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【五 地下用水路 15:45】
 地下用水路の特設キャンプルーム内には、生徒達の疲れ切った吐息が充満していた。だがその一方で、ひとまず安全なところに逃げ込むことが出来たという安堵感が漂っているのも否めない。
 キャンプルームのたったひとつしかない金属製ドアと、その左右に壁は、生徒達が魔力や術を駆使して、必死の思いで防護を固めてある。
 その強固なバリケードが、彼らの心の拠り所になっているといって良い。
 そんな中でただひとり、引率者たる博季だけは緊迫した面持ちで、板敷きの床に広げた図面を食い入るように見詰めている。
 その傍らから、ナギが不安げな色を浮かべて覗き込んできた。
「先生、何か……気になることでも?」
 ナギにしてみれば、引率者がひとりだけ深刻な顔つきを見せているという状況に対し、清掃班の生徒達が不安に感じるかも知れないという危機感のようなものを覚えていただけに、黙って見過ごす訳にはいかなかった。
 すると博季は指先で招く素振りを見せた。ナギに、耳を貸せ、といっているのである。
 ナギはいわれるがままに、自身の耳元を博季の唇近くに寄せた。
「ここ、変だと思いませんか? このキャンプルームの南北で、水路が途切れているように見えるんです」
 博季が指差す図面の、その一角。ナギは初めて気づいたように、口の中で思わずあっと声をあげかけた。
「先生……まさか、ここは……」
 喉をごくりと鳴らし、ナギはようやく、博季がいわんとしている意味を理解した。それからふたりは、図面脇の板敷き床を見た。
 この真下に、あってはならないものが、存在するのである。
 博季は図面を手にしたまま、ゆっくりと立ち上がった。生徒達がそのただならぬ所作に、不安げな面持ちを向けてきた。
「良いですか皆さん。落ち着いて聞いてください。もう少し、こちらの壁の方に……」
 だが、博季の指示は最後まで告げられずに終わった。突如、板敷きの床が下から突き上げられる形で、水飛沫とともに破裂したのである。
 完全に不意を衝かれた。

 轟音、悲鳴、怒号。ぱらぱらと飛沫が散る、軽快な水音。
 キャンプルーム内はそれら種類の異なる音が縦横に入り混じり、一瞬にして阿鼻叫喚の大混乱に陥った。
 床板が次々に破られ、濃緑の化け物どもが躍り上がる。そんな中、雨宮 七日(あめみや・なのか)の左右にも河童の群れが迫った。
 しかし七日は動じる気配すら見せない。彼女にとっては、自身に迫る危機さえも、他人事のように映ってしまうのだろうか。
 だが流石に、パートナーたる日比谷 皐月(ひびや・さつき)は無反応ではなかった。
 七日の腰元に延びる汚らしい鉤爪の手を遮るように、皐月は間に割って入った。
「おい、何ぼさっとしてんのさ。こんな奴ら、さっさと……」
 そこで、皐月の声が途切れた。というよりも、それ以上は続けられなかった。彼は腰付近に、激痛を覚えていたのである。
 脂汗が浮かぶ面を、自身の背後に向ける。皐月は、床板を突き破って垂直に伸びる醜い腕から先が、己の腰椎を鷲掴みにしている事実を体感で悟った。
 直後、彼の全身から水分が失われ、見る見るうちに体表が干からびていく。その様を、七日は相変わらず茫漠とした表情でじっと見詰めていた。
「皐月……」
 七日は、崩れ落ちたパートナーを見下ろしたまま、背負っていた得物を手に取る。いつしかその頬には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「私から、皐月を奪おう、などと……馬鹿な、ことを」
 瞬間、七日の目の前に殺到してきた河童の一群が、弾けるように吹っ飛んだ。更に別方向から、一切の躊躇も恐怖も無く、河童の鉤爪が次々に伸びてくる。
 周囲は蒼空生徒達の悲鳴や逃げ惑う姿で埋め尽くされているが、七日の居る、その一点だけは違った。
「本当に、馬鹿です……誰も彼も、馬鹿ばかり……!」
 七日は仁王立ちになった。逃げようという意思は、微塵にも無い。

