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そんな、一日。

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そんな、一日。

リアクション



29


 ごめんね、というリィナの声を、メティス・ボルト(めてぃす・ぼると)は忘れられない。
 私、これから死ぬの。彼女はそう言って、メティスの前から姿を消した。
 立っていられなかった。膝から力が抜け、すとんと床に座り込む。頭が上手く働かない。リィナの声だけが、頭の中で渦を巻く。何も考えられず床を見ていると、震えが襲ってきた。自制できないそれを、自分で自分を抱き締めるようにして押さえようとした。無理だった。震えは止まず、目の奥が熱く痛む。泣きそうだ、と思ったら泣いていた。
 堪えきれない嗚咽を零して泣くメティスを、レン・オズワルド(れん・おずわるど)が支えて帰った。自室にひとり残されてから、メティスは声を上げて泣いた。
 ――私には、この生き方、できないな……って。
 リィナの拒絶する声が、頭に響く。
 そうか。
 駄目なのか。
 なんの役にも立てなかった。空回った。
 うすぼんやりともやのかかった頭で、消えてしまいたい、と思った。
「メティス」
 その時、扉越しに声がした。レンの声だ。答えられぬまま、メティスはドアを見つめる。
「確かにお前は彼女を救うことは出来なかった。だが、そんなものはお前が努力を止める理由にはならないだろ?」
「…………」
「それだけだ」
 離れて行く足音を聞きながら考えた。
 確かに、私は彼女を救えなかった。
 彼女は自分で考えて、そして自ら救おうとしたから。
 幸せになろうと努力したから。
 その決断を、メティスが否定することなんて出来ない。
 その結果を理由に、メティスが逃げ出していいわけもない。
 自分がやったことは全て無駄になった。
 リンスだって、哀しませた。
 その事実は変わらない。
 だけど。
 その結果だけを受け入れて立ち止まってしまったら、もう何も変わらない。
(私は何がしたかったの?)
 こうして、泣き続けたかったの?
 違うでしょう。
 そうじゃないでしょう。
 自問自答し、涙を拭った。
(私が、したかったことは)
 立ち上がり、部屋を出る。リビングにいたレンに頭を下げて、書斎に向かった。機晶技師の本を手に取り、読み始める。
 メティスは笑顔を願っていた。
 誰かの――いや、リンスの笑顔を。
 救いたかった。
 哀しませたくなかった。
 そうなるためにどうしたらいいのかと考えたら、ここに着いた。
(機晶技師の勉強を一からやり直そう)
 幸いにも、懇意にしている相手に技師として最前線で働いている人がいる。
 彼女に、弟子にしてもらえないか頼んでみよう。
 決断したメティスがヒラニプラに渡ることになったのは、それから間もなくのことだった。


 列車を待つ駅のホームで。
 ノア・セイブレム(のあ・せいぶれむ)は、メティスに詰め寄って訊いた。
「どうしてですか?」
 ここへ来る前、メティスらは『Sweet Illusion』と人形工房に足を向けた。フィルにもリンスにも会って、少し、話をした。
 なのに。
「どうして、ヒラニプラに行くことを言わないんですか……? 今日を逃せば、もうしばらく逢えなくなっちゃうんですよ!」
 詰め寄るノアに、メティスは困った顔をした。困った顔のまま、笑う。
「いいんです」
 そこにあるのは諦めだった。
 今ある現状を飲み込んで、そうすることでしか前に進めなくなった顔。
 ちくり、と心が痛んだ。
 メティスのこんな顔、見たくない。
 ノアは踵を返して駆け出した。自分を呼ぶメティスの声が聞こえても、振り返らずに。
 ホームを抜け、駅を抜け、人の隙間を縫って走って工房へ向かう。道行く人が怪訝そうに見てきたって止まらない。息が上がってみっともなくなったって、走り続ける。
「リンスさんっ!」
 工房のドアを開け、叫ぶ。突然の登場とその有様に、リンスが驚いて目を瞠る。息を整える時間すらもったいないと、ゼェハァ息をつきながら言葉を繋げる。
「何してるんですかっ、メティスさんが行っちゃいますよ!」


 ザミエル・カスパール(さみえる・かすぱーる)は腕時計を見た。ヒラニプラ行きの列車が駅を発つのは午後七時で、あと二時間ほど残されている。
 先ほどまで騒いでいたノアは、意を決したのかホームを出て行った。きっと、人形工房に向かったのだろう。リンスを、迎えに。
 だがまだ足りない。必要なキャストは、あとひとりいる。
 携帯を取り出し、連絡先から呼び出したのはフィルの番号。呼び出し音が二回続いた後、明るい女の声で応答があった。
「情報屋。リィナ・レイスを頼む」
 彼女の存在なくして、メティスの新たなスタートは切れない。
 電話の向こうで、フィルの笑う気配がした。
『うち、人材派遣の会社じゃないんだけどー?』
「できるだろ」
『業務の範囲外でーす』
「融通が利かないな」
『利かせると次から次へと無茶振りされそうだからねー』
 飄々とした声に、こめかみを押さえる。
「可愛い妹分の旅立ちなんだ。餞別のひとつくらい用意したって罰は当たらない」
 頼むよ、と呟いた声は自分でも驚くほど弱いものだった。
 黙っていたフィルが、十一桁の数字を告げる。
『覚えた? もう一度言う?』
「覚えた。……今のって」
『うん。リィちゃんの番号。かけてごらんー』
 言うだけ言うと通話は切れた。教わった番号を押し、呼び出す。……通話中。もう数分時間を置いてからもう一度かけると、『……はい?』少しぎこちない声がした。紛れもない、リィナの声だった。


