきをした。あの肩にのしかかるようだったプレッシャーが消えている。 「あら残念。ベルが落ち着かせてあげようかと思ったのに」 「へえ」と下を見る。オルベールの胸は正悟の胸に押しつけられ、ますますコルセットに締めつけられて窮屈そうだった。今にも端からこぼれ落ちそうだ。布ごしにこすり合わされる太もも。彼女の指はベストの金ボタンをもてあそんでいる。 それらのシグナルが何を意味しているか分からない男はいないだろう。 「それはぜひともお願いしたいな」 腰のくびれに回された手が膨大な量のスカートをたくし上げ始める。 「汚さないように気をつけてね」 甘美な期待にうずき、早くも乱れた息をこぼしながらそう言うと、オルベールは唇を求めてつま先立った。 「――汚さないように気をつけてね」 かすかに漏れ聞こえてきた言葉に、アスカはドアノブを回そうとしていた手を止めた。 間違いなく女性の声だ。いくら女にだらしないと評判の正悟でも、自分の結婚式の控室にまで女性を連れ込んだりはしないだろう。それに、オルベールとつきあいだしてから正悟のそういった無軌道な行動は静まっていた。だから多分、相手はオルベールだ。 自分の存在を伝えるなら今のうちだった。何気なく、ただドアをノックすればいい。そして「どうぞ」と言われてから入れば――だが凍りついている間に、すっかりその機会を失してしまった。 ドア越しにそれらしい衣擦れの音が聞こえてくる。 (ど、どうしよう…? ここはいったん帰るべき……よねぇ?) そうしよう、とまだ伸ばしっぱなしだった手を引き戻したが遅かった。 「なんだよ。入らないのか?」 両手をジーパンのポケットに突っ込んだ蒼灯 鴉(そうひ・からす)が立っていた。 数年ぶりに見た彼の姿に、アスカは言葉を失った。 最後に見たときより髪が伸びていた。それに、以前より細くなった気がする。でもやつれているというふうではなく、むしろ引き締まって鍛えられた感じだ。肌も日に焼けて…。 しかし彼女を見る目つきは今も変わっていなかった。相も変わらず斜にかまえた冷めた表情で、どこか不機嫌そうな目でアスカを見下ろしている。 正悟から「友人の鴉」と紹介されたときから、あの目がいやだった。ひとを小ばかにした目。まるで何もかも見透かしているのだと言わんばかりの…。 いや、実際見透かされていたのだ。 彼はそのたった数分の出会いでアスカの未練を鋭く見抜き、防御を紙のようにはぎとって風光の下にさらし……利用した。 鴉は、言うなればアスカにとって『エニグマ』だった。 「あなた…」 ごくりと息を飲み、言葉を押し出す。 彼が来るのは予想できていた。正悟と親しい友人である彼が招待されていないはずがない。だから朝、鏡を覗き込み、何度もそのことを自分に言い聞かせて、対鴉用にと何重にも心の防備を厚くしていた。 あれから何年も経った。もう彼の脅迫におびえるだけのばかな小娘じゃない。今もまだ自分に対して力を持っているなどと知られてはいけない。 「ま、まだ着替えてないんですの〜? 式はもうじきですのよ?」 よくよく見ればシャツもジーパンも泥汚れみたいなものが付着している。不潔ではないが、彼の仕事を考えるとどう見ても作業着だ。 アスカからの指摘に鴉はガリガリッと頭を掻いた。言われと思った、という顔だ。 「空港から直で来たんだ。まったく正悟のやつ、無茶な日程を組みやがる。上着引っ掴んで飛行機飛び乗るのが精一杯で、アパートに戻る暇もなかった」 「ええっ!? それじゃあ服は――」 「正悟の方で用意してくれるという話だったが?」 ああそれでここに、と納得する。 アスカのそんな心境を知ってか知らずか、鴉は軽く肩をすくめると止めていた足を動かし、彼女の横まで歩を進めた。 とたんアスカは今置かれている状況を思い出し、ぎょっとして手をばたつかせる。 「ちょ、ちょっと! そこで止まって! 私の方から行きますわぁ!」 「何をあせって――」 と、そこまでを口にして、ドア越しにかすかに聞こえてくる物音や声に、鴉もすぐなかで何が起きているかに気付いた。鴉が気付いたことにアスカは赤面したが、鴉は違った。 「ふうーん」ニヤリと笑う。「それでおまえ、ここに突っ立ってたのか」 「な、何よ…」 「顔が赤いぜ? 息も不規則だ。やつらの声で、もしかしておまえもその気になってんじゃね?」 「何をばかな…!」 「仕方ねえ。ちょっと来い」 「え!? ちょ!?」 驚き、抵抗するアスカを無視して鴉は女性用エチケットルームに引っ張り込んだ。 幸いにも彼ら以外だれも人は入っていない。