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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

リアクション

 
 
 ――平行世界の未来。ウルディカ・ウォークライ(うるでぃか・うぉーくらい)にとっての過去。
 その世界で彼は、パートナーの女性を殺害した。他に打つ手は無く、心を殺して任務を遂行した。彼女が残してくれた形見のイヤリングと「幸せになって」という願い。それを支えに進んできた道は、ある場所で閉ざされた。
 希望が生まれれば、自分と彼女が生まれる未来自体が存在し得ないのだと気付いてしまったのだ。
 任務の意義も、彼女を救う手も無くした。一体自分がやってきた事は何だったのだろう、何の意味があったのだろうか。
 胸を暗い空虚に染める落胆に、差し込んだ光はある言葉だった。
『この過去は私が見てきた中で一番幸せです。両親も、世界も。
 例えこの世界にスヴェトラーナが産まれる可能性が無くても、皆が幸せで居られる世界を、私は望みます』
 ――たとえ自分が産まれなくても、幸せな未来を望む。
 自分と同じ宿命を背負ったスヴェトラーナの言葉は、ウルディカに中にコトリと自然に落ちた。ウルディカはこの言葉に強く惹かれ、今はスヴェトラーナ自身に強く惹かれている。
 だが、彼はどうしてもスヴェトラーナの名前を呼ぶ事が出来ない。
 ウルディカが唯一名前を呼んだ女性は、パートナーただ一人だけた。心を奪われた女性の名前を呼ぶ事は、失った彼女を思い起こさせる。辛過ぎてならなかったのだ。
 

「キアラ嬢、近付き過ぎるなよ」
「分かってる!」
 伸ばした如意棒で刀の間合いの外から、武尊はスヴェトラーナに攻撃を仕掛ける。ラセツ相手の近接戦闘は必ず此方が不利になる。それを理解した上で、彼はこの位置を選んだのだ。
 スヴェトラーナは『攻撃を寸前で避ける』という技術に於いて、彼女が越える事の出来ない師である父すら凌ぐものがある。
 女性ではどうしても男性に追いつく事の出来ない筋肉量――即ちスピードで不利になる部分を、女性だからこその柔らかさで補っているのだ。
 武尊が繰り出す如意棒の先は、ほんの少しのズレしか感じさせないような動きで何度も何度も避けられた。
 しかしこれもまた、武尊にとって想定済みであった。
 グラキエスの重力の操作により重くなっている身体で、ウルディカの催眠効果のある銃弾から逃れつつこの如意棒の動きを避けるのは、至難の技なのだ。
 スヴェトラーナは確かに強いが、それでも一人で複数の――それも能力の高い契約者を相手にするのは圧倒的に不利だった。
 敵の戦闘力や戦意を奪う戦いは通常命を奪い合うそれより時間が掛かるのが常だが、この場合はその限りでは無く、スヴェトラーナが膝をつきそうになるまでそう長い時間は必要無かった。
「っら喰らえッ!」
 武尊が声と共に繰り出したのはスヴェトラーナの腹部に狙いがつけられていた。案の定彼女は腰を捻るだけの動きでそれを避けた。だがその攻撃自体は大変浅いものなのだ。武尊は素早く握っていた如意棒を扱き、即膝を狙った下段に切り替える。
「――ッ!」
 咄嗟の動きに身体が耐えられなくなったスヴェトラーナはなおも腹筋の力で体勢を整えようとするが、空かさずグラキエスの重力干渉に上掛けするように武尊が重力制御のスキルを彼女の足へ向けた。
「スヴェトラーナ!!」
 後ろに倒れていくスヴェトラーナの身体を受け止めようとウルディカ一足走っていく時、彼等の耳にキアラの声が届いた。
Aprite il vostro cuore!
 心を闇から解放する魔法の言葉に、スヴェトラーナの冷たくなった身体にどくりどくりと血が流れる感覚が蘇ってくる。
 今スヴェトラーナの目に映っているのは、彼女を組み伏せているウルディカの顔だった。
「あの時お前は両親の幸せを望むと言っていた。
 何十何百と父が母を殺す所を見ながらもだ。
 前にもあれほど屈託なく尊敬していると言っていた。
 ――スヴェトラーナ、俺はおまえに、あんな苦痛を味わわせたくない」
「…………ウルディカさん……」
 強く鋭い赤い視線が、海よりも青い瞳の中に溶けていく。長いようで短いような、感覚の分からない時は、ウルディカの「ぐッ」という断末魔と、彼の顔がスヴェトラーナの真横の地面に減り込んだ事で解消された。
 スヴェトラーナが目を見開くと、かつて無いくらいに、そしてこれ以上ないくらいに不機嫌な表情のアレクが、ウルディカの後頭部を軍靴の裏でグリグリと容赦なく踏みつけながら立っている。
「親父の目の前で娘を押し倒すとは良い度胸だな、Ah!?」



