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ホタル舞う河原で

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ホタル舞う河原で
ホタル舞う河原で ホタル舞う河原で

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 正直、高月 玄秀(たかつき・げんしゅう)は夜祭りにも、舞い飛ぶホタルとやらにも、興味はなかった。
 だけどティアン・メイ(てぃあん・めい)が行きたがるものだから。「分かった」と言ってしまった。気まぐれだ。
 案の定、ものすごい人いきれでむんとした祭りの会場に入口のところで早くもうんざりして、来たことを激しく後悔したりもしたが、ここでまさか東カナン領母のアナト=ユテ・ハダドとばったり出くわすことになろうとは、想像だにしていなかった。
「アナトさん。こんな所で会うなんて……。シャンバラへ来られていたんですか」
 驚きつつも声をかけるティアンと反対に、玄秀は数歩後ろへ下がった。
 彼女の夫、東カナン領主バァル・ハダド(ばぁる・はだど)とはいろいろと因縁の絡んだ関係で、ひと言では言い表せない間柄だった。彼女がどこまでそういった話を聞かされているかは不明だが、絶対護衛者が近くに控えているはずだ。それらしい姿が見えないのは、場所柄を考慮して、目立つなと命令されているからかもしれない。
「広目天王」
 ここは他国。カナンの法は適用されない。とはいえ、シャンバラで余罪がないとも言い難い身だ。別件逮捕後照会、移送というのはよくある話だった。追捕の手が伸びてくれば迎撃しなければならないだろう。その場合を考慮して、式神 広目天王(しきがみ・こうもくてんおう)をひそかに召喚して待機させた。
 そのまま、2人が話している様子をうかがっていると、2人肩を並べてどこかへ移動を始めた。大方、人ごみがすごいからもっと静かに話せる場所へ移動しようということになったのだろう。
「この先に、すごくきれいな場所があるって教えてもらったの。そこへ行きましょう」
 アナトが率先して前を行く。
「あまりここから離れたくないのですが……一緒に来てる人がいて」
「あら、お友達と来てるの? 紹介してくれる?」
「あの……はぐれてしまったんです」
「そう。残念ね。
 じゃあ少しだけ。わたしにつきあってちょうだい」
「……はい」
 ティアンも自分の立場は熟知している。これは罠ではないかと疑う気持ちもないではなかったが、どうしても彼女と話したかった。
 はたしてティアンの連れて行かれた場所は夜祭りの場所からそう遠くない川べりの河川敷だった。
 川のせせらぎが聞こえるだけの月明かりの下、ホタルが舞い飛ぶ幻想的な光景に、ティアンは目を見開いて動きを止める。
「ね。来てよかったでしょう?」
 言葉もなく見入っている彼女の様子に、アナトはくすくす笑った。
 それから2人でベンチに腰かけて、これまでのことをつれづれと語り合う。ふと思い出したように、ティアンが言った。
「おめでとう。ママになったんですって? 幸せそうで安心したわ」
「ありがとう。双子が生まれたの。男の子と女の子。いきなり2人の子持ちよ。一度で得した気分だったわ。名前はね、アルサイードとエルマスっていうのよ。もう今からバァルさまにそっくりなのが見てとれるの。領主家の代々の肖像画を見たらあなたも分かってくれると思うけど、あそこの一族はみんなよく似てるの。思わず私、私と似てるところはどこかしら? って探しちゃった。バァルさまったら、外見は自分に似ていたとしても、中身は私とそっくりになる、なんて言ってたけど……」
 嬉々として双子のことや夫のことを話すアナトを見て、ティアンはいつしか自然とほほ笑んでいた。
 そんな彼女の様子に少し驚いた表情をして、アナトは言葉を止める。
「あ、ごめんなさい。私のことばっかり夢中になっちゃって」
「いいえ」
「でもわたし、今みたいなあなたの笑顔、初めて見たわ」
 率直なアナトの物言いにティアンは苦笑し、ためらいながらもぽつりぽつり話し始めた。
「あのころ……。私は全てを見失っていて……近くで心を通わせるあなたたちが妬ましかった。あなたみたいに人を愛したくて。彼から愛されたくて。でもあのころの私にはそれができなかったの……。
 自分の作った幻影にばかりこだわって、真実が何か見ようとしなかったのね。でも……今は違う。あなたたちとは立場が違ってしまったけれど……私は彼に幸せになってほしい。野心を達成させることじゃない、もっと人並みの、小さな幸せを……彼が失ってしまったものを一緒に取り戻せたら……と」