それを確認した鴉はドアを蹴って締め、彼女を持ち上げて強引にメイク台へと座らせた。 「なっ、何を――」 「ほら、足開けよ。さっさとすませてやるから」 絶句し、展開についていけないでいるアスカの前、カチャカチャと音をたててカラスはベルトを緩めだした。 「!! なっ、な、な、なななななな…っ」 「べつに初めてってワケじゃねーだろ。処理してやるっつってんだよ。それとも1人でやるか?」 瞬間カッときて、アスカは鴉をひっぱたいていた。 その激しさを物語る、パンッという破裂するような平手の音が部屋内で反響する。 「バカにしないでよ…っ。ひとを娼婦扱いするつもり?」 「……娼婦だったじゃねぇかよ。俺が望めばいつでもどこでもすぐ足開いた女のどこが娼婦じゃねえって?」 「あれは…っ!!」 そうしないとばらすと鴉が脅迫したからだ! そう言い返そうとして、ぐっとのどを詰まらせた。 2カ月間。彼の望むとき、彼に抱かれる。それが始まりだった。アスカはその要求に応じて、彼と関係を持った。 でもきっと、言われなくてもしただろうと、あとになって思った。当時、アスカは自分を罰したくてたまらなかった。その方法がどんなであれ、正悟は前向きに歩き出しているのにいつまでも自分は泥沼にいて、そこから抜け出せなくて。それを隠し、押し殺す日々、のしかかる重圧感に耐え切れず、身も心もボロボロになりかけていた。 そんな自分を救ってくれたのが鴉だとも言える。彼は脅迫した。ただの物のように扱われている気がした。半ばヤケになって「私はあなたのお手軽娼婦ね」と口にしたこともある。だけどあの日――いつもの場所に現れない鴉を夜まで待って、家へ戻った彼女の耳に飛び込んできた、正悟が携帯で友人と話している言葉――「鴉のやつ、今ごろイラクへ向かう飛行機のなかだな」という言葉に激しいショックを受けて、そしてようやく気付けたのだった。 鴉は考古学を専攻していた。イラクで発掘をしている教授の助手に欠員ができたのを知って、一も二もなくとびついたらしい。 その連絡すらしてもらえないほど小さな存在でしかなかったのか。 いや、単に時間がなかっただけだ。そのうち説明なり、連絡が入るだろう。そう思ったけれど、携帯はついに1度も鳴らなかった。鴉の番号は知らない。かけてくるのはいつも彼の方だったから。正悟に聞けるはずもない。 もう二度と彼からかかることはない。期限の2カ月が過ぎて、アスカは確信した。きっと鴉は彼女のことなど忘れてしまって、思い出しもしないに違いないと。 そのことにほっとしながらも、心のどこかで愕然となってもいた。そしてゆっくりと、いろんな角度からこの出来事を考えた。 彼はなぜあんなことをしたのか。なぜ何も告げずいなくなってしまったのか。答えを知りたかった。 いつかまた会えたら……そのときこそ聞かせてもらおうと思って…。なのに。 「……結局私は……鴉にとって、ただの娼婦だったんですのね…。飽きて捨てられた……ただそれだけ…。私を思い出すことなどなかったでしょう……連絡なんて、くるはずもありませんでしたわぁ…」 血の気の引いた面でうなだれたアスカが独り言のようにつぶやく。涙がほおを伝い、こぼれて台を流れた。それを見て。 「違う」 ぽつっと鴉がつぶやいた。 「鴉…?」 「俺は……逃げたんだ。おまえを俺のものにすることなんか簡単だと思った。俺のものにして、俺のことしか考えられなくさせて、快楽で縛れば俺から離れられなくなると。だけど違った。おまえは変わらずおまえのままで、おまえはただ俺に穢されたと感じて我慢しているだけだった。おまえが自分を俺の娼婦だと言ったときに分かったんだ」 正悟への想いを軽く見ていた。思春期の少女が持つ異性に持つ憧れ、恋に恋しているようなものだと。だからそんな思い違いは簡単に散らしてしまえると、たかをくくっていたのだ。でも違った。幾度体を重ねたところで、アスカの心は手に入らない。 「だから助手の話をこれ幸いにと理由にして、逃げ出したのさ。物理的に距離を置かないと土下座しておまえに懇願する寸前だった」 俺を愛していなくてもいい、俺のそばにいてくれ。俺から離れて行かないでくれ。おまえが俺を愛していない分も、俺がおまえを愛するから――。 「そんなの、ばかなやつのすることだ。そんなやつを俺は軽蔑してきたはずだ。俺はプライドにしがみついて、おまえを捨てて忘れる道を選んだ。なのに向こうへ着いたその足でおまえの元へ帰りたくてたまらなかった。夜もろくに眠れないありさまだった」 それを克服できたのは、なんてことはない、現地で熱病にかかったせいだった。