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皿一文字

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【四 地上 15:20】
 この世に、河童鍋という料理が存在するかどうかは、世人には知られていない。
 だが少なくとも、トマス・ファーニナル(とます・ふぁーになる)がその河童鍋を真剣に調理してみようと考えていたのは、間違いの無い事実である。
 蒼空学園の広大な前庭の一角。そこに、トマスは三人のパートナー達とともに、馬一頭が入る程の巨大な鍋を用意し、仕込みに取り掛かっていた。
「UMAだけに、ウマサイズの鍋が丁度良い、なんてね」
 くだらない駄洒落を呟きながら、トマスは牛刀を振るい、まな板上の京葱を、だんだんだんとぶつ切りにしてゆく。
 その傍らで、魯粛 子敬(ろしゅく・しけい)が大笊に水を張って、大量の白菜を洗っている。白菜を洗う英霊というのも、なかなかお目にかかれない。
「流石に旬物の白菜。ぎっしり葉が詰まって、歯ごたえありそうですなぁ」
 子敬が手にした白菜を、妙にうっとりした表情で眺めていると、その前を配膳で忙しく走り回っているミカエラ・ウォーレンシュタット(みかえら・うぉーれんしゅたっと)が通り過ぎてゆく。
「ほらほら、手を休めている暇は無くってよ? いつ皆さんが河童を仕留めて戻ってくるか、分からないんですからね」
「あいや、これは失礼しました」
 呑気にはははと笑う子敬だったが、釣られて笑うトマスとミカエラの表情が、直後に凍りついた。
「なぁ……誰か、河童を生け捕りにしてきたって話、聞いたか……?」
 テノーリオ・メイベア(てのーりお・めいべあ)が鍋の上を半ば愕然と見上げながら、誰に対してともなく問いかける。
 一体何の話をしているのかと怪訝に感じた子敬が顔を上げると、いつもの穏やかな表情が、この時ばかりは他の面々と同様、驚愕に引きつって固まってしまった。
 大量の水を張った大鍋の上に、濃緑の巨人がのっそりと佇んでいたのである。
 直後。
 四人の悲鳴と怒号が、前庭全体の空気を激しく揺らした。

 同じく蒼空学園の前庭。トマス達の大鍋が視界の端に見える位置で、童子 華花(どうじ・はな)アストライト・グロリアフル(あすとらいと・ぐろりあふる)と一緒に遊んでいた。
 丁度かくれんぼを終えて、次は何をしようかと相談していたところで、大鍋付近からの騒ぎである。華花とアストライトは揃ってその方角に視線を飛ばし、同時にぎょっとした顔になった。
「ねぇアス兄ぃ……あれ、何?」
 不安げに問いかける華花に、アストライトは険しい表情で大鍋方向に視線を固定したまま、曰く。
「……華花、今度は駆けっこでもしようか」
 低い声音が、事態の容易ならざるを如実に物語っている。
 華花の華奢な両脚が、がくがくと震えだした。
「そっち、行きましたよ!」
 大鍋方向から、トマスの警鐘を鳴らす叫び声が届く。巨大河童が矛先を転じ、華花とアストライトめがけて駆け出そうとしていた。
「走れ、華花!」
 アストライトが華花に振り向いて、激しい口調で指示を出した。
 華花は、しかし動けない。恐怖で両脚が震え、全身が硬直し切ってしまっていた。
「危ない!」
 再度、トマスの声。
 反射的に振り向いたアストライトの目と鼻の先に、濃緑の巨人が迫っていた。そして、直後の惨劇。
 華花は悲鳴をあげる余裕も無く、ただ呆然と、その光景を見ているしか出来なかった。

