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Buch der Lieder: 桜んぼの実る頃

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Buch der Lieder: 桜んぼの実る頃

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【空京: ホテル】


 別室に寝かせたジゼルをツライッツに頼み、皆のもとへ戻る間、ハインリヒがアレクの背中へ俄に口を開いた。
「あの結果、ジゼルは見たの?」
「……ああ」
「そっか。
 彼女どうだった?」
「理解をしていたか分からない。動揺が激しくて、抑える方を優先したから」
 事実だけを伝えるアレクのトーンに、ハインリヒは「そうだろうね」と視線を落とす。
 それ以上に何も言葉が続かなかった事にアレクが不安を覚えて振り返ると、ハインリヒは薄く微笑んでいた。
「でもねアレク、僕はちょっと嬉しかったよ」
 そう言って瞳を閉じ、ハインリヒは過去を思い出す。


 * * * 



 庭で採れた赤い実を白いクリームの上に飾ると、弾力で揺れたスポンジが香りを跳ね返した。
 鼻を抜けるつんとした酸味とチョコレートの仄かな甘みに、ハインリヒは目を細める。見た目も香りも、今回は我ながら上出来だ。
 問題は味なのだが、こればかりは実際に食べてみないと分からない。しかし折角綺麗な円形に仕上がったのだ、先にカットしてしまうのは忍びない。森に積もった雪を彩る落ち葉と赤い桜んぼの実――シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。この見た目から楽しんでもらいたい。
 ハインリヒは人の為に料理をするのが好きだった。感謝の言葉と、美味しそうに食べてくれる姿、あれだけは嘘が無いから好きだった。勿論今仕上げたばかりの菓子にも贈り先がある。彼女はこのトルテが大好物だから、きっと喜んでくれるだろう。
 今直ぐ彼女の笑顔が見たくてキッチンを手早く片付けケーキとナイフをバスケットにしまうと、ハインリヒは庭へ足を向けた。
 今日は天気が良いから、彼女はあそこにいる筈だ。
「ローゼマリー、トルテが焼けたよ!」
 ハインリヒの姉、ローゼマリーは身体が弱かった。長兄コンラートより頭が良く、次兄カイや長女フランツィスカよりも芸術の才能に恵まれながら、幼い日から敷地の外に出る事すら叶わない程に深刻な疾患を抱えていた。
 気温や天候にまで体調が左右される彼女は、気候の良い日にしか外に出られない。だから今日の様な――初夏の暖かい午後は、一年の内自由に生きられるたった数日を味わう為に、彼女は何時もあそこにいる。
 庭の中でも一際大きな桜んぼの木、柔らかな日の差し込む木陰の下。
 誕生日に兄達に贈られて以来すっかり彼女のお気に入りになったブーツが目に入って、ハインリヒは目を輝かせ姉のもとへ走って行った。
「ローゼマリー!」
 呼び掛けた声に重なって、何かの音がハインリヒの耳を劈(つんざ)いた。木陰に入った所為で明るいグレーアイズが色を変え、暗い色に染まる。濁った海のような緑色に映っていたのは、崩れていくローゼマリーの後ろ姿と、小銃を手にした義兄の姿だ。
「……アロイス……、何してるの…………」
 足下に転がった姉が、彼女を撃った義兄が、目に映る全てが信じられず、ハインリヒはただ質問する事しか出来ない。
 するとアロイスは表情を固まらせたままのハインリヒを無視して、草の上に倒れたローゼマリーの華奢な首から引きちぎる様にネックレスを剥ぎ取った。
「何してるんだよアロイス!!」
 義兄の強盗のような浅ましい行為を見て、ハインリヒの頭に急激に頭に血が昇る。バスケットを投げ捨てシャツに掴み掛かると、此方を向いた横顔を思いきり振り抜いた拳で殴りつけた。反撃にアロイスが体勢を崩したのを確認して、ハインリヒはローゼマリーを抱き起こす。
 不幸中の幸いだろうか。撃たれた箇所は足だった。ローゼマリーは泣きながら痛みに耐えているが、この様子なら命に別状は無い。
 ほっと息を吐いていると、その隙にアロイスが背中を向けて走り出した。このまま逃がしてはならないと、ハインリヒは義兄を追い掛け、すぐさま後ろから飛びかかった。
 藻掻く身体を抑え付けるハインリヒは未だ成長過程だったが、がむしゃらな力にアロイスは思う様に逃げ切れず、ローゼマリーから奪ったネックレスを取り落とした。
 青い宝石が石畳の上に落ちた瞬間、二つの破片に砕け散る。
 予想外の出来事に、思わず互いに動きを止めてしまった。そして先に動き出したのは宝石に執着していたアロイスだった。背後のハインリヒを肩に力を入れ押しのけて、欠片の一つを手に入れる。
 もう一つ、と振り返ったが、その時には既に二つ目の欠片の方へハインリヒが回った後だった。
「渡さない……」
 ハインリヒは地面に膝をついたまま、青い宝石の上へ掌を覆い被せて背中に庇い、アロイスへナイフを向けていた。アロイスが銃を持っていたから、バスケットから落ちたのを咄嗟に拾ってきたものだが、使うつもりは無かった。それに先は尖っていても所詮ケーキナイフだ。命をかけた戦いには心許ない。それでも身内に刃を向ける――それくらいの覚悟だとアロイスには伝わったのだろう。アロイスもまた銃を握る手に力を込めた。
「退けハインツ。退かないと撃つ」
「Nein! これにもし君が思う様な力があるのなら……、例え僕がここで死のうと、君にだけは渡さない!」
 血の繋がった者同士。似通った容姿を睨み付けるハインリヒに、アロイスが銃口をゆっくりと向けたときだ。
「ハインツ! アロイス!」
 声に注目した二人の元へ、コンラートと使用人達が駆け寄ってくるのが見える。形勢が逆転した事を悟ったアロイスは、既に手に入れた欠片を見下ろし、ぐっと握りしめた。
「欲しいもの手に入れた……もうこの家に用は無い!」
 これから起こる全てを受け止め口に出したアロイスが前を見据えると、皆に遅れてやってくる人影が目に留まる。
 カイとフランツィスカに両脇を支えられたローゼマリーが、絶え絶えの息を漏らしながらアロイスへ叫んだ。
「アロイス! 行かないで、お願い!
 私を追いて行かないで!!」 
 思えばそれは愛の告白だったのだろうが、アロイスはローゼマリーに背中を向けてしまった。
 彼の背中があっという間に消え失せると、ローゼマリーは気を失い、フランツィスカが悲鳴を、カイが怒号を上げ、コンラートと使用人達は忙しく動き回る。
 ただ一人残された気分で、ハインリヒは石畳に座り込んだまま掌を広げた。
 海の中に落とせば溶けてしまいそうな、見事な美しさを誇る青い宝石は、欠片になってしまっても変わらずに輝き続けている。
「……でもこんなものに、家族を壊して迄手に入れる価値がある?
 アロイス、どうしてこんな…………アクアマリーンなんか、ただの石ころじゃないか」