 列車が来るまでの間、レンはメティスの話し相手になっていた。
 今まで見てきたこと。感じたこと。過ごした日々を、振り返る。
 彼女の言葉で想いを聞いて、レンは、これまでメティスがこの街で育んできたものは無駄ではないと強く思う。
 同時に、彼女が抱える悩みの大きさも実感する。
 消化不良の感情。
 そこから湧き上がる、迷いにも似た不安定な気持ち。
 レンの言葉では、メティスの表情から翳りを消すことは叶わないだろう。
(メティスを救うことができるのは――)
 駆ける足音が、ホームに響く。
 顔を上げたレンが見たのは、こちらに向かって走るリィナの姿だった。


 レンが席を外し、ホームにはメティスとリィナのふたりが残された。
「旅立つって、ザミエルさんに聞いたの。……行くんだね」
 先に口を開いたのは、リィナの方だった。
「はい。リィナさんにも色々とご迷惑をおかけして――」
「迷惑なんかじゃ、なかったよ!」
 空気を裂く大きな声に、少し驚く。だって彼女は、こうして声を荒げたりすると思わなかったから。
 メティスの表情に、リィナは口元を押さえて恥ずかしそうに目を伏せた。ごめんね。小さな声で謝った彼女は、伏せたまま言葉を続ける。
「本当に、嬉しかったの。私のため……じゃあなかったかもしれないけど。私や、リンスのことを想って。考えて。動いてくれたこと。嬉しかったんだよ……」
 リィナの声は哀しそうで、申し訳なさそうで、やめてほしいと思った。あなたをそんな気持ちにさせたかったんじゃ、ない。
 気まずい沈黙が落ちる。どちらも何も言えずに、ただ口を噤む。気まずさを誤魔化すように視線を彷徨わせたとき、視界の端にリンスが見えた。慌てて目で追う。きょろきょろと辺りを見回すリンスが、メティスのことを見つけた。


 リンスがメティスの隣に並ぶと、リィナはすっと距離を取った。その行動が意味することを悟って、リンスはメティスのことだけを見る。
 彼女には、言いたいことがひとつあった。
「もし、ボルトが自分のしたことを無駄だと思ってるなら、それは違う」
 杞憂であればいいと思ったが、そうではなかったようだ。違うんですか。か細い声で尋ねるメティスに、リンスは首を振った。
「無駄じゃない。ボルトの行動は、気持ちは、姉さんにちゃんと伝わってる。だから姉さんは、前まで以上に幸せになろうって思ってる」
 あの子の気持ちを踏みにじっちゃったから、ちゃんと幸せにならなくちゃ。
 いつだったか姉は、そんなことを言っていた。
 突っぱねてまで選んだ道で転んでいたら、それこそ申し訳ないでしょう、と。
「そう、ですか。……伝わってたんだ」
「うん」
「無駄じゃなかった」
「うん」
「ありがとうございます」
「俺は何も」
「来てくれた。ここに。見送りに。リィナさんも」
 メティスが、離れたところに立つリィナに目をやった。ちらちらとこちらの様子を窺っていたリィナはメティスの視線にすぐ気付き、そわそわとした後頭を下げた。メティスも、丁寧に応える。
 列車の到着を告げるアナウンスが流れたのは、それからすぐだった。列車がホームに滑り込み、ぬるい風が頬を撫でる。
 減速し、列車が止まった。空気の抜けるような音と共に、ドアが開いた。
「それじゃあ」
 メティスが、荷物を持って乗り込む。停車時間は短く、ドアが閉まる警告音が鳴っている。
 声をかけられるのは、あと数秒。
 なら、彼女に手向ける言葉は。
「頑張っておいで」
 メティスが頑張っていることも、あの時尽力してくれたこともわかっている。
 本当なら、なおも頑張れだなんて言えない。でも彼女なら、そう言った方が頑張れるのだと知っていた。だから、伝えられる言葉はあれだけだったのだ。
「……はい!」
 それは、正解だったようだ。頷いたメティスは笑顔だった。リンスはほっと、安堵する。
「頑張ってきます」
 力強く言う彼女に、リンスも笑った。
 歩む道は別々になったけれど、これは別れじゃない。
 彼女が、そして自分が歩き続ける限り、いつかまた交わる時が来る。
 その時までどうか。
「元気で」