「華花!」
 破壊の嵐が吹き荒れたばかりの前庭に、リカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)の切迫した声が響いた。中原 鞆絵(なかはら・ともえ)と並んで駆けつけてきた彼女の目の前でひたすら泣きじゃくる華花と、かつてアストライトだった無残なミイラ姿が、実に対照的な印象を放って、そこにある。
 干からびた醜い容貌でありながら、妙に満足げな笑みを浮かべるアストライトのミイラ姿と、無事に生き残ってひたすら泣き続ける、愛らしい幼女の華花。これ程皮肉な、ふたつの表情の対照も無いだろう。
 ここで何が起きたのか。
 リカインは涙声でしゃくりあげる華花から一応の事情が聞いたものの、更に客観的で精確な情報は、同じ前庭で巨大河童と遭遇したトマス達からの声に拠るところが大きい。
「申し訳ありません。僕達がもっと上手く立ち回っていれば、こんなことにはならなかったのに……」
 沈痛な面持ちで詫びるトマスに、リカインは小さくかぶりを振って答えた。
「あなた方には何の責任もありません……どうか、そうご自身を責められないよう」
 いいながら、リカインはひっくり返った大鍋や周辺の具財、調理器具などを、どこかやるせない表情で見渡した。
「これから食おうとしてた奴に、逆に襲われるなんてな。笑い話にもならねぇ」
 テノーリオのがっくりした声を半ば無視する形で、鞆絵がトマス達に問いかけた。
「それで、その河童の化け物は、今はどこに?」
「あぁ、それなら……」
 ミカエラが、痛めている左肩を押さえていた右手を浮かして、講堂方面を指差した。
「真っ直ぐ、向こうに駆けていきました」
 その言葉を聞き、華花をなだめていたリカインがゆっくりと立ち上がった。講堂に続く夕方の低い空を、じっと凝視する。
 それからややあって、リカインは華花に、諭すような口調でいう。
「良いこと? 華花はここで、お留守番」
 反論を許さない、静かで確固たる響きだった。華花が一瞬、ビクっと肩を震わせる。
「申し訳ありませんが、この子の面倒をしばし、お願い出来ないでしょうか。ご迷惑は承知の上です」
 リカインの意図を察した鞆絵が、トマス達に頭を下げる。
 トマスは慌てて両手を前に突き出して、左右に振った。
「そんな、迷惑だなんて……! もちろん、お引き受けしますよ!」
 だが結局のところ、トマス達による華花の保護は、完遂されずに終わる。何故ならば、リカイン達が河童を追って前庭を去った直後、華花は何もいわず、トマス達の前から姿を消したのだ。
 華花は、責任を痛感していた。
 指示に逆らってでも、華花はリカイン達の後を追うと決めたのである。

 一方、講堂では。
「ルカルカ様、来ました!」
 翔の緊張に満ちた声が、ルカルカの鼓膜を刺激した。
 ふたりは講堂の正面玄関前で、中庭方面に対面する位置に佇んでいた。いずれも、それぞれの得物を手にしている。
 巨大河童の接近を、既に察知していたのだ。
 学舎が立ち並ぶ教棟群の間に、あの濃緑の巨体が姿を見せていた。
「一番近くに配置してるのは誰?」
 迫り来る巨大河童を凝視したまま、ルカルカが問う。翔は決して慌てず騒がず、胸元の内ポケットから取り出したメモ帳のページをめくって即答した。
「……第二部活会館前の、ウィング様でございます」
「すぐに呼んで」
 ルカルカの指示を受けるまでもなく、翔は既に携帯電話を取り出してオートダイヤルで発信していた。こういう場合の対応の素早さは、流石というべきであろう。
 片やルカルカは、ゆっくりとした歩調で迫り来る濃緑の化け物から一瞬たりとも視線を外さない。その全身から、余人であれば卒倒してしまいそうな鬼気が、奔流のように噴き出していた。
(絶対に)
 ルカルカは、手にした片手剣に光条の輝く力をみなぎらせる。
(ダリル達の邪魔はさせない)
 その決意に抗するかのように、巨大河童の耳障りな咆哮が、キャンパス全体を轟と震わせた。
 ザカコが慌てて、講堂から飛び出してきた。最初こそ驚いた様子のザカコだったが、既にルカルカが臨戦態勢に入っているのを見て、すぐに気持ちを引き締めた。
「ルカルカさん、もし自分の手伝いが必要な時は、いつでもいってください。準備は整ってますから」
 いいながらザカコは、腰に吊るしたカタールを軽くぽんと叩いてみせた。