 ティアンの告白めいた言葉は夜風に乗って、風下にいる玄秀の元までも届いていた。
「彼女の求める幸せに応えてやるためには……手を汚しすぎた。やはり、どこかで開放してやるべきなのだろうな……。僕の側にいる限り、彼女の望みは叶わない」
 やるせない思いが胸に押し寄せてきて、玄秀はティアンの背中から目を空へと向けた。
 ティアンという存在が自分の中で大きくなればなるほど「普通の幸せ」に応えられない自分という存在を、正面から見詰めざるを得なかった。
(本気でティアの幸せを考えるなら、ここに……僕のそばに、繋ぎ止めていてはいけないのだ)
 かつて、彼女を穢すという目的のためなら、いくらでも触れられた。何でもできた。
 だが彼女をそういう対象として見ることができなくなった今は、もう……。
 ふと目を下に向けると、広目天王がじっと見上げていた。緑の瞳はガラス玉をはめ込んだように、何も語らない。
「広目天王?」
 主君が意見を求めていると判断したのか。広目天王はおもむろに言葉を発する。
「しかし今、彼女を手放せば戦力的に打撃でございましょう。惜しくはございませんか」
 感情のない声、表情。合理で全て判断された言葉。
 玄秀は横目で見ながらつぶやいた。
「……おまえをそういう風に仕上げたのは、僕の過ちだったな…」
 一瞬、広目天王はその言葉の意味が分からないといった様子で瞳を揺らす。けれどそれは本当に一瞬で。彼は再び無表情に主君を見上げ、命令を待っていた。


「もし敵対することがあったら、ごめんなさいね。今の道が間違ってるのは知っているの。でも私がいなくなったら、彼は本当に独りになってしまうから……」
 ティアンの告白をずっと最後まで聞いていたアナトは、彼女が言葉を終えるのを待って、ゆっくりと立ち上がった。
「あなた、わたしたちが愛し合い、幸せに結ばれたと思っているのね?」
「違うの?」
「わたしとバァルさまは政略結婚よ。あのころバァルさまは簒奪者ネルガルとの戦争を前にして、内敵との和解を図ったの。つまりそれがわたしたちのおじなんだけれど。それでおじの養女であるわたしに結婚を申し込んだのよ。子どものころ、たった1度顔を合わせただけの、口もきいたことのないわたしとね。
 わたし、バァルさまにこれまで「好きだ」とか「愛している」とか、1度も言われたことがないのよ」
 ティアンは驚き、言葉を失った。何と言えばいいのか……でも、アナトはほほ笑んでいて、悲壮感といったものは見えないから、慰めの言葉はふさわしくない気がした。
「あの……ごめんなさい」
 いいえ、とアナトは首を振る。
「わたしが言いたいのは、わたしたちの心が通っているように見えたのなら、それはわたしたちが努力してそうなったということなの。何の努力もなく、ただ愛情だけを頼りに結ばれているよりも、その絆はずっと強固なものよ。わたしとバァルさまは、夫婦で、共通の目的を持つ親友なの。それを守るためなら、どんな敵であろうともわたしはあの人とともに立ち向かうわ。たとえ相手があなたや、あなたの想い人であったとしても」
 ふっとそこで表情がやわらぎ、アナトはティアンの手をとった。
「でも……覚えていてね。わたしはあなたのことを、友人だと思っているわ。ともに窮地をくぐり抜けてきた人。これだけはどんなことがあっても、決して変わらない」


 アナトが立ち去って少しして、玄秀はベンチのティアンの元へ歩み寄った。
 お互い、視線を合わさず、言葉をかけあうこともなく。
 ただ黙って、月の光の下、水面の上を舞い飛ぶホタルを見続けていた。