数週間寝込み、ベッドから起き上がれるようになるまでさらに数週間かかった。そしてそれからは仕事が歯止めとなってくれた。 「だけど結局、会わなくてもおまえを忘れることはできなかった。距離じゃだめだ。だからもういっそ、はっきりとおまえにきらわれればあきらめもつくと思ったんだが…」 それも無理だと今分かった。彼女を傷つけるくらいなら自分が傷つく方がマシだ。彼女の涙に比べれば自分のプライドなんか無意味だ。 「俺は懇願するよ」 「やめて」 その場にひざをつきかけた鴉をアスカは引き止めた。 「そんなことしなくてもいいから……ただ……聞かせてほしいですわぁ…」 「アスカ…。 もしわずかな希望でも残されてるなら、俺の手を取ってくれ。もしそうしてくれたなら、俺の全てをかけて、幸せも、愛も、人生も……何もかも、全部おまえに捧げる。 結婚してくれ……アスカ。おまえだけだ。愛してる。永遠に」 「はい」 差し伸べられた手にそっと手を重ねて。アスカは涙を流しながらほほ笑んだ。 「なんだ、お見通しだったのか」 控室に用意されていた自分のタキシードを見て、鴉は少し面白くなさそうにつぶやいた。 白のタキシードの横に並べて置かれてあったのは、と見間違えようのないウェディングドレス。 『これを着てこい。多少遅れても待っててやるから』 差し込まれてあった正悟からのメッセージカードをぴんと指ではじく。 「――って、はっ! まさか、アスカ。おまえがしゃべったのか!?」 これは罠だ! 脅迫して関係もってたなんて知ったらきっと刺される! 「話してませんわぁ。ただ、あなたの名前が話題に出ると聞き耳を立てたりしていたので、気付かれていたかもしれませんわね〜」 くすくす笑って自分のドレスを持ち上げる。それはオルベールと彼女のドレスを決めに貸衣装屋へ行ったときに見つけたドレスだった。ずい分熱心に試着を勧められたのは、こういうことだったのか。 (ありがとう、義姉さん) アスカは胸のなかのオルベールに感謝をささげた。 正悟とオルベール、鴉とアスカの結婚式はつつがなく終わり、その後開催された披露宴会場は、ちょっとした同窓会の様相を呈していた。 涼介の割り当てられた席はやはり高校時代の仲間で占められており、だれも花嫁のことを知らない。最初は興味津々、女は飾りとばかりにとっかえひっかえだった彼を捕まえた女性について盛り上がったが、そのうち、話題はそれぞれの近況へと流れた。 「――それで、聞けよ涼介。ラムズのやつ、なんといきなり医者になるなんて言い出して、大学入り直してるんだぜ?」 「え?」 と食べ物を口へ運んでいた手を止めて、涼介ははす向かいのラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)を見た。彼の視線に気付いて顔を上げたラムズと目が合う。ラムズは話をふった男を見、涼介に目を戻し、黙ってソフトドリンクを飲んだ。 「驚いたな。きみはたしか教授の研究室に入ったんじゃなかったか? 脳における記憶のメカニズムに関する研究に従事していたと思うんだが。医学博士号はすでに取得済みだろう」 「ええ。ですが、獣医は専門外ですからね」 「獣医!?」 自分の耳を疑う思いでつい目を瞠った涼介の反応が面白かったのか、先の男がぷっと吹き出し笑いつつ答える。 「そのきっかけっていうのが、拾った子猫だって言うんだぜ。それもガリガリで今にも死にそうなやつ。そいつのためにノーベル賞確実って言われている教授の研究室辞めて獣医師を目指すって、いかにもラムズらしいよなあ」 友人たちの注目を集めるなか、ラムズは黙々と食事をしていた。 今ひとつ何を考えているか分からない、マイペースぶりは相変わらずだ。 「へえ。それで、どんな子猫なんだ? ラムズ」 むくむくと好奇心が沸いてきて、尋ねたとき。 「こちらにフォレストさまはいらっしゃいますか」 ボーイがテーブルに現れた。 「はい、俺ですが」 恐縮そうな顔をした彼を見たとき、いやな予感がした。 「病院からお電話がかかっています」 携帯は切ってあった。事故による急患か、担当している患者のことで何か起きたのだろう、そう思ったが、胸騒ぎは消えなかった。電話の場所まで案内するというボーイについて歩き出す。 とてもいやな、悪い予感。 受話器をあてがった耳に飛び込んできたのは、ミリアが自宅を出た直後車にはねられたという知らせだった。 |
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