 * * * 



「隊ちょ……旅団長!」
 つい最近代わったばかりの言い慣れない呼び名に苦心しながら、部屋に入ってきたアレクとハインリヒに駆け寄ると、キアラは姿勢を正して改めて自分達の作戦行動中に起こった出来事について報告する。
「――と言う訳で、ウィリは“複数の魂が寄り集まった個体”、って事みたいっス。
 詳しい部分は、アル兄様が。ただアル兄様今ぶにぶに君だから、お姉様がまた後で――」
 キアラの説明に、師の兄であるゼリー状の物体を思い出してアレクが頷いている。そんな彼と行動していた者達は、アレクのセイレーンが幾つもの魂を重ね合わせて作られたという話を否が応でも思い出していた。
「やっぱりウィリはセイレーンと関係してるみてぇだな」
 首の後ろを掻きながら言うベルクに、ハインリヒは口を開いた。
「それについてなんだけど。
 皆に話があります――」
 そう言って、ハインリヒは事情を先に伝えていたらしい長兄へ視線を送る。
 コンラートが呼吸を一度繰り返す間に、カイが端末に写真を表示させた。
 ゴールデンブロンドの髪、海色のグレーアイズ、肩口まで伸びた髪が印象的なハインリヒに似た面差しの男だ。
「アロイス・グレネマイアー、私達の遠縁にあたる男で、義弟だ」
 その男がこの事件に関与しているのだと、話の流れから推測して、皆はコンラートに注目する。
「――君たちがまだほんの赤ん坊か、或はまだ産まれていない頃だろうな。
 地球ではパラミタ出現の影響が徐々に出始めていた。
 私達凡人には全く“理解出来ないもの”だったが、アロイスは何かを感じ取り、見ていた――“変わった奴に見えた”よ。
 ……ハインリヒが産まれて少し経った頃、アロイスの両親が事故に遭われ、帰らぬ人となった。そうして彼はディーツゲンに引取られたが、私達兄弟と彼の距離は縮まるところか、あれでますます開いたように思う。恥ずかしい事だが――どうしても部外者であるという意識が拭えなかったんだよ。私達は寄宿舎で生活していたからね、彼の人となりを知らぬまま弟と呼ばなければならいない事に抵抗を覚えたし、上手く受け入れてやれなかった。
 しかし殆ど産まれた時から兄として見ていたハインリヒと、フランツィスカの下の妹、ローゼマリーは別だった。彼女は生まれつき身体が弱く、外にもまともに出られなかった。狭い世界にいた彼女にとって、本物の兄ではないアロイスは憧れだったんだろう」
 封印していた思い出を話すコンラートの瞳は、此処では無い過去を見ている。壮年の男性の茶色い瞳の回りには、深い皺が刻まれていた。
「アロイスとハインリヒは容姿が良く似ていて、ハインリヒの成長でそれが明らかになると世間は憶測で中傷を始めた。“遠縁の息子を引取ったのは、実は父の隠し子であるからだ”と。ハインリヒまでもが“愛人の子供だ”と言われの無い非難を受けてね……。真ん中のローゼマリーは人の目に触れる事も少なかったから、世間は私達を妙に年の離れた兄弟だと勘ぐり、噂に拍車をかけた。
 そういう中傷や、私達と上手く付き合えなかった事、パラミタの異変に反応していたのを理解されなかった事、全てが折り重なってアロイスを孤独にしたのだろうね。
 ある時彼は事件を起こした…………」
 コンラートはそれきり、黙ってしまった。思い出すのに辛い部分が多すぎるのだろう。フランツィスカが兄を気遣う仕草を見せたのに、ハインリヒが代わって皆の前へ一歩出た。