「フィリッパさん! 危ない!」
 背後で、誰かが叫んだ。同時に背中を強く押され、前のめりにつんのめった。
 フィリッパ・グロスター(ふぃりっぱ・ぐろすたー)は、態勢を立て直しながら振り向いた。見ると、引率者の博季が抜け落ちた床板の間に引きずり込まれ、水中に没しようとしているところだった。
「先生!」
 ナギの悲鳴で、フィリッパはようやく事態を察した。自分は、危ないところを救われたのだ。
「なんと、こんな、わらわの為に……」
 申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちが複雑に絡み合う一方で、フィリッパは、博季が水中に没する際に見せた満足げな笑みに、胸が痛む思いを感じた。
 だが、生徒達の間には更なる恐慌が広がった。
 引率者たる博季が、敵の手に落ちたのである。この後一体誰が、彼らを無事に地上へと導いてくれるというのだろう。
 その時、予想外の事態が生じた。
 突然、金属製ドアのある側とは反対の壁が、大地を揺るがす程の衝撃と鳴動を伴って、砕け散ったのだ。
 砂埃が濛々と舞い上がる中、ふたつの人影がキャンプルーム内を、恐る恐る覗き込んでくる。
「……あれれ、変なところをぶち抜いてしまったようですぅ」
 この大混乱のさなかにあって、緊張感に欠ける声が悲鳴や怒号の間で静かに呟かれる。キャンプルームの壁を盛大に破壊した張本人レティシア・ブルーウォーター(れてぃしあ・ぶるーうぉーたー)は、何となく気の抜けた表情で頭をぼりぼりと掻いた。
 地下用水路内に落とし穴を仕掛ける、という発想のもと、どこに穴を開ければ良いかと試行錯誤を重ねてきたレティシアだったが、何を間違えたのか、キャンプルームの壁を室外から叩き抜いてしまったのだ。
 で、中を覗いてみると、この大惨事である。
 傍らで、ミスティ・シューティス(みすてぃ・しゅーてぃす)が面食らった様子で鼻を鳴らした。
「ちょっと……呑気に落とし穴作ってる場合じゃないみたいよ」
 ミスティのそのひと言が、呼び水となった。
 キャンプルーム内で河童の群れによる一方的な攻撃を受けていた清掃班の生徒達は、レティシアが開けた巨大な壁穴に向かって、我先にと殺到してきたのである。
 誰もが、この恐怖の一室から脱出しようと必死になっていた。

 だが、地下用水路内には最早、安全地帯と呼べるような箇所はどこにも無い。
 やっとの思いでキャンプルームを脱した生徒達の前に、またもや河童の群れが行く手を阻んでいた。
「そ、そんな……!」
 博季に代わって生徒達の先頭に立っていたフィリッパが、濃緑に染まるぬめった肌の壁を前にして、思わず絶句した。
 河童の群れが一斉に甲高い咆哮をあげた。地下用水路を構成する方々の通路が、地震にでも遭ったかのように激しく鳴動した。
 しかし、凶悪な雄叫びは、すぐに断末魔の悲鳴に取って代わられた。
 河童の群れの更に背後から、何者かが空中を滑るように跳躍し、フィリッパ達の前にふわりと着地する。その際、数撃にわたって打ち込んだ攻撃が、何体かの河童の頭部を襲い、黒い皿を叩き割っていた。
「あぁしまった。河童巻きを乗せる分の皿を残しておかないと、いけないんだった」
 呑気にいい放ちながら、忍は心底後悔したような顔を見せて立ち上がった。
 カガチと真、そして舞といった面々から、清掃班の救出を依頼された格好の忍だったが、自分の目的もきっちり果たしたい様子であった。
「おぉい、桜葉さん! そっちには届いたかい!?」
 エヴァルトが河童の群れの向こう側で、派手なデザインのパワードスーツに覆われた両手を、これまた随分と大きな所作で振り回していた。
「十分過ぎるぐらい、飛距離があったよ。しかしおたくの機晶姫さん、良い投げっぷりだったね」
 忍の妙に感心したようなひと言に応じて、河童の群れの向こうからは、えへへとはにかむ少女の笑い声が返ってきた。
 そして更に。
「あれ、フィリッパ……なんでまた、そんなところに?」
 河童の群れの向こう側から三郎に呼びかけられ、フィリッパは目を白黒させた。ふたりはパートナー同士であるにも関わらず、お互いの位置を今になるまで、全く把握していなかった模様である。
「おやおや、甲賀さん。パートナーさんもご一緒だったんですか?」
 エッツェルの、どこか呆れ果てたような声が続いた。
「いや、じゃからな、喋る前に動けと、私があれ程……」
 信長のぼやきはしかし、清掃班の生徒達があげる歓声に、見事にかき消された。