 ミリアの施した回復は、アレクの傷を完治させている。ただ失った血と感覚を取り戻すには、時間が必要だ。アレクは未だ壁を背に座り込んでいた。
 漸く付けた一息に、キアラは協力をしてくれた武尊に礼を言う。アレクの端末を奪って彼の友人関係に適当に連絡をしたが、武尊はキアラが彼女の端末から呼んだのだ。
「――きてくれて助かったっスよ。お姉様が居ない時に限ってこんな面倒なの……、私一人じゃ解決出来なかったし」
「面倒だった、けどキアラ嬢がぱんつくれるっていうなら、
 どんな時、どんな場所でも。お呼びとあらば即、参上! だけどなー」
あげないっスよ
 じとっとした目で一瞥して背中を向けるキアラに、武尊何とかかんとか声を掛けている。戻ってきた日常に翠とサリアが噛み締めていた口を開くと、アレクが彼女達のこちらへ呼んだ。
「ごめん、びっくりさせた」
 謝罪なのに平坦な声の調子は何時ものおにーちゃんのもので、アレクに抱き寄せられる様にしていた翠とサリア、彼女たちを見守っていたミリアとスノゥも漸く胸の奥の閊えが取れた。アレクの方もそれは同じらしく、彼の腕の中にいた翠とサリアには、壮太の顔を見上げた彼が吐息を漏らしたのが分かる。
「お前等もくる? おにーちゃんが抱きしめてやるぞ」
「や…………」
「結構です」
「お断りしますぅ」
 壮太とミリアとスノゥに連続で断られて吹き出したアレクが、ふいにスヴェトラーナに視線を向けた。
「……どうして何の抵抗もしなかったんですか?
 パーパはいつも、私が間違った事をしたら言ってくれました。私一度、本当に、本当に酷い事した事ありましたよね。あの時パーパは私に拳骨しましたよね。ああいう風にしてくれたら――」
 怖ず怖ずと近付いてきた彼女が足を止めそう吐き出したのに、アレクは口を開く。
「――すまない、俺はお前の父親にはなれない」
 諦めの後の妙な明るさを含ませた声音に、皆が弾かれたようにアレクを見る。袖に掛かる重さに気付いたウルディカが視線を流すと、スヴェトラーナが何かに耐える様に唇を噛み締めていた。痛々しい彼女の表情に、庇う様に口を開くウルディカだったが、アレクの声が先に響く。
「スヴェトラーナ、お前は俺に正体を隠したがったが、申し訳ない事に俺は会って三秒で察しがついてた。目の色、髪の色……そもそも顔が俺に似過ぎてる。太刀筋とかよりも偽装すべき部分はあったろ、ああ何だろうな、思うところ有るし言いたい事も沢山あるんだが――」
「今そういう話じゃないし。つか何でなんも言わなかったんスか? 分かってたなら何時もみたいにハッキリ聞いてやればよかったのに。一人で悩んでたのが可哀想じゃないスか!」
 意地悪だと非難するキアラに、アレクは深い溜め息を吐いた。
「……プレッシャーだったんだよ。スヴェトラーナが俺に『父親』を重ねているのが分かってたからな。
 が、俺は赤ん坊を抱いた事はない、子供をスクールバスの前まで送った事もないし、部屋の片付けもしない俺あれ大っ嫌いだ。料理も滅多にしないだろ、お前の好物のペリメニなんて作り方も知らないよ。
 同じ人間でも、歩んできた道が違えば、結果は異なる。傍に居れば居る程痛感した。俺は『スヴェトラーナの父親のアレク』にはなれない。スヴェトラーナの理想にはなれない。正直……ジゼルが羨ましかった」
 スヴェトラーナの母親のジゼルは彼女が幼い頃に亡くなった。その為スヴェトラーナは母親を知らない。知らなければ理想も何も無いから、スヴェトラーナは真っ新なまま母親として彼女を受け入れられるのだろう。しかしアレクは――父親の方はそうはいかない。
 今のスヴェトラーナの全てを作ったのは、彼女の世界のアレクなのだ。
「大体お前デカいし、俺より年上だろ。11月生まれだから三ヶ月も。凹むんだよそういうの。もし娘じゃなくて息子で背デカかったりしたらもう死んでた」
 立てた膝に額を押し付けながらブツブツ呟いて、アレクは徐に顔を上げる。
「例え正統な理由が有っても、俺はお前の事は殴らない。否、殴らないじゃなくて、殴れないんだ。お前の父親が俺と同じ糞みてぇな過去を持っていたのなら、そこに至るまで相当葛藤が有った筈で、――それを乗り越えたって事だろうな。
 俺には出来ないよ、怖い、そんな勇気無い。だからやっぱり無理なんだ。俺はお前のアレクにはなれない」
 苦々しい言葉を聞きながら、壮太はアレクの隣に座り込み「なんとなくわかるよ」と、一言だけ言って黙る。
(――前に見せてもらったおにーちゃんの消えない傷痕。
 あれとおなじことを、おにーちゃんはスヴェトラーナにしたくないってことなんじゃねえの。
 たとえそれがどんな状況だとしても、それで自分が危ない目にあっても……)
 アレクはきっと両親から受けた事が、連鎖するのを恐れているのだろう。
 スヴェトラーナは子供の頃を『前に』と口にする程、今のアレクと彼女の父親を混同していたが、二人の人間には決定的な位に大きな違いがあるのだ。
「ごめんなさい…………」
 消え入りそうな声で謝罪するスヴェトラーナを、アレクはじっと見つめている。サクシードは細胞の活性化で、老化しない。だからスヴェトラーナの記憶の中の父親と、目の前の男は顔も、身体も寸分違わず同じ姿をしているのに、別人なのだ。こんな皮肉はあるだろうか。スヴェトラーナの滲んでいく視界の中で、しかしアレクがふと微笑むのが見えた。
「でもごめん、お前が俺をどう見ようと、俺はお前の事を、俺の娘だと思ってる。
 俺はお前の父親のアレクじゃない。今更ぽっと出てきた父親としてやるべき事もやれない劣化品かもしれないけど、それでも二人目の父親として見てくれるか?」
 アレクの言葉を噛み締め、堰を切ったように溢れた涙が溢れた瞬間、スヴェトラーナは父親の腕の中に飛び込んだ。
「はい……、はいパーパ! あなたは私の、ツェツァの大好きなパーパです!」
 肩を震わせ激しく泣きじゃくるスヴェトラーナを抱きしめて、アレクは静かに誓いを立てる。
「ツェツァ。約束する。俺はお前の事、置いてかないよ」