 ハインリヒが皆の前へ見せた手の甲――左手の小指には、金色の恐らく彼の家の紋章が刻まれた大型のリングが嵌まっていた。
 余りに多くの事が起こって忘れていたが、そういえばハインリヒとコンラートの兄弟喧嘩の最中、『シグネットリング』というキーワードを拾った事を、ユピリアが思い出す。
 と、ハインリヒは小指に嵌まった指環を弄りだした。シグネットリングとはそもそも欧州貴族が自らの出自を現すものとして作られたもので、封蝋の際にこの手紙は自分が出したのだと証明する為に用いられるものだ。本来それ以上の用途もギミックも無い筈なのだが、ハインリヒがどういう操作をしたのか、彼の右手が離れると、左手にあったシグネットリングが宝石の嵌まった指環に様変わりしていた。
 しかし問題はハインリヒが行った手品の部分ではない。皆の目に映るその青い宝石は、彼等が何時も目にしていたそれと、同じ輝きを持っていたのだ。
「アクアマリーン――シュヴァルツェンベルクの始祖ルートヴィッヒ・ディーツゲンが偶然手に入れたものとされる宝石です。
 決闘相手に卑怯な手を使われたルートヴィッヒの胸の上に刃が突き刺さらんとした時に、この青い石が輝き出し彼を守った! 命をつないだルートヴィッヒは、愛の証しとしてアクアマリーンを妻へ捧げたのだ〜!
 ――って言うお伽噺がついた、僕の家に伝わる……まぁ家宝みたいなものだね」
 ヘラっと笑ってみせるハインリヒを皆がぽかんと見ていると、漸く落ち着いたコンラートが口を開く。
「アロイスはこの青い宝石に強く惹かれ、焦がれていた。私設でザクセンのライプツィヒに研究室まで持っていたくらいにね。
 しかしこれは元々家長が受け継ぎ、その妻が所有者となると決められたものだ。アロイスにはその役目は絶対に回って来ない。
 それを分かっていたアロイスは、凶行に走った。身体が弱い事で一時的にお守り代わりにそれを与えられていたローゼマリーを銃で撃ち、アクアマリーンを奪い取った。
 そして……その日からアロイスは行方不明になった」
 皆が息を吐く様な時間もおかずに、ハインリヒはそのまま核心に触れる。
「セイレーンを作った『三賢者』、三人の内二人の女はザナドゥの悪魔。もう一人がアロイスだ。
 彼等はパラミタに居る幾つもの種族の魂と肉体と掛け合わせ、音響兵器セイレーンを作り出した。
 セイレーンに使われた彼女達は、他人と混ぜられた事で自分を見失い、“複数の魂が寄り集まった個体”という中途半端な存在になってしまった。
 結果ナラカに行く事も出来ずに、真ん中の場所に留まり、新たな仲間を欲している」
 その行為は悪魔によって本能だったのかもしれない。アロイスにとっては唯一の拠り所だったのかもしれない。だが彼等は他人の命を蔑ろにし、魂を弄んだ。その結果、彼等は真のモンスターを産んでしまった。ハインリヒは、契約者達を見て頭を下げる。
「アロイスの……、義兄(あに)のした事を、家族として謝罪します」
 重い沈黙の後、口を開いたのはアレクだった。彼は今日仲間の協力で描き上げた魔方陣によってウィリを罠に嵌め、キアラ達が見つけてきたウィリの情報を元に、彼女達を現世から退けるつもりなのだと、詳しい話を契約者達に伝える。
 ――作戦はある程度プラヴダで引っ張るつもりでいるが、その時には出来れば力を貸して欲しい。
 アレクが最後に個人的な言葉を付け加えたのは、ジゼルやハインリヒの事を考えれば、せめて彼等に近しい人達がウィリを葬ってやるのがいいという情なのだろうか。