     * * *

 キャンプルームを脱出した清掃班の生徒達は、強力な援軍の登場に、沸きに沸いていた。
 その一方で、ただひとり、地下用水路内を逃げ惑っていた秋葉 つかさ(あきば・つかさ)はといえば、絶体絶命のピンチに陥っていた。
 華奢な体躯を、コンクリート製の冷たい壁に背中を押しつけるようにして預け、迫り来る河童の群れを、涙が滲む大きな目で見詰めている。
「こ……こないで、くだ、さい……」
 声の震えが止まらない。奥歯がかちかちと鳴り、呼吸が激しく乱れていた。
 正面に陣取る河童が、一歩前に踏み出した。と同時に、どこからともなく、聞き慣れない声が響く。
「せーの……瀬をはやみ岩にせかるる滝川の!」
 するとその直後、つかさの眼前に迫る河童の頭上に、人影が舞った。
「割れても末に……と、このようなもの、どうしようもないわっ!」
 杖が宙空で回転し、河童の頭上に振り下ろされる。硬い物が割れる音が鳴り響き、つかさに迫ろうとしていたその河童は、悶えながら昏倒した。
「いや、どうしょうもないっちゅうてもやな、やらなしゃあないやろ」
 大久保 泰輔(おおくぼ・たいすけ)の間延びした声に対し、たった今、河童を一体仕留めたばかりの讃岐院 顕仁(さぬきいん・あきひと)が、やれやれと首を左右に振って立ち上がる。
 だが、敵を全て殲滅した訳ではない。顕仁の左右から、更に複数の河童が迫ろうとしたが、その前に、シズルと美羽が素早く割り込んできた。
「つかさ!?」
 若干驚いた様子のシズルの傍らで、美羽がツインテールの髪を上下に揺らしながら吼える。
「はい、そこ! 余所見しないの!」
「……いえ、別に気を抜いた訳では……」
 シズルの弁解がよほど可笑しかったのか、後方に控えていたベアトリーチェがくすくすと肩で笑った。
「ベアトリーチェさん、妙なところでツボにはまるんですね」
 出る幕無しと判断したのか、巽はベアトリーチェの傍らで呑気に佇み、まだ笑い止まらない彼女の様子を不思議そうに眺めていた。

「あぁっ! シズル様っ!」
 物凄い勢いで抱きついてきたつかさを、シズルは完全に持て余していた。
「なんや、変な空気になってきとんな」
「ここは見て見ぬふりをするのが風流人のたしなみぞ」
 一向に助ける気配を見せない泰輔と顕仁に、恨みがましい視線を送っていたシズルだが、突然、上着の内ポケットから携帯の着信メロディーが流れてきた。
 これ幸いとつかさを押しのけ、シズルは携帯を取り出した。
「あぁ、シズル様……私などよりも、そんな冷たい小物の方が大事だなんて……」
 よよよと泣き崩れるつかさを尻目に、シズルは努めて表情を消しながら、通話に応じる。だが、その顔色が見る見るうちに青ざめていった。
 一同はそのあまりの変貌ぶりに、不安を抱かざるを得ない。
「校長からだよね? 何ていってきたの?」
 シズルが通話を終えたところで、美羽が、恐る恐る問いかけた。
「今聞いたことを、そのまま伝えます」
 曰く、地下用水路の各ポイントに設置されている監視カメラが、津波のように押し寄せる河童の大群を映し出していたという。
 その数は、数千という規模らしい。
 とてもではないが、ここに居る面々だけでどうにかなる数字ではなかった。
「そらまた、えらい極端な話やなぁ……」
 緊張した面持ちで泰輔が呟いた直後。
 地下用水路が、それ自体がひとつの鳴動装置にでも化したかの如く、巨大な地鳴りと震動でシズル達を戦慄させた。
 震源は、最早問うまでもない。
「は、早く! 外に!」
 シズルの切迫した叫びに、一同は急ぎ、地上を目指した。