 皆が帰って静かになった広い部屋で、一人残っていたのは舞花だった。
 シグネットリングをスキルで探ってみてもいいだろうかという彼女の提案を、ハインリヒが受け入れたからである。前提としてアレクが今日仲間に話したような内容を聞いた後、舞花はハインリヒの手の甲に指を伸ばした。
「では、僭越ながら――」
 丁寧な彼女らしく改めて断りを入れ、舞花はハインリヒの「かなり遠くまで見えるから気をつけて」というアドヴァイスから精神的なショックが起こらないよう心を強くもち、リングのアクアマリンに触れる。
 そこに籠められた想いを探ろうとする彼女は、過去へ……幾千の時を越えて行く。
 アロイス、ローゼマリー、何人もの過去の人間が彼女の横を通り過ぎ、そして最後に行き着いたのは、地球で言う所の紀元前――恐らく今から5000年以上前の風景だった。
 二人の女が欧州人らしい一族へ、アクアマリンの欠片を送る。目的は実験の延長のようだが――。
「嘘だったろ」
 舞花の事を心配して彼女の背中を支える様に隣に座っていたアレクに後ろからそう言われ、彼女は精神の小旅行から帰還した。額に浮かんだ汗を顔を覗き込むようにしているハインリヒにテーブルの上にあったアメニティのタオルで拭われながら、舞花は息の上がった声で「あの……」と無意識に漏らし、一息ついてアレクとハインリヒの顔を交互に見る。
「あのお二人は…………」
「うん、僕とアレクの祖父だ」
「このアクアマリンは、元々アレクサンダル大佐のお爺様のものだったんですね」
 舞花が見た過去の一つの中に、アレクの祖父がハインリヒの祖父にアクアマリンを贈った場面が見られたのだ。
「俺も見た事すら無かったし、その辺最近知ったのは、舞花ちゃんと一緒」
 と、アレクが困った笑顔で漏らすのに、ハインリヒがぼんやり呟いた。
「あれ多分ヴィンチャ遺跡だよね。ドナウ文明って本当にあるのかな……。
 ああそういやさっきの『伝説』は、お爺様達が僕についた嘘っていうか、冗談だよ。
 まあジゼルの――アクアマリンの本来持つ能力を考えると、実際にあった事なのかもしれないけれどね。アレクのご先祖様あたりに」
 笑うハインリヒの言葉を聞きながら、舞花は自分が見たものを頭の中で整理する。あれらは――否、アクアマリンの所有者であったローゼマリーの心は、舞花が見てもいいものだったのだろうか。ふいに見上げた横顔は、舞花の心配げな顔に気付くと此方を見て薄く微笑んだ。
「この間の話と同じだよ。君が見つけた情報は、どうすべきかは君が判断していい。
 でも……見るべきか否かというのなら、ローゼマリーの心の内なんて、弟である僕の方が、見てはいけないものだったのかもしれないね」